第十六話 気分転換
――どこかで一日休みを取って羽を伸ばしたい。
そんな考えを涼香さん達に伝えてみた翌日、俺達は連れ立って
向かう先は前にも少しだけ訪れた、ドルムセイル城塞の遺跡。中央尖塔の上層部が辛うじて顔を出し、蔦に覆われている辺りをもう一度見て回ろうという話だった。
『ウチは寝てる方がええからお前らで勝手にいっとき』
茨木は不参加。まあ彼女らしいっちゃらしい。ディアは涼香さんの腕に抱えられ、スンスンと鼻を鳴らしながら森の中の空気を確かめている。
「やっぱり、このもり、ニャつかしいにおい。かえらずのもりといっしょ」
森の終端近くを歩いているせいだろう、生い茂る木は比較的若い樹齢のものが多く密度もそれほど濃くないため、差し込む陽射しは余り遮られていない。足場は凹凸が目立つが歩きにくいという訳ではないので、大きい荷物を背負った俺の負担も軽い。
「――荷物はここらに置きましょう。恐らくこの辺りが城塞南門のあった所です」
木々が途切れ、視界が広がる。森林の中の小広場といった場所に出てきた俺達は、そこに荷物を置いてから探索を始めた。ヴァロンさんが『この地に生者はいない』と言っていた通り、この森には動物の気配がない。鳥も獣も見当たらないが、それでも動くものを発見する事ができた。
「……私、虫は少し苦手で……ごめんなさい、余り近寄りたくありませんね……」
地面を這い回るムカデのような――大きさは段違いだったが――虫を見かけた時、涼香さんが顔を少し歪めて苦笑いをしながらそんな事を宣う。イメージ通りというかある意味ギャップがすごいというか……誰にでも苦手なものはあるのは分かるけど。あの茨木もお化けは駄目だと言っていたからね。
それよりも、虫類が存在していた事は驚きであり、朗報でもある。ヴァロンさんが言っていた『生者はいない』というのは別に『生命体が何もいない』という意味ではなかったのだろう。あくまで『文明を築き上げるほどの知的生命体がいない』という意味での発言だったのだと、逃げてゆくムカデもどきを見ながら思う。
そうなると、今ここに見当たらないだけで、他の動物もどこかに生息しているかもしれない。確認を取っている余裕はないが、そう考えるだけで少し気が晴れる。
「それにしても、一体どれだけの土砂が降り注いだのでしょう。城塞の外壁が完全に埋もれてしまうなんて……二十エクリスはありましたのに」
聞き慣れない単語が出てきたので聞いてみると、エクリスというのはこの世界での度量衡単位の一つで、長さや距離を表す単位なのだそうだ。ちょうど巻き尺を持っていたので涼香さんやディアに一エクリスの長さを尋ねてみる。どうやら一エクリスは一二◯センチメートルらしい。そこから計算すると二十エクリスは二四メートルか。中々の高さだけど、城壁とはそういうものだろう。多分。
そして辺りを歩いてみて、どうも土壌が弱いというか密度が薄く感じられる場所が何箇所か見つかった。例えて言うなら『落とし穴の上に何かを被せた』ような感じ。
「涼香さん、ディア。何かここらへん、様子が変ですね。下に空洞があるような」
「ケン、いますぐはニャれて。そこ、あぶニャい――」
何かに気づいて警告をくれたディアの声を、俺は最後まで聞く事ができなかった。俺は地面を踏み抜き、重力の軛から一瞬だけ解き放たれた感覚が全身を駆け抜ける。そのまま俺は絶叫とともに、トンネル状の穴の奥深くまで落ちてしまった。
□■□■□■□■□■□■□■□■
穴は奇妙なカーブを描いており、俺は真っ逆さまに自由落下した訳ではなかった。しかしそれが俺にとって幸運だったのか、あるいは不運だったのかは分からない。
どれくらい落ちたのかは分からないが、感覚的に二十秒ぐらいは落ち続けていた。結構深い穴のようで、上から差し込む光は途切れてしまっている。つまり俺の視界はゼロ、紛うことなき真っ暗闇だ。
「黒埜さん、大丈夫ですかっ!? 今そちらに向かいますから――」
遥か上の方で、涼香さんの叫び声がするが、かなり遠い。
――真っ暗闇で何も見えない筈なのに、俺の身体と意識、そして本能が身の危険を必死に訴えている。ここにいてはいけない、逃げなければいけないと、魂の奥底から叫び声が聞こえてくる。
暗闇の中に何かが蠢いている。カサカサという音、カチカチという音、ギシギシという音が混ざり合って、とてつもない不協和音がごつごつとした壁に響き渡り、俺は痛む腕を必死に動かして、その気配から遠ざかろうと試みた。
「せっ、せめて明かりを、そうだ、ライト、ライト――」
俺は言葉を操る事もままならず、胸元に差してあったペンライトを震える手で掴み音がする方を照らした。指向性の強い白色光がそこに映し出した光景は――
「ギシシシシシシシシシッ!!!」
「ぎ、ぎゃああああああっ!?」
音の発信源は、俺と同じくらいの大きさはあろうかという、何かの虫だった。俺の記憶には全くない形状をしているが、強いて挙げるなら、蜘蛛に近い。鋭い牙と爪を持ち、頭部らしき箇所に四本の触覚とライトを反射して煌めく複数の水晶体がある。俺の感覚が正しければ、それは複眼なのだろう。
だが、冷静に観察分析をしている場合ではない。
「に、ににににに、逃げなきゃ、でもどうやって、どうしよう、まずいやばいやばいやばいやばいやばい……!」
ただ、
そして当然というべきか情けないというべきか、俺の腰は完全に抜けていた。体のあちこちから出る危険信号が痛覚神経を刺激しているが、恐怖と狼狽と困惑で全身の感覚が麻痺してしまっている。骨折や捻挫の気配がないのだけが救いかもしれない。
「シイイイイイイイイイイイイイイイッ!!」
睨み合いの形になって、互いの間に張り詰めた、数秒間の緊張。それを切り裂いたのは、やはり怒りに満ちた
「う、うわ、くるなくるなやめろやめて――」
「グカッ……!?」
直後に俺を突き刺したのは、俺の命を奪おうとしていた鉤爪ではなく、それを俺に振るおうと襲いかかってきたナニカの叫び声だった。手に握られていたペンライトはあらぬ所を照らしており、一体何が起きたのかは暗闇の中だ。
「……あれ、一体……何が――」
震える手に何とか指令を出し、俺に襲いかかろうとしていた蜘蛛に似た大型の虫がいた所を照らした俺は、横薙ぎに一刀両断されている無残な姿を晒して気味悪い色の液体を垂れ流しながら痙攣している虫の死体を目の当たりにして思わず息を飲んだ。
「し、死んでいる……? 何が起きた? 何でこんな――」
それはまるで鋭利な刃で斬り捨てたかのような見事な切り口だった。虫の体組成は良く分からないが内臓なども綺麗に斬られているようだった。虫の体液が俺の身体に飛んでこなかったのは不幸中の幸いなのかもしれない――嫌な臭いが充満している。
その死体が転がっている近くに、また別の気配がある。それは身動きをする気配もなく、ただそこに立っているだけのような感じだったが、その正体が何なのか俺には全く見当もつかなかった。
「だっ、誰か、そこにいるんですか――」
そんな問いを投げかけ、俺はその無意味さをすぐに思い出す。この世界には現在、文明を築き上げられるほどの知性を持った生命体はいないはずなのだ。だとすれば、俺の問いかけに相手が反応するどころか、理解すらできるのかも怪しい。だが同時に『ではそこにいる気配は一体何なのか』という根本的な疑問に行き当たる。
「――ギ」
暗闇の中で、金属同士が擦れ合うような、あるいは黒板を爪で引っ掻いたような、耳に鋭く障る音が聞こえる。俺は恐怖に耐え、音がした方向にペンライトをゆっくり向けようとして――
「黒埜さん! 大丈夫ですかっ!」
――背後から、俺の身を案じて大きな声で呼びかける涼香さんの声を聞いた。
「涼香さん、気をつけてください! この奥に何かの気配が――」
俺はその警告を続ける意義を失っていた。俺が意識を前から後に振り向けた一瞬で気配はなくなってしまっていた。
「気配は私も感じましたが、とうに向こうへ逃げてしまったようです。それにしてもこんな所に【
「ケン、もうだいじょうぶ。けが、していニャいか?」
「涼香さん、ディア……助かった。本当に心配をかけて申し訳ありません」
肩に乗せられた暖かな掌の感触に少しだけ緊張を解き、俺は恐る恐る目を開ける。俺の横にはディアを抱え、俺を護るように立つ涼香さん。そして前方には、先程まで俺を威嚇し、命を奪おうとしていた
「間に合って良かった。貴方がご無事で何よりでした。早くここを出ましょう」
「けが、しんぱい。でも、さきにあがろう。フルクカロスあれば、うえにでられる」
「ほ、本当に迷惑ばかりかけて申し訳ない……」
「謝る必要はございませんよ、黒埜さん。お一人で立てますか?」
腰が抜けていた俺だったが、危険が去った事を体が実感したのだろう、何とかして自分で立ち上がる事ができた。そして先日覚えたばかりの
「ちょ、ちょっと待ってください。あの巣の奥にあるのはもしかして」
俺がライトをつけっぱなしにしていた事で、今や亡骸となった虫の更に奥深くに、何か見慣れたような、そうでもないようなものが散乱している。それは人間も持っているもので、白くて硬い――
今俺は、散乱してしまっている、身元不明の、しかも大量の骨を照らしている。
白骨が散乱している状況そのものは、過去にニュースで見た事がある。古戦場では今でも稀にそういったものが見つかるという話も聞いた事もあるが、だからといっていざ自分の目の前に大量の骨が出てくると心臓が驚きと恐怖で跳ね上がるのは無理のない事だと思うし、今の自分がまさにその状況だ。
結局俺は、途中まで進めていた詠唱を断念した。というよりも『うわっ』と思わず叫んでしまった事で、中断を余儀なくされたと言う方が正しい。
「りょ、涼香さん……これは、この虫が食べてしまったのでしょうか」
そんな事を尋ねておきながら、俺は直後に〝そんな筈はない〟と思い直す。先程も同じ事を思ったが、『生者は今ここに存在していない』というヴァロンさんの説明と真っ向から対立する仮定など、意味がないものだから。
「いえ、詳しく調査する手段も時間もないのであくまで推測ではありますが、これは恐らく……私のかつての同僚か兵士達、あるいは護るべきだった住民達の亡骸が――千年の時を耐えてここに姿を現したものだと思います」
寂しそうな、そして悲しそうな声でポツリと呟きながら、真っ二つに斬られた虫の骸を踏み越えてゆっくり近づく涼香さんの肩が、心なしか悄然としている気がした。
「リョーカ、さわっちゃだめ。くずれたら、もうもどらニャい。しらべたいニャら、じゅんびしっかり」
ディアの冷静な声が寒々しい壁に響き渡る。古くからそこにある骨なら、ディアの言う通り下手に触れば崩れてしまう可能性は高い。気分的な問題ではあるだろうけどやはり〝かつて誰かであった〟ものの形を自分の手で崩すのは、抵抗があるものだ。
「ですが、これ……一体どこまで通じているのでしょうかね。通路はまだ結構奥まで続いているようですけど」
「この方向なら、もしかしたら城塞内部まで続いているかもしれません。深さ的には城塞地下区域の高さと同じだと思われます。すぐ上に戻れる用意だけはしておいて、少し奥を覗いて見たいと思いますが、よろしいかしら」
「涼香さん、一度上に戻りましょう。中を調べたいというのは分かりますが――」
この世界には少なくとも虫が存在している。上に置いてきた昼食を始め置いてきた荷物が荒らされる可能性がある。もう一度戻ってくるのは後でもできるので、荷物を
「……確かに黒埜さんの仰る通りです。私も少し気が動転していたと言いますか……城塞に繋がっているかもしれないと考えると、気が急いてしまいました」
涼香さんも俺の提案を容れ、俺達はピクニック(?)を早めに切り上げて急遽穴の探索に予定を変更した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
大量の白骨が散らばっていた場所から更に奥に進むと、通路は複雑怪奇な大迷路の様相を呈していた。五叉路などは序の口で、通路が急に深い縦穴に変わったり天井が崩落していて先に進めなかったりと、人為的なトンネルというより、人間より大きなモグラが自由に掘り進めた巣穴の連絡路のような印象を受けた。
正直、そんなモグラがいたら俺としてはお手上げな訳だけど。
「これは……少しまずいかもしれませんね」
先頭をゆく涼香さんが声を潜めて呟けば、ディアも異口同音に追従している。何がまずいのかまでは俺にはよく分からないけど、彼女達はこの状況をあまり良く思っていないようなのは確かだ。
「……また袋小路になっておりますわね。それにしてもこれは……やっぱりかなりの高熱に晒された石材――」
行き止まりになっていた通路の一本で、崩れ落ちた土砂の中にガラス化した石材が混ざっていたのを見つけた涼香さんは、それを拾い上げて暫く何事かを考えていた。
――ん?
その時俺は何か変な感覚を、五感以外の何かで拾い上げた。ディアや涼香さん達と知り合ってから、何となく身についたようなそうでもないような変な感覚である。
しかしこれは俺の知らない感じではない。いつも涼香さんが俺の部屋に張っていた結界だったり、伊吹山をすっぽりと覆っていた峻厳な雰囲気にも似たものが、俺達が立っている所の更に下から感じられる。
ここに何か結界が張られている。どれ程の深さかまでは分からないが、何でこんな所にそんなものが――
「あ、あの、涼香さん、ディア。何か変じゃないですか。この下に何か――」
「ケン、あぶニャい! うしろ、さがって! リョーカ、グラネオルだ!」
そんな時に先程俺を襲ってきた蜘蛛もどきが更に数匹俺達の背後から襲ってきて、涼香さんとディアが俺を護りながら撃退してくれたのだけど、『こんな所で戦ったらいつ天井が崩れてきてもおかしくない』という事で、そのまま撤収する事になった。
それにしても本当に戦えないのかな、俺。彼女達にずっと護られっぱなしで、少し自分に腹が立ってきた。やはり少しは自衛の手段も身につけておいた方が――
「ここ、もうこニャいほうが、いいニャ。いつくずれてもおかしくニャい」
「ええ、壁も天井も少し脆い感じがしましたわね。やはりこれは――」
「まさか、こんニャところにまで――」
――涼香さんに、特訓して貰えないか頼んでみよう。
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