愛を知ったこの僕の、想いを美しい君へ

大根入道

14:21

 僕は君を愛している。


 その透き通った黒の瞳に、僕が映るだけで、僕がどんなに幸せな気持ちになるか、君は理解してくれるだろうか。


 愛、それを僕は馬鹿にしていた。

 所詮、そんなものは嘘だと、化学物質が脳内で暴れ回って、麻薬で飛んだ思考が見せる、狂人の夢であると。


「そうして傍らにあるタンサン水を僕は呑んだ」


 どうして、どうしてこの愛に気付けなかったんだろうか、その無為に過ごした時間を、今、僕は後悔している。


 僕が今まで一番後悔したのは、矢間崎十八年を一晩で飲んでしまった事だ。

 ああ、安酒のように喉を流れて、喉を焼き、心を焦がしたあの酒を。


「スマホが鳴る。着信音は仕事先からで、君との時間を大切にした僕はスマホを放置した。パッヘルベルのカノンが鳴り響く。繰り返す旋律は、悲哀のようで、しかし悪戯な微笑みのようで。流れる音は、ガラスの先から入る、褪せた午後の陽射しを彩るのだった」


 すまないね。

 いや、ここは軽蔑してもらって構わない。

 そうだね、僕は仕事に対して少しばかり、真摯な姿勢が足りないようだ。


 つい昨日まで、僕は一人前の社会人のつもりだったのに。

 ははは、まるで身体だけ大きくなった子供ようなじゃないか。


 君の軽蔑は悲しけど、甘んじて受けよう。

 でも、それもまた僕の一部であると受けれ入れてくれたら、うれしいな。


「ケトルの音が鳴る。ガス台の上のケトルを取り、コーヒーの蓋を開ける。パラパラと湯気の中に落ちて」


 ああ、目が覚めるようだ。

 そうだね、いや、気が付かなかったのは僕の落ち度だ。

 

「そうして僕は引き出しから注射器の針を取り出した。湯気の中に針を鎮め、押し子を引き、ガスケットが上がって行く。外筒の中に黒い液体が満ちる」


 失礼した。

 男の一人語り程、見るに堪えない物は無いね。

 本当はきちんとすべきだったけど、ついつい、はしゃいでしまって。

 ああ、それを責められると弁解のしようがない。

 でも、これだけは言わせて欲しい。


 君は美しい。


 ただそれだけで、僕は少年になってしまう。


 賢し気に愛など、重ねて失礼、君が目を閉じていたときにだね、語るなど、ふふ、初めて知った者が口に出すものではないね。


 そうだ。

 それを語るのは、人生の黄昏を迎え、今まさに天に召されようとするときに、光の中で椅子に揺れ、呟くようにして小さな子供達にこそ、伝えるべき真理なんじゃないかな。


「僕の頬を一筋の涙が流れ、落ちて行った。

血潮を熱く感じ、思わず触れた頬に残っていた髭が、指に擦れた」


 僕は思うよ。

 人が愛に出会う確率の、その本当に触れる事ができる奇跡の、何と小さく僅かな事か。

 嘆かずにはいられない!

 嘆かずにいられようか?


 大人になると、周囲の時間はゆっくりでいてくれない。

 どうしてかって、それを誰もが知りながら問い掛ける日々を過ごすようになるのさ。


「スマホが鳴る。モーツァルトの魔笛」


  * * *


「彼女にコーヒーを入れた」


 君を始めてみた時、ひまわりのようだと思ったんだ。


「椅子に座る。自然と微笑みが浮かんで来る」


 ああ、何て幸せな時間なんだ。


 ふふ、君は色々な顔を持っているんだね。

 花は一つの顔しかないけれど、人は多くの顔を持っている。

 君といると新しい発見ばかりだ。

 何で、もっと早く君と出会えなかったんだろう。


「窓の外には空が広がり、町が広がる。高台にあるこの町は、遠くまでとてもよく見える。海の先に出た遠くの岬が霞みかかり、往く船の白い姿が、ゆっくりと遠ざかって行く」


 この家は何となく買ったんだ。

 景色が良いからじゃないかって?

 

 そうかも、しれないね。


 僕はずっと仕事一筋で生きて来たから、そういうのに気付いて来なかったんだ。

 この家はね、偶然見つけたんだ。

 

 他には誰もいない、ただ朽ち果てるのを待つばかりだったこの家。


 パンクした後輪にイラつきながら、煙草を吸って、煙の流れた方の林に、隠れるようにして立っていたんだ。


 色々と直して、色々と手を加えて。

 林も綺麗に刈り取ったよ。


 いや、業者さんがね。


「テーブルの煙草へと手が伸びる」


 吸ってもいいかな?


「シュボッ」


 ふぅ。


「紫煙が流れる。少し高い天井のシーリングファンが回って、空気清浄機が興奮したように空気を吸い込み出した」


 ははは。機械なのにせっかちだよね。


「いつの間にか、窓から差す陽は赤くなっていた。遠くに見える岬の方に、太陽が沈んで行く」


 もし魔法が使えたら何がしたい。

 まあね、子供っぽい質問だと我ながら思うよ。

 

「アンティークの壁掛け時計では振子が揺れている」


 僕は、もう一度だけ、今日をやりなおせたらなと思ったんだ。

 いや、怒らないでくれよ。

 君と出会った事を無かったことにしたいんじゃないんだ。


 ただ、もう一度だけ、あの胸の高鳴りを感じたいんだ。

 

 これが初恋なんだ。


 ゆっくりと過ぎて行くこの時間は、ともて愛おしい。

 ゆっくりと変わっていく全てが、とても寂しい。

 僕を本当の人に変えた、この想いを、絶対に忘れたくない。


 あの胸の高鳴りにもう一度重なる事ができたら、僕は、最高の幸せを得るだろうって。


 贅沢過ぎるかな。


「日は暮れて肌寒さを感じた。薪ストーブに火を起こす。ゆらゆらと炎が揺れ、赤い暖かな光が身体に熱を伝える」


 昔、焚火の火を生きているようだって、弟が言ったんだ。

 僕はその意味が分からなくてね、馬鹿だな、それは生き物じゃないぞって。

 そしたら何故か言い合いになって、最後には喧嘩になったよ。

 両親に怒られている時、何でこんな馬鹿と一緒に怒られなきゃならないんだって、ずっと思ってた。


「パチリパチリ」


 みんな別の姿を持っている。

 決して一つだけという事はないんだ。


「薪が燃える。崩れた薪が落ちて、炎が噴き上がり、火の粉が舞う」


 それが継ぎ合わさって、でも時々零れ落ちて、人になる。


「ゆらゆらと、炎は揺れ続ける。窓の外は闇に染まり、遠くに見える星明りは、ただ全てを照らすには足りず。今日は新月だから月の明かりも無い」


 君みたいに、学生として過ごすときが、一番ちぐはぐで、一番自分が分からなくなるときかな。

 だって学生とは空っぽの箱であり、そこに大人が一生懸命に教科書を詰め込む存在なんだから。


「静かだった」


 ごめんね。口の悪い言い方だったよ。

 とっても怒られると思ったけど、うん、聞いてくれてありがとう。

 僕も言ってどうしたものかと思ったんだ。

 咄嗟に頭に浮かんだことだったから。


 君の器の大きさにありがとう。


 * * *


「遠くでホーホーとふくろうの鳴き声が聞こえる。時計の針は長針と短針がその幅を狭めている。永遠に来ない、特別な一日が終わろうとしている」


 長く付き合わせたようだね。

 時間が、ああ、もうこんなだ。

 

 つくづく思うよ、大人になると時間に鈍くなるって。


「スマホが鳴る。電源が切れ、すぐに静かになった」


「少女の椅子が揺れる。掛けられていた白いブランケットが床に落ちた」


「車の止まる音が聞こえた。急いでいるようで、ブレーキの音が、静寂の中によく響いた」


「騒々しくなる」


「ドアをノックする音が響く」


「何かの重い音がして、何かを打ち付ける音がした。それが何度も起きる」


「足音が走る」


「足音が止まる」


 え? ははっ。君がそんなことを言うなんてね。つくづく、女の子というのは難しいものだね。


 うん、もっと好きになった。

 

 そうだね。まあ、これは勘弁してもらうしかないな。どうしたって、僕は大人で、君は子供だ。


 完璧じゃないけど、これが僕の愛なんだ。


「テーブルの上のナイフを取る。さっき柿を剥いたものだ」


 じゃあね。


 おやすみ。

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