2020年の軌跡
愚かだ。
実に、実に、愚かな話だ。
愛する人が死んだ。
その悲しみに耐えられなかった。耐えられるはずがなかった。だから自分は逃げるようにその場を後にした。
彼女の声の残る、彼女の色の残る、彼女の影が残る、学園から。這い出すように、逃げるように。けれども彼女はそれを簡単には許してくれなかった。
世界のどこに行こうとも彼女はずっと憑いてきた。
或いはそれは、未練がましくも視ている幻覚のようなものだったのかもしれない。
だから間違えたのだ。
己の本分を、在り方を、存在を、わきまえているつもりになっていた。正しくその価値を、真価を、見積もっているようなつもりになっていた。
その訃報が届くまでは、本気で正しいつもりだったのだ。
乾いた喉を唾液で潤し、もつれる足で必死に走り、ほとんど体当たりするような勢いで私は、暗く閉じた学園の扉を開いた。
「ッ、おい!」
吠えるように一報。土足のまま廊下に上がる。
数年前まで、愛する少女が自ら命を敵の前に投げ出すまで、彼はここに所属していた。彼女が命を投げ出したときに、また会おうとここにいる仲間と別れを告げたのが、一昨日のことのようだ。
「ラン! ハヤト! つばさ」
一人ずつ弱々しく名前を呼んでいく。
誰か、誰でもいい、早く返事をしてくれ。この一枚の紙切れにかかれた全滅の二文字が、嘘だと、誰か自分に教えてくれ。
「……ッ……誰、か!」
「お待ちしておりました」
かけられた声は低く。廊下を照らすのは薄暗いカンテラの灯りだった。そこに立つのは執事のような男、豆内 安男という、なんの接点もなかったはずの男だった。
「お嬢様――翼お嬢様に頼まれ、私はここに残っております。私を除けばここにいるのはサタン様お一人です」
「………………そうか」
ホットミルクから上る湯気が静寂を縫うように昇る。延々と淡々と。
「…………………………責めないのか」
「責めてほしいのですか」
「…………別に、自惚れてる訳じゃない。だがオレが、ここにいれば、なにかが変わったんじゃないか?」
豆安の瞳は何を考えているのか分からない。メガネ越しに人の心が読めるような人ではない。だけど。
自惚れでも、傲慢でも。
思わずにはいられない。
ここにいなかった、大事なときにいなかった、愚かな男が――間違えなければ。
「……
「…………チャンス?」
「
もう分かっている。
傍まで、喉の奥まで、絶望が手を伸ばしている。その絶望の名前をなんとするかは、ひとによるだろう。
「……地表の80%が、数ヵ月前、彼岸花に覆われたそうだ」
「はい?」
「彼岸花。学名はリコリス・アジアータ。ヒガンバナ科ヒガンバナ属の植物で赤い花弁が特徴的だ。この花は、今回の異常性が広がると同時に分布域を広げていった。本来は秋に咲き、初夏に散る花だ。だが今は、その季節を無視してこうこうと咲いてる」
この学園の庭が食い荒らされるのも時間の問題だろう。
「心臓を抜き取られた被害者も七割を越えた。豆安。私は、勘違いをしていた。私は、私がいなければ誰もが幸せになれると……誰も傷つかないと、本気で信じていたんだ」
彼は嘲るように顔を覆う。その手に握られた、たった一言の託す言葉が、彼の在り方を決定的に決めていた。決め続けていた。
「オレは、間違えた。間違えたんだ。オレさえいなければ胡蝶は死ななかったと、証明したかった。でもそれすらも間違いだった。なあ、豆安、責めてくれ。お前がいれば自分の大切な人が死ななかったと」
「責めたところで、何も」
「戻らなくても責めてくれよ!! どうしようもない人間だと! そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃこんな手紙は届かなかった!!」
血に濡れた一言。
世界を助けて。
そう書かれた新聞紙の破片が地面に落ちる。それは学園の壊滅を知らせるために発行された新聞だ。
「
「オレはもう誰にも死んでほしくなかった、傷付いてほしくなかった、笑っていてほしかった。その為なら遠くから祈るのだって辛くなかった。君たちの……君たちの幸福を、遠くから祈るだけで……オレは、それさえもてれば、良かったんだ」
砂粒のような、吹いたら飛んで消えそうなその言葉が落ちた。自分を切り刻むようなその言葉に、豆安も床に膝をつく。
「……行けば死にます」
「分かってる」
「お嬢様が、最後の砦になれと私に言いつけました」
「……そうか」
「私は、共には行けません」
「それでもだ」
燃え盛るような赤い瞳が、暮明の中で燃えてる。篝火のような、星のような、太陽のようなそれを見て、ストンと府に落ちた。
きっと誰もが、最期にこの光を思いだし、そして希望を思い出したのだ。
「死ぬことだけが、死に逝くことだけが、最早オレに許された在り方だ。殉死だけが栄誉だ。そしてその死は、相討ちにならなければならない」
恋い焦がれる太陽の、照り付ける光の色をした覚悟。死ぬというのに、今更こんな風に眩く輝いている。それを、それを。
(……見送ることしかできないのは、酷なことですね)
カンテラの中で光が瞬いた。
「……貴方は、変わりましたね」
口からでたのは月並みな言葉だった。白い髪の、いつかは銀色に輝いていた髪の下で、傷付いてボロボロになった肌がある。
「変わらない。変われるわけがないだろう」
変わったと思ってる人間は多くいるだろう。
変われたと思ってる人間も多くいるだろう。
変われないと思ってる人間も多くいるだろう。
変われるけれど、変われないんだ。
足掻くしかない。
炭化した体で立とうとするけど地面に落ちるばかりだ。美しい彼岸花がそこに咲いているのに、引きちぎることすらできない。
「…………」
自分は変わったのだろうか。
変わって、しまったのだろうか。
『バカ。変わることは怖くねえだろ』
そらに輝く鈍色の髪の少女の声が響く。手を伸ばせば触れられたりしないだろうか。
『水は、水蒸気になろうが氷になろうが水だ。結局人は変われない……悪い意味じゃないぜ。本質が変わらないだけだ。ただ、その本質をどうするかはお前次第だ』
そうだ。変化は怖くない。怖いのはただ、変われないことだ。ダメなまま、できないまま、愚かなまま、死にたくない。
『お前は、変われる』
炭となった重い重い手を上げて、その女の体を止める。炭化して、燃え尽きて、それでもなお。
死に祝福を。
生きたという事実に賛歌を。
死ぬために生きて、生きるために死ぬ。
生を感じる為に死に触れて、死に触れるために生を感じる。
息をして、吐いて、止めて、吸って、吐いて。
熱を感じて、与えて、奪って、望んで、痛んで。
昨日を思うために明日を殺し、明日を知るために今日を惜しみ、今日を生きるために昨日を踏みにじる。
生きて、生きて、生きて生きて生きて、死ぬ。
そしてなお、そこに何かが、残るならば。
2020年の破片 ぱんのみみ @saitou-hight777
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