第十三話 引越準備
夏は今正に本番。世間は長期休暇の帰省や海外旅行やらで喧しい。昼は蒸し暑く、夜は寝苦しい。文明の利器であるエアコンがなければ熱中症で命が危ない程度には、危険な季節である。
今俺の部屋はあちこちの収納棚の戸が開けられ、そこらに段ボール箱や荷物やらが散乱して足の踏み場もあまりない。
「――しっかし、片付けんのもホンマに大変やな」
部屋の片付けと整理に忙しい俺の背後から、お気楽な声がかけられた。声の主は、言うまでもなく近所のコンビニ店員、そして何故か今は同居人の茨木であった。
彼女が大きなスーツケースに自分の荷物を詰め込んで押しかけてきてから、二月を過ぎて久しい。それから、勝手に間取りは変えるわベッドは横取りするわ、おまけに酒を派手に飲み散らかすわで、本当に散々な目に遭っている。
「ハルカ、じゃま。てつだわニャいニャら、どっかいけ」
「おいおいディアちゃん、冷たいやないか!? ウチ泣けてくるわ」
――今回ばかりはディアに全面同意だ。そんなやり取りやらウソ泣きやらする暇があるなら、少しでも手を貸して欲しいものですね。
実の所、俺は今月一杯で部屋を引き払うため、不要な物をまとめて処分する作業で手が一杯なのだ。ディアの手は元々あてにしないが、疲れた俺を癒やしてくれるので本当にありがたい存在となっている。
「黒埜さん、この食器などは――」
「ああ、それはもう処分するのでそこの箱にまとめて――」
涼香さんは台所の物を整理する役を買って出てくれた。部屋を引き払うのは三週間先ではあるのだが、ここには八年近く住んでいたおかげで何だかんだ物が多い。
……色々と思い出の品もあったけど、この際だから全て処分してしまおう。
――そもそも、何故そんな話になったのか。
先ず、ヴァロンさんに許可を取った上で空いた部屋を倉庫として貸し与えて貰い、そこに保存食を運び込んだ。飲料水からレトルト食品、ディアの好物である鯖缶まで色々と置かせて貰っているが、これだけで一ヶ月は時間を取られた。その他に様々な生活用品を通販や大規模量販店などで買い求めて搬送する毎日を送った。
そして今、主に涼香さんと俺とで荷物の片付けをしつつ、下取りして貰えるものは下取り業者に出したりと、一日一秒ですら惜しい生活を過ごしている所だ。
「あら? 黒埜さん、何か振動していませんか?」
キッチンの片付けをしている涼香さんからそんな声がかかり、俺はテーブルの上に投げ出してあったスマートフォンを確認する。着信画面にはかつて勤めていた商社の先輩の名前が映っていた。
応答しようか一瞬迷ったが、この人には商社時代に何から何まで面倒を見て貰った恩があるので、居留守だけは止めておいた方が良いだろう。
通話に出ると、スピーカーの向こうから聞き慣れた声がする。厳しく優しい先輩の声だ。仕事もできて、気配り上手。だけど頑固者で、曲がった事が大嫌いな人だ。
色々と心配を掛けていたようだし、一度きちんと話をしないといけないとは思っていたので、今晩食べにいこうという誘いに乗せて貰う事になった。先輩の退社時間に合わせて繁華街で待ち合わせる約束をした俺は、通話を切って一旦作業を中断する。
「涼香さん、申し訳ないんですけど今晩ちょっと一人で出てきます。お世話になった人にご飯を誘われたので、少し話をしてこようかと」
「あら、それは良い気分転換になりますわね。分かりました。ではこちらはこちらで適当に晩御飯を見繕いましょうか」
「ああ、そう言えば涼香さん、お金を持っていませんでしたよね――」
食材の買い出しをするにしても外食をするにしても先立つ物は必要。俺は財布から適当にお札を抜き取って涼香さんに渡しておき、そのまま出かける準備を始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
さて、どうしようかしら。
黒埜さんはお知り合いとご飯を食べに出かけてしまった。お金は頂いたけれど余り派手に使い込むのも気が引ける。茨木は夜の仕事に間に合わないと言って、身支度を急いでいるようだ。こちらの化粧の事は良く分からないけれど、慣れた手付きで顔に色々塗りつけている様子は、見ていて物珍しい。
「今日はちと遅くなるかもしれんから、鍵はかけんなって黒埜に伝えといてや」
と言い残し、茨木は〝ヘアサロン〟だかに出かけていった。売上をキープするには準備と投資が必要だとか何とか言っていたけれど、どんな世界でも働いて身を立てるというのは大変なのだ。
それはともかくとして、今私はディアちゃんと二人きり。彼女はあくまで猫であり色々なお店に連れて回る事はできない。モルドニアとは勝手が違うから少し不便ね。
「ぼくのこと、きにするニャ。リョーカ、そとでたべてくるといい。サバカンだけ、あけておいて」
ディアちゃんが気を使ってそう言ってくれているけれど、正直言うと一人で食べに行った経験がほとんどないので、どうしたら良いのか分からない。黒埜さんと何度か近所でご飯を食べた事はあるのだけれど、あの時は黒埜さんが手配してくれていた。それを私がすべて一人でやるのは少し心もとない……というか頼み方が分からない。
「そう言えば、前にも確かこのノートパソコンで料理を取り寄せていましたわよね。使い方は教えて頂きましたし、こちらの方が便利かしら」
「ん。また、ピザとやら、たのむのか」
「いえ、何か違うものがあれば良いなとは思いますけれど……」
前に食べたピザは美味しかったが、私には少し塩気が強すぎた。茨木はガツガツと食べていたけれど、あれだけ飲み食いしていて体を壊さないか少し心配ではある。
結局迷った末、私は〝ハンバーガー〟なるものを頼んでみる事にした。食べた事はないけれど、絵を見る限りでは結構美味しそう。
私はそのまま片付けを休憩して、最近読み始めた物語の続きがきていないか確認をしてみたが、残念な事にもう十日ほど次の話がきていなかった。私達の世界にも似た国を舞台にして、〝エルフ〟や〝ドワーフ〟といった種族と交流しつつ〝魔王軍〟や〝ドラゴン〟などといった強大な存在と戦ったりするお話だ。
『最近はこういう内容の話ばかりですよ。主人公が理不尽に国や組織を追放された後実はものすごい才能があった事が判明して、トントン拍子に出世街道を駆け上がり、追放した側は逆にとんでもない災難に見舞われて落ちぶれていくとか――』
最近は〝悪役令嬢〟ものが流行りですと言っていたけれど、私にはその悪役令嬢が何なのか理解できていない。貴族や宮廷での権謀術数が絡むお話だと聞いた時、私は少しだけ胸が痛む思いがした。きっと私には読めないだろう。
「リョーカ、おニャかすいた。サバカンあけて」
ディアちゃんが正座している私の膝に脚を乗せて催促してきたので、私は戸棚から彼女の好物を一つ取り出し、皿に盛り付ける。ディアちゃんの食べっぷりも中々で、見ていて気持ちが良い。
「そう言えば、ディアちゃん。以前黒埜さんと伊吹山にきた時に、確か〝サイトで〟伊吹山に鬼が棲むという話を見かけたと仰ってましたわよね? それはどこを見れば読めるのでしょうか?」
「ぼく、わからニャい。でも、たしかケン、〝ミュープラス〟といっていたかニャ」
「ミュープラス……成程。確か探しものは――ここにその言葉を入れて……」
目当ての記事はすぐに見つかった。その内容を確認してみるとそこには確かに山の全景と共に〝
『――この地は古くから鬼の巣であり……(中略)……異界の門が秘匿されている。結界によって厳重に護られているという情報を得たミュー編集部は……(中略)……一般立入不能区域内部の調査は行えなかった我々だが、余人を拒絶する荘厳なる空気を肌で感じ、我々編集部はその地に得体の知れぬモノが存在するのを確信した――』
という一文で締めくくられているけれど、良く分からない。そう言えば、遥か昔に私を調伏しようとしてやってきた男がいたけれど、
でも、この世界に
その時、来客を告げる鐘の音が鳴り響いた。確か正面ゲートの前で呼び出している音だったかしら。私は黒埜さんに教えられたように応答する。
私の晩御飯が届いたようだ。私は催促と不平の音を鳴らす自分のお腹を宥めつつ、初体験のハンバーガーを届けてくれる配達人を出迎えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
先輩と飲むのは何ヶ月ぶりだろうか。少なくとも商社をクビになってからは初だ。酒席の上で、俺はあの後会社がどうなっていたのかを聞く事ができた。しかし、今更どうでも良い話ではあるのだけど。
俺の目の前で生ビールを美味しそうに飲んでいる先輩は、俺が謂れのない不祥事で上司に人生を台無しにされた時にも、自分の仕事をそっちのけにしてまで俺の擁護に回ってくれた唯一の人だ。冷めた目と態度で距離を置いた同僚や後輩達の陰口が俺の全身を容赦なく突き刺す中で懸命に走り回ってくれた恩は、一生忘れないだろう。
だから、それが原因で先輩まで目を付けられ、閑職に回された事を聞いた時には、腸が煮えくり返る思いに駆られた。ただ、本人は近々会社を辞めて別の人生を歩むと話していた。何でも実の姉の所で働く事になるとか何とか言っていたが、俺としてはその前途に幸ある事を祈るしかできない。
そして話題が俺の今後の予定に移った時、俺はそれをぼかして伝えた。
「えっ、黒埜君、旅に出るの? いつから? どこに行くのよ?」
「今の所、来月ぐらいには出発しようと思っています。自分を見つめ直すというか、自分に何ができるんだろうというか、やりたい事を見つけたいというか。色々な国を見て回ってこようと思っていますので、具体的にどこ、というのは分かりません」
「今流行の〝自分探しの旅〟って奴? あれって余り意味がないと思うんだけどな」
「まあ、商社時代は遊ぶ暇もなかったので貯金だけはありますからね。先輩にかなりしごかれたのも良い思い出です。折角なので国内外を問わず、ゆっくり旅ができれば良いなあと」
「ねえ黒埜君、私はもう君の先輩でも何でもないんだし名前で呼びなさいよ。私には
「俺にとってはいつまでも先輩ですので、諦めてくださいよ。先輩には本当に色々とお世話になったし、これからも頼れる先輩でいて欲しいですからね」
「ちぇっ、あんまり先輩先輩って言われると、年を感じちゃうんだけどなあ」
いつの間にかビールからチューハイ、日本酒と進んで、最近起きた事件がどうの、芸能人の誰それがどうしたの、選挙がどうのなど、久しぶりに話が弾んだ気がする。
「――そういえば黒埜君、旅行に出るって言ってたけどさ、その間クレカの払いとか口座とか携帯とか、全部どうするの? 全部切っちゃっていくの?」
……先輩から指摘されるまで何も考えていなかっただなんてとても言えなかった。確かに今の家を引き払って旅に出る以上、その辺りの処理もしておかないとまずい。銀行口座さえ開けておけば大抵の支払いはそこからの引き落としにすれば問題ないと思うが、困るのは住民票をどうするか……北海道の実家に頼むのは、今更気まずい。かといって友人などに頼むのも気が引ける上にそこまで信用がおける連中ではない。確か海外に長期旅行をする時は住民票を抜いておくという選択肢もあったと思うが、正直今後どれくらい
「うーん……何とかなるんじゃないかなとは――」
「黒埜君ってさ、何も考えてなかった時は決まってその台詞を言うよね。私には全部お見通しなのですよ」
からかい気味にそんな事を言われると、俺は何も言えなくなってしまう。だが事実何も考えていなかったのだから仕方がない。
「まあ、黒埜君の事だから多分何とかしちゃうんだろうけど。何かあったら相談には乗るから、いつでも連絡してきてね」
すっかり出来上がっている先輩がポツリと呟いた一言に苦笑いする。何だかんだ、俺は仕事をしている時の凛々しい先輩と、プライベートな時間で時折見せる隙の多い振る舞いのギャップが、嫌いではなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
先輩と別れ家路についた俺のゆく先で、酔っぱらいが円陣を組んで談笑している。この繁華街では見慣れた光景だけど、俺自身がこの街に脚を運ばなくなって数ヶ月。少し懐かしさを覚えながら、俺はその人だかりを避けて駅に向かおうとしていた。
「あっ、ねえ黒埜さん! お久しぶり! ねえ、今日は飲んでいかないの?」
――まさかその人だかりの中の一人にそんな声を掛けられるだなんて、想像もしていなかった訳です。というかこの声、どう聞いても
「……何やってるんですか、こんな所で」
そこにはゴージャスと言っていい衣装と化粧と髪型でキメている茨木が、精一杯の営業スマイルと大阪っぽいイントネーションの標準語を振りまいて立っていた。
「帰る前に一杯付き合ってくれない? 久しぶりにちょっとお話したいな~」
厚底ヒールで器用に駆け寄って俺の右腕に絡み、上目遣いで一緒に飲もうとせがむ茨木だが、正直普段の姿を知っているだけに違和感しかない。ただ、どうやらそれはただのポーズだったようで、喧騒の中で〝
〈繋がったな? お前が通りかかってくれて助かったわ。ウチが飲み代出したるからちと一緒におってくれんか。困った事になっとんねん〉
……君子危うきに近寄らずと言いたいが、残念な事に俺の腕がガッチリとホールドされてしまって、この場から逃げられそうにない。俺の進退は窮まっているようだ。
こうして俺は彼女が勤める店へ案内され、最奥の豪華な個室に通される。一度だけ接待でこういう所に入った事があるけど、個室って座るだけでウン万円かかるんじゃなかったっけ。そういえば茨木、前に『キャバクラでトップ指名』と言っていたが、まさか大阪でも最大級のクラブでトップを張っていたとは、夢にも思わなかった。
個室で茨木と二人きりになるのは妙な気分だ。ヘルプも呼ばず、高そうな酒だけがテーブルに配される。黒服らしい男に耳打ちをした後は、文字通り誰もこなかった。そこで話を聞くと、茨木に熱を上げた客がここ最近彼女の出勤日に合わせてオールで飲んでいるらしい。店としてはかなりの上客になるので無下には扱えないが、茨木は正直辟易しているそうな。
「ウチの店を持たしたるから愛人になれってしつこいねん。金払いはええんやけど、何もかも下品やし、顔を見ただけで虫唾が走るんや。まるでヒキガエルやでアレ」
ヒキガエルという単語を聞き、俺はかつて自分が勤めていた商社を思い出す。俺に濡れ衣を被せてクビにした上司のあだ名もヒキガエルだったのだ。
「アイツの話題もホンマ下品でな、耳が腐るっちゅうんかな。自分が勤めとる会社で気に食わん若手を追い出せてせいせいしただの、常務取締役の座ももうすぐだだの、俺の親が……何やったっけな、まあそんな調子で話すもんやから――」
……確か俺が知っている
「念の為聞かせて欲しいんですが、その人が勤めている会社って……」
「んー? 確か何やったか……ウチも名刺貰っとったな……ああ、これやこれ」
彼女が自分のバッグから出してきた名刺を見て、俺は自分の予感が当たった事に、大きなため息をつかされた。
茨木にまとわりついている上客とは、俺を蹴り落とした、あの
――クソ、他人の人生を踏みつけて飲む酒は美味いか。機会があったらいつの日か仕返ししてやりたい……そんな事を一瞬思いながら、俺は濃い目に作られた水割りを一気にあおり、そして盛大にむせた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
結局あれから何杯か水割りを頂いた後、約束通り茨木が酒代を出してくれたので、新手の『キャッチ詐欺』事件に発展しなかった事に内心安堵を覚えつつ、俺は茨木を連れ立って帰宅した。時間はすでに一時近く。
「ホンマに今日は助かったわ。しやけど、伊吹の前で〝一条〟とは呼ぶなよ。これはただの源氏名やから――」
「大丈夫、俺もその名前より茨木の方が呼びやすいですから」
そんな事を話しつつ、二人で酒臭い息を吐きながら家に入ると、テーブルに伏した涼香さんの寝顔が出迎えた。ディアはベッドの下だろうか、姿が見えない。
だが、パッと見ただけで、部屋の様子がおかしい事が分かる。一体涼香さんは何をしでかしたと言うのだろうか。
「……何やこのハンバーガーの数」
部屋の床にはハンバーガー屋の袋が大量に置かれている。もしかして涼香さんは、ネットで出前を取ろうとして何か間違いをやったのか……きっとそうに違いない。
まぁともかく、夜食と明日の昼までのご飯が確保できて何よりだ。そう思わないとちょっとやっていられないかもしれない。
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