第十九話 処女遡行

 今日は遠雷月十八日。西暦に換算すれば十月十五日。ついに、過去へ転移する日がやってきた。今俺は、転移門を展開するための空き部屋の前にきている。普通ならば悠久書庫レムスタルニカの中に転移門などは展開できないとの事だったけど、今日だけ特別に許可を頂いて、ここで空異跳陣デラスを展開しても良いとヴァロンさんが言ってくれたのだ。


 主だった荷物は予め部屋の中に運び込んである。今俺が背負うバックパックには、これまでに書き溜めてきたノートやタブレット端末など、大事な備品が入っている。


 準備時間は満足のいくものではなかったが、十分に納得の行く用意はできた。

 ……いよいよ今日、異世界の〝過去〟という、前代未聞で史上空前の転移を行う。気がかりなのは、これから向かう〝ラスパイア王国〟以外の近隣諸国が辿った歴史を一切知らない事だ。俺達の旅がこのラスパイアの中だけで完結するなら問題ないが、ディアも前に『森に行く必要があるかも』と言っていた覚えがあるし、慎重に慎重を重ねて歴史を歪めてしまわないよう行動しなければならない。


 まあ、今からそんな事を心配しても体も心も保たないので『俺達が過去で行動した結果が現在に繋がっている』事を祈って、頑張るしかないだろう。


 兎にも角にも、ここから先は俺は勿論、ヴァロンさんを含めた誰にとっても未知の世界だ。本当に気を引き締めてかかろう。


「……よし」


 俺は短く気合を入れ、ドアをゆっくりと開ける。これからは、一つの油断もミスも許されない、責任重大な長旅が俺の行く先に待ち構えて――


「おい黒埜、遅いで。何油売っとんねん」


 ――ヴァロンさんの指定よりも一時間前には準備を整えて部屋に到着した筈なのに何故俺は茨木に『遅い』といわれなければならないのだろうか。とても理不尽。


「ん、何や黒埜。こっちの服に着替えよったんか。馬子にも衣装やな」


「うるさいな。たまたま書庫の倉庫に保管されていたものを拝借したんだ。馬子にも衣装はちょっと失礼じゃないか?」


 茨木からの冷やかしを受けた俺は反論しながら、まだ少しカビの匂いが残っている袖口を嗅ぎながら、自分の体を見下ろす。


 俺が今拝借している衣装は、この文明が隕石に押し潰された時たまたま悠久書庫レムスタルニカにいた名も知らぬ人が身に着けていたものらしい。そのお方は飢餓と絶望で還らぬ人となってしまったそうで、その話だけを聞くと不吉極まりないものを感じてしまうが、この地域で一般的だった衣装という事は、やっぱりこれが『この土地の気候や風土に合った服装』という事なのだ。


 だから、俺は感情的な不安よりも現実的なメリットを考え、ヴァロンさんの許可を仰いだ上でそれを譲り受けた、というお話。


 この服は、俺の知識で言うなら南アジア方面の民族衣装に似ている雰囲気がある。ターバンを巻いたりという事はないものの、ネット通販とかを使っていると、たまにこういう服飾を取り扱っている店を見かけたりするものだ。


 クルタというには着丈が短く、シャツというには長い。袖は長く、通風性に優れているので見た目ほどに蒸れる事はなさそうだ。胸の所には留め木らしきものがついていた形跡があるがそれは取れてしまっていて、少しだけ胸元がスースーとする。色は黒をベースにした、至ってシンプルなものだ。

 下は少しダボっとしたパンツで、やはりこれも長丈。こちらの色は群青色のような深みがかった青、あるいは藍色。やはり若干サイズが合っていないせいかあちこちに違和感があるが、着られるものがあっただけマシだと思っておきたい。

 靴は流石に合うものがなかったので、以前繁華街で買ったトレッキングシューズを引き続き履くが、色が焦茶色なので少しバランスが悪いかもしれない。


 しかし(多分)千年以上も倉庫に眠っていて、よく生地がボロボロにならなかったものだと感心半分呆れ半分で思ったものだ。一応幽涼洗湯アムクリーサで綺麗にはさせて貰ったがカビの匂いが少し残ってしまっているのはご愛嬌だろう。


 さて、部屋には今の所俺と茨木しかいない。涼香さんはヴァロンさんと最終確認をするといっていたのだが、ディアはどこに行ったのだろうか。『たべおさめする』とサバ缶を二つ要求してきたのが最後の記憶だが……そもそも食べ納めも何もないな。荷物にもいくつか入っているんだから。ただの食い意地だあれは……


「――おい黒埜」


 部屋の壁にもたれて腕を組みながら茨木が声をかけてくる。俺は顔を彼女に向け、言葉の続きを待った。


「自分、ただの人間――じゃああれへんな、地球のけったいな普能人フールやっちゅうのに何でこない危ない橋を渡ろうとするんや。ディアちゃんや伊吹が頼んだ言うたかて、命知らずもええとこやろがいな。自分、怖ないんか?」


「それを今問う理由が分からないが……怖いよ」


「ほなら何で――」


「俺なりに考えがあっての事だ。それに知りたい事もあるし、何より――」


「ほーん? 聞かせて貰ってええか?」


「それこそ、何故そんな事を今になって聞く?」


「この世界と何の関係もあれへん自分が、命を懸けて向こうの居場所も捨ててやで、この世界を救おうとするその動機が何なのか知りたいだけや。戦う事はでけへんし、特にこっちの事情に詳しい訳でもあれへんし、何ぞ勝算でもあって火中の栗を拾いに向かうのか、それとも何か他に考えがあるんか、それが知りたいんや」


「――――」


 茨木の問いは、おいそれと答えられる類いの質問ではなかった。今更になって何故そんな質問をという思いは確かにある。同時に『俺がこんな無謀な旅に出る理由』も簡単な言葉で説明できるものではない。


 この世界をまず救わなければ、十二年後に俺が生まれ育った地球も滅びる。それを回避するために俺はヴァロンさんの頼みを引き受けた。だが、茨木に言われるまでもなく『何故俺だけがこんな重い責任を背負うのか』については、まだ俺の中で答えが出せていない。


 だからこそ、それ以外の・・・・・動機によって一歩を踏み出す原動力とする事が、今の俺に必要な事だった。そして、それは――


「――夢と、一緒なんだ」


「あ? 何言うとんのや、訳分からへん。きちっと話せ」


「俺は子供の頃から、同じ夢を見ている。明晰夢って奴で、俺は夢を見ているのだと寝ながらにして理解している類いの夢だ。その夢では、世界が劫火に包まれて生物がすべて焼き尽くされる。俺なのか誰なのかも分からない何かが床に倒れて、うわ言を呟きながら死んでゆく夢も見た」


「……一体何の話しとんねん」


「最後まで聞いてくれ。どの夢にも世界を覆い尽くす炎が現れる。何もかも焼かれて灰になる……ヴァロンさんの話と一緒なんだ」


「……」


 茨木は組んだ腕を解く事なく、厳しい視線を投げかけながら話を聞いている。


「それに今まで出会ってきた色々な人が俺に『お前は何者だ』と聞いてくるんだよ。涼香さんにも聞かれたし、ヴァロンさんにも。そして今、茨木にもけったいな人間と言われたじゃないか」


「――確かに言うたな」


「俺は一体何者なのか……俺が小さい頃から見てきた夢が、どうしてヴァロンさんの夢と重なっているように思えるのか、俺はそれを知りたい。これが偶然の一致なんて誰にも言えるはずはない……俺自身も含めて。だから――」


「……」


「俺は確かめたいんだ。自分はこの世界と何か繋がりがあるのか――とね。それに、俺はできる事をせずに後悔するのだけは絶対にしたくない」


「――そうか。分かった」


 そこで茨木は組んでいた腕を解き、壁から離れて俺に歩み寄ったかと思うと、俺の肩に手を乗せて耳元で低く呟き始めた。


「ほならウチも自分の事は気にかけといたる。ルミナーテから戻ったらな。そして、自分少し前に『あいつら・・・・が何なのか』って聞いてきたよな。礼代わりに教えたるわ。ただしこの話は絶対他言無用やで。約束でけへんのやったら話さん」


「わ、分かった。約束する」


 茨木が鋭い眼光で俺を睨めつけながら、有無を言わせない圧で俺に約束を強いる。俺はこういうしか道を許されなかった。

 そこまで言うと茨木はその次の瞬間、俺の肩に置いた左手に命源素プリムを集め始めた。彼女の手が紫色に光り輝き、その強さを増してゆく。これは――


「――闘嵐星波スポカローカ


 その瞬間、俺の意識と茨木の意識の間に何かが繋がったような感覚が訪れる。前も使っていたが、やはりこの感覚はちょっと慣れない。


〈聞こえるか? 聞こえへんかったら返事せえ〉


 ……茨木は定期的に茶化さないと死んでしまう病気にでもかかっているのか?

 とりあえず話が進まないので、返事だけしておこう。


〈――簡単な説明になるけど、ウチの隊は地球で潰されたんや〉


〈その話は前に聞いたけど、茨木のような鬼がこっちの人間に負けるなんて――〉


〈負けたんちゃう! 言葉には気ぃつけ……まあ、そんなんどうでもええ。その後、ウチらを潰した連中はウチらの空異転陣ケラスを使うてこの世界に飛んできてもうたんや。『我が愛しき者を穢し喰ろうた者の世界など、須らく滅ぶべし』と言うてな。しかもご丁寧に向こうで陣をぶっ壊しよったわ〉


〈そっ、それは――〉


〈しやからウチは残ったモン率いて伊吹のトコに押しかけた。敵地のど真ん中に飛ぶ事にはなるが、背に腹は代えられんかった。しやけど伊吹はその話を聞かんかった。放っときゃ自分とこの国も危ないて忠告したったのにな〉


〈……〉


〈あとは前にも言うた通りや。そして自分にも言うとく。ウチらがこれから飛ぼうとしとるんは、正しくその時代や。きっとあのバケモンどもがうろついとる〉


〈それが、茨木がちょくちょく言っていた、あいつら・・・・……〉


〈そういうこっちゃ。しやけど、ここにはそんな記録は一切ない。つまりあいつら・・・・はラスパイアにはきとらん。そこは安心せえ〉


〈…………〉


 ――まさか……


〈――しやから、ウチは――〉


「あら、お二人とも、お早い集合ですのね」


「ん。ケン、そのふく、にあってるニャ」


 茨木が更に闘嵐星波スポカローカを通じて何事かを語りかけた時、部屋の扉が開く。涼香さんが腕にディアを抱き、背中に革袋を背負っている。華奢な彼女には似つかわしくない、大きな革袋だった。重くないのだろうか……そう思いかけた俺は、彼女にとって大変失礼な心配である事を思い出す。彼女を普通の地球人と比べてはいけないのだ。


〈――ええか、約束やで。絶対に言うなや〉


 それだけ言い残して、茨木は闘嵐星波スポカローカを切った。

 一体彼女は、何を言いかけていたのだろうか? 非常に気になるけど、もうそれを聞き出す時間は、俺には与えられなかった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「――クロノ殿、ご準備はよろしいですかな」


 悠久書庫レムスタルニカの地下九階。空き部屋の一角で、ヴァロンさんの代わりに立ち会いを行うファティさんの明朗な声が響き渡る。ヴァロンさんは例外なく特殊文献安置室を出る事はできないそうだ。一瞬でも目を離すと何が起きるか分からない、と言っていた。あの特殊文献というのは、そこまで危険なものなのだろうか……?


 ちなみに、俺に与えられた『閲覧許可』は、過去から無事帰還した後の報酬だと、ヴァロンさんは言っていた。そこに地球を救い得る手段が記されているかと思うと、武者震いとは少し違う震えが俺の体を駆け抜ける。


 ――何が何でも成功させて、生還しなければ。

 地球もこの世界も救わなければならない俺は、こんな所で死ぬつもりはない。


「黒埜さん、大丈夫ですか? 緊張してらっしゃいます?」


「ケン、おちついて。ぜったいに、だいじょうぶ。ぼくが、ついている」


 丹田に気を集める感覚で呼吸をする俺の真横で、涼香さんとディアがそれぞれ俺を心配してくれている。俺は目線だけを彼女達に向け、小さく頷いた。だが、その顔はきっと緊張で強張っているに違いない。


「あ、ありがとう、涼香さん、ディア……いよいよかと思うと、身震いがします」


「クロノ殿、無事のご生還、ヴァロン様に代わり、心よりお祈り申し上げます」


「はい。では行きます――」


 術式構文が失伝している以上、俺は無音詠唱カンターシレン空異跳陣デラスの転移門を作り出す必要があった。自分の体内を巡る命源素をまとめ、それを自分の脳内まで移動させた上で、複雑極まりない紋様の魔法陣に構築してゆく。少しずつ、慎重に、確実に。


 転移先の座標と時間の情報は予め涼香さんから貰っており、俺はその情報を脳内で思い浮かべながら空異跳陣デラスを完成させてゆく。額から汗が滲み、握り締めた掌に力がこもって、とても痛い。


「ほう……これは中々……力強い――」


 ファティさんが感嘆の言葉を漏らしているが、気にしている余裕はこれっぽっちもなかった。少しでも意識をそちらに引っ張られると魔法陣が崩れてしまう感覚が俺の全身を更に縛り付ける。


「――空異跳陣デラス


 やがて俺の口からその一言が発せられた。頭の中で魔法陣を構築すると、魔法陣が完成した時に少しだけ発光が強くなるような感じがする。それが無音詠唱カンターシレンを発動する契機なのだ。まだまだ未熟ではあるけど、少しずつ慣れていっている気がする。

 そして現れたのは、白く輝く転移門。この扉を開けた向こう側には、千年以上前の涼香さん達の故郷が広がっている――筈だ。


「私めも初めて拝見致しましたが、実に見事な門でございますな。そしてクロノ殿、貴方様の詠唱も見事でございました」


「黒埜さん、お疲れ様でした。少し息を整えてから出発しましょう。では皆さん――準備はよろしいですか? お覚悟も」


「いつでも、だいじょうぶ」


「ウチはいつもどおりや」


「皆様、どうぞお気をつけて。五月限五ヶ月後のご帰還、心よりお待ち申し上げますぞ」


「はい、では――」


 ――行ってきます。

 その言葉を残し、俺達は門を押し開け、そしてくぐり抜けた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 すとん。

 何時ぞやも体験した、あっさりとした転移。

 ここは本当に過去の世界なのだろうか……などと考えるまでもなかったな。

 この景色には見覚えがあった。俺達は今、小高い丘の上にいる。眼前に広がるのは鬱蒼とした森ではなく、凄まじい威容を誇る城塞。

 これが――ドルムセイル城塞。何という大きさなのだろうか。


 先頭には相変わらずディアを抱えた涼香さんが、その後ろには両手を後頭に組んだ茨木が、眼下の光景を見下ろしている。

 赤い太陽は中空高く、広い大地と、赤と茶と緑の混じった景色を遍く照らす。

 ドルムセイル城塞のあちこちから白い煙が立ち上っている。確か、転移先の時間は午前十一時だったか。多分昼飯時なのだろうけど、この世界も普通にこの時間帯には昼飯を摂るという習慣があるんだな。


 俺はパンパンに膨らんだバックパックとスーツケースを一つ引っ張ってこの時代に飛んできた訳だけど、この絵面だけを見ればのどかな山間の街に――更に言うならばロマンチック街道かメルヘン街道沿いなどの欧州風の地に――観光旅行に来たという印象しかない。実際はあと数時間もすれば大変な騒ぎになってしまうのだけどね。


「う、あついニャ……」


 ディアがぼやいている。確かに十月にしては暑い。空気も若干だが乾燥している。秋というよりは春めいた陽気で、やはりこの辺りはきっと俺の認識でいうと南半球で間違いないのかもしれない。

 上空を見上げれば、相変わらず太陽が赤く煌々と輝いている。ここは異界なのだと思わされる一瞬だが、これも徐々に慣れていってしまうのだろう。


 ――そして。


「――けんさん、紆余曲折ありましたけれど」


 俺の前へゆっくり歩みを進めて目の前の城塞を見上げながら、おもむろに俺とディアの方へと振り返った彼女は、最高に柔らかな笑みを浮かべた。それは眩い陽光を浴び、とても鬼とは思えない可憐さで、俺の目と胸を打つ。


「改めて――ようこそいらっしゃいませ、モルドニアへ……やっと、黒埜さんにこう言えて、本当に安心致しました」


 ――ああ、俺はついに、生きた・・・モルドニアの大地を踏みしめたのだ。

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