第十七話 赤嵐紫雷
転移予定日まであと一週間とちょっと。
今俺は〝赤い閃光〟〝紫電の舞鬼〟の二人を相手に、徹底的にしごかれている。
「――オラオラ、どこに意識向けとんねん死ぬで自分!!」
「おごっ……!」
先日涼香さんに直談判したお願いは聞き届けられた。
『確かに、色々と備えておく事は無駄にはなりません。それに、現実も知っておいた方が何かと良いでしょうし……分かりました。手配致します』
『そういう話やったらウチも手伝ったる。最近動かなさすぎてブヨブヨやねん』
横で話を聞いていた茨木も珍しく前乗りで俺の特訓に付き合ってくれる事になった所までは良かったのだが……今は、どうしてこうなった感しかない。
茨木の場合はとにかく動きが素早く、目で追うなんてとてもできない。俺は茨木の残像が幾つも浮かんでは消える光景を目の当たりにしながら、気付けば背後から強い衝撃を受けて吹き飛ばされていた。体中の筋肉がねじれ、骨がきしむ。
「はい、黒埜さん。これでまた貴方は死にました。今日で三百三十と四度目です」
涼香さんは茨木程の素早さはないのだけど、とにかく隙が見当たらない。体捌きに全く無駄がなく、一連の所作はまるで流水のように緩やかでありながら力強い。紫に光る棒を駆使して俺の動きを制限し、あるいは豊かな経験に裏打ちされたかのように俺の動きを先読みしてはこれを封じてくる。
とにかく、手も足も出ないという事だけは、体に叩き込まれた。
しかし涼香さん、そんな回数まできっちりと数えなくても。
「――おい黒埜、立て。何べんいうたら分かるんや?」
「かっ……かはっ……!」
うつ伏せになって立ち上がれずにいる俺の頭上から叱咤の声がかかる。手合わせを始めてからまだ三十分と経っていないのにもう満身創痍だ。茨木が手加減してくれているおかげだろう、骨に影響はないものの、体が俺の脳内の命令に応えてくれない。
「なあ、伊吹もいうとったやろ? ウチらみたいなんはな、目で追うんは無理やで。前にも
「ケン、やること、いっしょ。ハルカに、いしきしゅうちゅう」
休憩中の涼香さんに抱き上げられたディアが俺に助言をくれる。だが残像が何体も浮かぶほど高速で動き回る茨木を意識で捉えるとは、〝言うは易く行うは難し〟。
「――やっぱ自分、戦いには向いてないわ」
必死に感覚をつかもうとするも叶わず、殴る蹴るの猛攻を受け続けた今の俺には、もはや立ち上がる気力も残されていない。四つん這いで激しく咳き込み、血のにじむ唾が滴り落ちる。
「なぁ黒埜、体を鍛えるなとまではよう言わん。しやけど〝戦えるようになる〟のは諦めた方がええで。そんな時間があるなら自分が得意な事を磨けばええやんか」
「だっ、だけどっ……このままじゃ、俺は皆に迷惑を――」
「はっきり言うたる。ウチも偉そうな事言えたモンじゃないけどな、こっちの言葉にこういうのがあんねん。〝統治は王に、護国は兵に、商売は民に〟」
「黒埜さんにも馴染みのある言葉で表すなら、〝餅は餅屋〟です」
茨木が放った言葉を涼香さんが解説してくれた事で何が言いたいのかを理解した。つまり俺に求められるのは少なくとも戦う事ではないのだ……と。
「黒埜さんが何をそれ程焦っていらっしゃるのか、私には何となく察しがつきます。ですが、敢えて言わせて頂くのなら……茨木を相手に善戦すらもできないようでは、はっきり申し上げて自衛の手段を覚えても無意味です」
「伊吹の物言いもムカつくけど、まぁ置いとくわ。自分、今のウチの動きにすら全くついてこれんやろ? ウチらの戦いはな、これで最低限なんや」
「……」
厳しい現実だ。俺は確かに今までケンカらしいケンカなんて一度もした事がない。命を賭して戦った事もないし、相手をやらなければやられるような世界に身を置いた経験だってない。小さい頃から武道や格闘技に慣れ親しんでいたのなら話は別だが、生憎と俺の戦場は今までずっと、机上のものしかなかった。
――しかし、だからこそ……
自分が弱みや隙にならないように、少しでも動き方を覚えたい。
俺の望みは、本当にそれだけだった。
「ですから、私やディアちゃん、それに茨木も……貴方の事は全力でお守りすると、そう申し上げているのです。黒埜さんには黒埜さんの役目がございます。黒埜さんは黒埜さんの道で、私達を支えて――」
「――リョーカ、ハルカ。まだ、ケンのちから、みかぎるのはやい」
情け容赦ない指摘と慰めの言葉を投げかける彼女達を、それまで黙って聞いていたディアが遮る。ディアは涼香さんの腕からピョンと飛び降り、俺の横に座った。
「ケン、そしつある。ぜったいある。だいじょうぶ、きっとつよくニャる」
「おいおいディアちゃん、そんな安っぽい慰めは逆に酷やで」
「ハルカ、きみ、ケンにてかげんした?」
「アホいいなや。戦いに関して手心加えるほどウチは甘ないわ」
「ん。じゃあケン、やっぱりすじがいい。ちゃんと、よけている」
そう言ったディアは突っ伏している俺の背中に飛び乗り、チョコンと座った。
「フィルサニゴ」
彼女が
「……ハルカ、リョーカ。もういちど、ケンと、ぜんりょくでたたかって」
「ディア、俺にはやっぱり戦いの素質なんて――」
「ある。あきらめるニャ。ケン、たたかえる。たたかいかた、まちがってるだけだ」
「……ふん、ディアちゃんの方がウチらよりもよっぽど鬼やな」
「さあ、たつんだ、ケン。ぼくから、じょげん。あせるニャ。れいせいにニャって、じっくりかんがえろ。あいて、よくみて、おちついて」
ディアに促されるままに、俺は痛みの引いた身体を起こし、もう一度二人の美鬼と対峙する。普通に考えれば勝ち目のない相手。だが、ディアはやれると言っている。つまり、戦う前から諦めている時点で俺は負けている、という事なんだな……
「んじゃやろか。手加減なんぞ期待すんなよ」
茨木が再び両手両足に赤いオーラを纏って、ボクシングかムエタイに近いポーズを取ってきた。やはり彼女は魔法だ飛び道具だといった手段ではなく近距離の肉弾戦を特に好む戦闘スタイルのようだ。
しかし、それが分かったからといって、自分はどうすれば良いのだろうか――
そんな後ろ向きの考えが頭に浮かびかけたが、俺はそれを振り払う。
――これは戦いだ。
さっきも思ったけど、俺は喧嘩だとか格闘だとか、その方面の経験も全くないし、やりたいなどと考えた事もなかった。これはもう厳然たる事実として受け止めよう。そしてディアは俺に『戦い方を間違っている』と言った。
彼女達が俺に求めているものは〝茨木のように速く動く事〟でも〝涼香さんのように淀みなく舞う事〟でもない。俺には無理な話だというのは俺が一番知っている。
戦いのセンスなんかない。攻防の機微なんか分からない。
しかし……それは、俺が競争や勝負をした事がない、という事では決してない。
商社に入った後も競合他社との営業戦争や同僚とのノルマ競争に明け暮れてきた。そんな人生を送り続け、俺なりに修羅場を何度もくぐり抜けてきた経験がある。命を狙われるような商談だってあった。俺の判断一つで会社が傾きかねない事もあった。
その経験で言えば、勝負事は――『周りが見えなくなったら負け』だ。
冷静に機を見て相手の隙を窺う。向こうが焦りを見せたりすれば更に勝ちやすいが今回はそういう事を求められる相手ではない。
――この戦いは、海千山千の相手との
商談とは常に先手を取って相手のやりたい事、望む結果を先読みした上で、自然に望んだ方向へ流れが向かうよう誘導する。しかも、それを気取られてはおしまいだ。
交渉も喧嘩も基本は一緒……のはずだ。
要するに――
「うああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
――俺は無策で突っ込む……少なくともそう見せた。何故なら、それこそが――
「おいおい、破れかぶれかいな! 度胸は褒めたるけど命知らずもええとこやで!」
そう叫んで茨木は飛び退き、残像を伴って疾風ように目まぐるしく位置を変えて、反撃のタイミングを伺っている。涼香さんとディアはその様子を黙って見ていた。
――
「――貰たで!」「――そこだ!」
背後から迫る茨木の声と、背後に向けて放った俺の声。彼女の脚は寸分たがわず、俺の背中を狙ってきていた。思い返せば、彼女は俺に
頭が妙に冷静になった事で、それまでの茨木の動きと最後の一撃の動作の時には、赤いオーラのような
俺は茨木の蹴り足を渾身の裏拳でぶっ叩き、横に払う。一瞬だけ彼女の顔に驚きが浮かび、体勢が崩れた。しかしそこまでだった。彼女の足を叩いた拳に電撃が走り、追撃を行うどころの話ではなかった。そのまま俺まで体勢を崩してしまう。
「ちっ、ようやっと掴みよったか黒埜! しやけどこれで終いや!」
そして茨木の蹴りが俺に当たろうかという所で、手を打つ乾いた音が響いた。
「――はい茨木、そこまでです。黒埜さん、よくできましたね。お疲れ様です」
涼香さんの掛け声で、茨木との
「闘いのセンスは、これっぽっちも期待できるとこなんぞあれへんけれどもやな……何でウチの速さにサッと対応できんねん……
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
良かった。ケンが立ち直ってくれて、本当に安心した。
今の彼に一番必要なものは『冷静沈着に全体を俯瞰する目』、そしてそれを支える『何事にも動じない胆力』だ。ケンはここまで色々なものに振り回され過ぎて自分を見失っていた。自分がもっとしっかりしなければという思いばかりが先行し過ぎて、自分の持ち味を消してしまっていた。
僕もリョーカもハルカも、ケンが万夫不当の怪力無双をしてのけるだなんて事は、全く期待していない。自分の身を護る術なんてこれから幾らでも覚えられる。だけど自分をしっかり保って相手を見極める力は、一朝一夕では身に付かないものだ。
彼には、もっと大局的な視野で物事を見て貰いたい。
今日、彼がその一歩を記せたのかどうかはまだ僕にも分からないけど……
きっと、君ならできると信じている。
だから頑張って欲しい。僕も君を命がけで護るから、君も僕の事を命がけで護れる存在に、どうか育ってくれますように。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺はあいも変わらず
覚える事が多岐にわたり過ぎていて、自分でペンを走らせてノートを取らないと、全く頭に入ってこない。
それにしても、この
石板自体に文字を刻むのではなく、石板の中に記録の情報子を刻みつけて保管する物らしい。内容を確認するためには石板を持った手に少しだけ意識を集中させつつ、一言詠唱を発するだけ。
『
この言葉を放つと、石板を持った手から肩を通って、脳内に直接何かが流れ込んでくる感覚がある。最初は押し寄せる情報量が多過ぎて整理もされていなかったため、頭が軽くパニックを起こしてしまった。しかしこれも石板を持つ手に込める
ただこれは自分がそのまま〝理解できる〟という事には繋がらない。自分の解釈で飲み込まないとものにならないという意味では、俺がこれまで生きてきた過程で散々やってきた〝勉強〟と何ら変わる事はなかった。
だから、自分で文字に起こして書く。自分が読みやすいように整理して時系列順に並べる。意味が分からない所に線を引き、後で調べるか分かる人に訊ねられるように準備しておく。
本当にやる事は何も変わらないのだ。
「ケン、がんばりすぎ。すこし、やすむのもだいじ」
俺の横で毛づくろいをしていたディアの言葉に、俺は結構長い間調べ物をしていた事に気づいた。横に置いてある時計を確認すると、かれこれ七時間は石板とノートの間で意識と集中力を走らせっぱなしだった。背伸びをすれば肩や首が悲鳴をあげる。
「うん、そろそろ休憩しようかな……って、外にバッテリー置きっぱなしだった!」
俺はそのまま勢いよく部屋を飛び出し、
「おや、クロノ殿。何かお急ぎのご様子ですが、書庫内では走ってはなりませんぞ。どちらへ向かわれるのですかな?」
「ああ、済みません。外に大事なものを置きっぱなしにしてあるので、早く回収しに向かおうと思って」
「ふむ、もう日も落ちて結構経っている筈ですので、
廊下でファティさんとすれ違う。軽い注意の他に一言二言会話を交わしながら俺は先を急ぎ、涼香さんから教わった
ちなみに現在は
「ああ、気持ち良い……さて、ゾンビが飛んでくる前にさっさと回収してしまおう」
俺は近くに広げてあったソーラーパネルを手早く畳み、充電が済んだバッテリーを持ち上げる。大きな米袋より軽いそれは、ここで生活を営む上で俺の生命線なのだ。電気ポットや電気式コンロなど、大抵のものはこれで動く。
こっちでもソーラーパネルが使えるのかは心配だったが、問題なく充電できたので本当に良かった。結構高い買い物だったから、使えませんでしたでは困る。
「……やはり星空は綺麗だな」
俺はそう呟き、バッテリーを抱えながら夜空を見上げた。
そこにあるのは満天の星空。大阪とは違い周囲に文明の灯りが一切見当たらない。煌めく宝石を撒き散らしたかの如き壮観な天幕が、ただただ俺を包み込んでいた。
ただ、超新星爆発を起こすか起こさないかなどと騒がれている星座や、世紀末伝説だかで有名な星座、または古代の英雄を尻尾の毒で葬った伝説を持つあの星座など、誰でも見分けがつくような形は何処にも見られない。
地球で見えるのと同じような星々のヴェールはこの世界にも存在している。銀河、星辰、あるいは天の川とも称される、星々の集う光帯。実に見事な大きさと色彩で、上空を見上げる俺の疲れを癒すように瞬いていた。
今の季節は、大阪ならばまだ夏の大三角形が見られる時期でもあるけど、やはり一番分かりやすいのはカシオペア座だろう。巨大な銀河を内包するアンドロメダ座や、プレアデス星団が一際有名なおうし座などもこの季節を代表する星座だ。ただここはどうやら大阪とは季節が逆のようで、日に日に暖かくなってゆくのが感じられる。
少なくとも今言える事は、それらの星座が全て、この天球に存在しない事だった。青く瞬く星々、赤く煌めく星々に混じって、ぼんやりした星雲が幾つか目視できる。中にはかに星雲のようなものもあるが、俺が覚えている限り初めて見かけるものだ。
――本当に、俺は異世界に足を踏み入れたのだな。
そんな中で、特に目を惹くものがあった。
それは他の星々よりも一際大きく、赤く輝く星。地球の空に浮かぶ金星のような大きさ、あるいはそれより一回り大きいが、光が揺らめいている事からかなり距離が離れていて、自身で発光している恒星だと思われる。本当に燃えるような赤さだ。
――一体どんな宇宙が広がっているのだろう。そもそもこの星は銀河系なのか、他の銀河にあるのか、あるいはそんな次元を超越した所にあるのだろうか……
その時、少しだけ冷たい風が駆け抜けてゆく。まだ少しだけ冷たさと湿気を帯びた風神の息吹に、俺は意識を現実に引き戻された。
「まだやっぱり少し寒いな。ゾンビもきそうだしそろそろ戻ろう」
吹き抜けた一陣の風に軽く身震いした俺は、バッテリーを抱えて図書館に戻った。
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