第2章 リレー作戦

第17話 ちっぽけな自分も顧みずに

 ハチドリが去った後、物音しないがらんとした空間にしばらくたたずんでいた。


 しばらくして、ヘイト・スプリガンが二十四時間以内に冥王を殺す、と言ったことが頭を過ぎる。


 こうしてはいられない。


 何としても現状の戦力で作戦を立てなければ、冥界がどうなるか知れないのだ。


 現場での様子を見る限り、冥王軍はあまりあてにできそうになかった。


「一頭身にも馴染んだな……」


 うなだれて大きなため息をついたウィーナは、渋々と立ち上がり、とりあえずニチカゲは後にして、なんとなくシュロンのいる魔法研究室に向かおうと、正面の大階段を上がろうとした。


「ウィーナ様、行っては駄目です!」


 突如、階段の上から切羽詰った男の声が聞こえてきた。


 ウィーナの屋敷の一階の大広間は、天井が吹き抜けのエントランスホールとなっており、この位置から二階の、手すりのついた階段周りの廊下が広々と見渡せる。


 然るに上を見ると、小うるさい羽音を鳴らしながら、階段の段差に沿ってこちらに滑空してくる男がいるのだ。


 彼は体のいたるところが緑色の外骨格で覆われており、顔の上半分も真っ赤な複眼と二本の触覚を有する外骨格である。そして、鼻から顔の下半分が人間のものだ。目で表情をうかがえない分、キリッと引き締まった力強い口元が幾分余計に主張してくる。羽音は、彼の背中に生えている透き通った四枚の羽から出ているのである。


「お前は、ゲッケン!」


 ウィーナの前にやってきた昆虫人間は、名をゲッケンと言い、下っ端の平従者である。立場的には、幹部従者であるシュロンの直属に当たる。ゲッケンは肩に小ぶりな風呂敷包みを背負っており、見たところによると、これからこの屋敷を去るところだったらしい。


「いますぐここから逃げて下さい!」


 ゲッケンは自分の拳を硬く握り締め突然ウィーナに訴えた。ウィーナの一頭身の姿に対しては全くの無反応である。


「どうしたと言うのだ?」


 意味が分からず、反射的に質問した。


「シュロン殿がウィーナ様を狙ってます! あの部屋! 殺気! 俺は分かるんです」


 言葉通りに解釈すると信じられないことであるが、このゲッケンの必死な様子はとても嘘だとは思えなかった。


 彼が真実だろう。ウィーナは、状況の理解より行動が先だとすぐに悟った。


「分かった! 行くぞゲッケン」


 ウィーナは気色悪い二本の脚を存分に動かして玄関まで走ろうとしたが、突然、手にも触れていない前方の玄関がガチャリと音を立てた。鍵が独りでに閉まったのだ。一階の、各部屋の扉も同じように音を立てて閉ざされた。


「あああっ! 施錠の術だ!」


 ゲッケンが叫ぶ。


「シュロンか!」


 ゲッケンと共に辺りを見回したが、彼女の姿は見えない。だが、どこからか監視されている気配は確かにあった。


「窓を破ります!」


 ゲッケンは、二階の階段周りの廊下に並ぶ窓を指差し、すぐにウィーナの前へ走った。


「さあ、自分の背中に! 飛びます!」


「すまない!」


 ウィーナはゲッケンの背中に巨大な頭部を預けようとしたが、彼の風呂敷が邪魔となってうまく負ぶさることができない。元々、頭が大きすぎて体のバランスがあまりよくないのだ。


「ううっ! もうこんなもんいらねーや!」


 ゲッケンは風呂敷包みを紐解き、踏ん切りをつかるかのごとく、力強く床に投げ捨てた。それに伴って風呂敷包みの中身がこぼれだす。


 中には、ひびが入った粗末なパン切れ、手傷を癒す傷薬などというちょっとした物に加え、よく分からないお守りのような首飾りに、何度も読み返した感じの、ぼろぼろの手紙のような紙切れまで入っていた。


 おそらく、この荷物の価値が分かるのはこの世でゲッケン本人のみであろう。


「行きます!」


 床に散乱したそれらに目を移していると、突然、ゲッケンの硬く冷たい手に腕をつかまれ、乱暴に背負われる。


「俺の羽音結構うるさいけどすいません!」


 言うと同時に、ゲッケンは勢いよく水晶のような羽を振動させ床から浮き上がり、二階の廊下に並ぶ窓の一つを目がけて突撃する。


「茨の術」


 耳の奥で、シュロンの声が鳴り響いたような気がした。


 同時に、ゲッケンの肌の表面から、人間の腕ほどの太さはある触手のようなつるがシュルシュルと生え、彼の羽に侵食する。


「ぎゃああああっ!」


 飛ぶことを封じられたゲッケンは、蚊トンボの如く一階の床に舞い落ちた。


 しかし、ゲッケンはこの状況下において、まだ自由の利く両手にて自分がウィーナの下敷きになるような体勢に移し変えたため、ウィーナ自身はそれほどの痛手はなかった。


 一方、ウィーナの体重ごと床に叩きつけられたゲッケンは口から真っ青な血を吐き出し、苦悶の表情を作り出していた。


「ゲッケン! 愚か者め、なぜわざわざ私の下に! そんなになって!」


 ウィーナは巨大な顔に汗を流し、ゲッケンに詰め寄った。


「……本当ですよ。何やってんだ俺は、一体、何で俺はこんな馬鹿なことやってんだ。畜生……」


 台詞の終わりと共に、再びゲッケンの口から血が吹き出て、床を青く染める。


 ウィーナはすぐに、彼の体を蝕むつるをむしりとろうと、野太い腕でつるをつかんだ。


 その瞬間、つるから鋭いトゲが突き出る。


「つっ!」


 刺激的な痛覚に、ウィーナは反射的に手を引っ込めてしまった。


「逃げてくだ……ああああああああっ!」


 ウィーナはハッとして目を見開いた。


 つるは既にゲッケンのほぼ全身に絡み付いており、ウィーナが触れた箇所と同じように、そこかしこから鋭いトゲが生え、ゲッケンの体にじわじわと食い込む。


 救いたかった。すぐにこの茨を切り裂きたかったが、一頭身のウィーナには剣がない。丸腰なのだ。


 自分もトゲに刺さるのを覚悟で、何とか今一度ゲッケンに巻きつく茨をつかもうと手を伸ばしたが、今度はウィーナの体からつるが生え、一瞬にして手首足首に絡みついた。


 体の自由を完全に奪われ、どうすることもできない。ゲッケンの悲鳴がなおも屋敷に鳴り響く。


「シュロン! ゲッケンを放せ! 私が目的だろう、やるなら私をやれ! 聞こえてるだろう!」


 ウィーナの訴えも虚しく、トゲは鋼鉄のように硬いゲッケンの外骨格にヒビを入れ、その内側にある柔らかい肉体をスルスルと貫通する。


「げあああああっ! ああーっ!」


 茨はさらにゲッケンを締め付けた。


 彼の外骨格の破片がまるでアイスピックで砕いた氷の破片のように床に飛び散り、骨格の隙間から、青い血と油のような体液が搾り出される。


「ゲッケン!」


 茨は一気に収束し、彼の四肢や骨格がまるで食いちぎられたかのように床に散乱する。かろうじて、頭と胴と片腕だけが残った。


「……ウィーナ様……早く、逃げるんです」


 生命力が強い昆虫種族であるゲッケンは、不幸にもこれほどの痛手を受けても死に切れなかった。なおも、ゲッケンは息絶え絶えに体を震わせ、ウィーナに逃亡を呼びかけている。


 しかし、ウィーナもつるに体を締め付けられ身動きが取れない。


「すまぬゲッケン。お前の助け、活かせそうにない。かくなる上はせめてもの詫びとしてお前と共にここで殺されよう。許せ」


 ウィーナは、自分一人だったらまだ悪あがきしたかもしれない。


 だが、自分のために苦しんでいるゲッケンを見ると、彼の訴え通りに逃亡を図るよりは、側で一緒に死んでやるほうがせめてもの救いになるかと思えたのである。


「さすがはウィーナ様、聡明ですわ。無駄な抵抗だということがご存知のようで」


 声は二階から聞こえてきた。上を見ると、魔法研究室に続く廊下の奥から白いローブを身にまとった長髪の女、シュロンが姿を現した。彼女は、涼しげな眼差しでうっすらと微笑みながら、こちらを見下ろしている。


「シュロン! 貴様、何のつもりだ!」


 シュロンは黙って階段を下りながら、白く細い腕を交差させた。すると、ウィーナの体を締め付けるつるが余計にきつくしまった。思わずウィーナは顔に苦悶の表情を作り出した。


「ウィーナ様、最早あなたに女神の資格はありません。この私が、あなたの後を引き継いで女神になってさしあげますわ」


「……何を企んでいる?」


 もはやこうなっては何が起きても驚かなかった。


「……ああっ! そんな目で私を見ないで! 萌えてしまいますわ」


「何?」


「萌えて、その、私、先ほどのことで、一頭身萌えに目覚めてしまったんです!」


 シュロンは今までの冷静な態度とはまるっきり反転し、非常に興奮したようすになり、ローブの内側からペンとスケッチブックを取り出して、つるに巻きつかれているウィーナのラフスケッチを夢中で書き始めた。


「貴様、殺すなら早く殺せばどうだ!」


 痺れを切らしたウィーナは今できる精一杯の虚勢を張った。


「そうはいきません。サークルの同人誌の締め切りが迫っておりますので。だって、この私が女神に転生する記念作ですもの」


 楽しそうに笑みを浮かべながら、シュロンはペンを走らせ続けた。


「私を呪術の生贄に……」


「ええ、既に研究室では魔方陣も描き上がって準備ができてます。あとは、最後の材料、『神の血』さえあれば……、私は、女神に生まれ変われる! ホーッホッホッホ!」


 シュロンは癇に障る高笑いをして、恍惚の眼差しでウィーナをまじまじと凝視する。


「でも、その前に、この見事な一頭身を描いておかないと。ウィーナ様の血を茨で絞り取る様子、きっと美しいですわ……」


 シュロンが言い終わると、体に巻きつくつるの先端がウィーナの口の中に素早く突っ込まれた。これではしゃべることもままならない。


「フフフ……、できれば血を搾り取られる悲鳴を聞きたいですけど、こうでもしないとウィーナ様は舌を噛み切ってしまわれますから」


 こんな女のために自分の身を捧げ、女神に転生させてしまう。自らの生を締めくくる際に、最悪の汚点を残すことになってしまった。


 ウィーナの頭の中に、十年前、自分が加護していた国の民達を思い返す。勝利を人に与える一方、敗北の運命を与えられた者達が山ほどいた。


 人を救うよりは、人の世を正しく安定させ導くのが勝利の女神の使命とはいえ、シュロンのような者を女神にさせてしまうのは、敗北者にされた下界の民に申し訳が立たない。


 視線を動かすと、床に横たわっているゲッケンは、もはや声を出す気力も無くヒクヒクと痙攣している。


「ウィーナ様も、ああなるのです。あの汚い虫ケラのように。つるは私の意思次第で身を引き裂く茨となる。さあ、そろそろ血を採って儀式を始めましょう」


 ウィーナの目から、一筋の涙が流れた。


「その同人活動待った!」


 シュロンが静かに歩み寄ってウィーナの頬を撫で回したそのとき、どこからか男の声が聞こえた。


 すると、前方の柱の影から一人の人物が飛び出してきた。


「ロシーボ!」


 シュロンが声の方角を射抜くように見つめた。


 その男は、ウィーナの部下である幹部従者、ロシーボである。痩せ型のやや小柄な体格で、灰色のすすけた工兵服に身を包んでおり、頭にはバイザー付きの装甲が施された帽子を被っている。


 彼はシュロンを敵意を向けた視線でにらんだが、目が大きく視線が柔らかで、元々飄々とした顔つきのため、どうも頼りない。


「シュロンちゃん、年の割にはちょっとはしゃぎ過ぎなんじゃないか? ヤンチャとワンパク、はき違えてんじゃねえぞ!」


「あなた、そんなところに隠れていたの?」


 シュロンがヒステリックに叫ぶ。


「俺は自分が恥ずかしい。一人だけ隠れて助かろうなんて」


 ロシーボはゲッケンの方へ歩いていき、彼の前でひざを突いた。


「悪かった。隠れてた。怖かった。許してくれ、ゲッケン」


 ロシーボはうなだれて、力無く謝罪した。


「ロ、ロシーボ殿……。と、とどめを……」


 ウィーナの位置からはよく聞こえなかったが、多分口をパクパクさせてそう言ったのであろう。


 ロシーボは腰のベルトから、明るく輝く細身の短剣を取り出して、ゲッケンの喉に刺した。


「お前の後悔、染み込ませた」


 彼はゲッケンの青い血で染まった短剣の刃を眺めてそう言った後、立ち上がってシュロンに向き直る。


「ロシーボ、またいつものおふざけかしら?」


 シュロンは意に介さずといった様子で笑い飛ばした。


「今のお前ほどふざけた真似はしないつもりさ」


 ロシーボは意に介さずといった様子で短剣の切っ先をシュロンに向けた。

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