二 

 目蓋の先がぽうっと白んでいる。目が覚めてしまった。私は一度目覚めると、いくら眠たくても、なかなかもう一度寝ることができないたちである。覚醒していると言うには気抜けており、眠っているとするには生気のある中、惜しいと、もっと寝ていたいと、あっちへこっちへ寝がえりを打つ。これはもう寝られないと悟ると、枕元をまさぐりスマホで時間を確認する。まもなく正午になろうとしていた。

 寝間着のまま部屋をあとにし、洗面所へ向かう。部屋の鍵は開けたままだ。今日この宿舎に泊っているのは我らだけであるので、そのような不用心をしても平気であろう。洗面所は、食堂とは反対へ廊下を進み、風呂場とトイレの間、廊下に面して置かれている。途中、廊下の窓から外を見ると、昨夜同様曇りであった。今晩も駄目かもしれない。

 髪を濡らし寝ぐせだけ直すと食堂へ行った。食堂に、スマホを一生懸命睨みながら菓子を食う彼女がいた。

「おはよう」

「あ、おはようございます。今起きたんですか」

 冷蔵庫から、昨日買っておいたペットボトルのお茶とサンドイッチを取り出し、彼女と同じ卓の対角線に座った。

「今日は見れますかね?」

「どうかなあ。予報は?」

「曇りですけど、十二時回ってからなら見れるかもです」

「そっか」

 サンドイッチを飲み込んでお茶を飲む。そのまま渡り廊下へ出て煙草を吸い、また席へ戻った。

「タバコっておいしいんですか?」

「美味しいとかじゃないな」

「じゃあなんで吸うんですか?」

「吸いたくなるから、かな。お腹が減ったら食べるでしょ」

「不味いものは食べたくないですけど」

「そうだね。じゃあ煙草も上手いのかも」

 二十四時から観測を始めるとなれば、およそ十二時間ほど時間が空くことになる。車があれば観光できるような場所もあるが、今旅は電車旅であったので、それも望めない。

 彼女は彼女で暇をつぶしてもらうとして、では何をしようか、と一人で過ごすことを思案していると、「夜まで何します」と聞かれた。

「うん、どうしよっか。することはないから自由にしてもらっていいんだけど」

「あの。夜、バーベキューしませんか?」

 言葉に詰まる。二人しかいないということがわかっているのであろうか。バーベキューはそれなりの人数、少なくとも四人以上いなければ成立しえない。一人が焼き、もう一人が焼いている者の支援を務める。残った者は焼けた物を食べる係である。この食べる係が一人では、一人楽をすることになり罪悪感から食も進みまい。

「さっきおばちゃんに聞いたら、できますよって」

 おばちゃんというのは、旅館でいうところの女将である。女将がふさわしくなければ管理人と呼ぼう。大変気さくな方だ。

「でも肉がない。一番近くのスーパーだってここから歩いていけば一時間はかかるよ」

「そこも大丈夫です」と言って親指を立てる。

「おばちゃんが車出してくれるって言ってくれました」

 もっと早く起きれば、この策謀を阻止することは出来ただろうか。


 十六時に買い出しへ行くことに決まり、それまでは自由時間となった。私は、宿舎の目の前を流れる川まで散歩に出ることにした。川は大通り沿いを流れており、通りからは見下ろす形になっている。昼間はなかなか車通りが多い。ここらの集落の生活道路になっているようだ。通りを上流方向へと足を進めながら川を眺める。茶色く濁った水が勢いよく流れ、雲を抜けてきた光を鈍くかえしている。上流で降った雨が、一夜かけてここに流れ着いたということなのだろう。

 橋に出た。そこを渡ると土手まで降りれる石段があるように見える。宿舎には何度も泊ってきたが、ついぞこの川を見物したことはなかった。あそこで煙草を吸うのは気持ちよかろうと思い、行ってみることにした。

 川辺まで来て石段に腰を下ろす。川のうねりが心地よく響く。水が澄んでいるときはどんな調子であったか思い出そうとするが出てこない。穏やかな川でも吸ってみたいものだ。

 あれが何故なぜこの旅に来、バーベキューをやりたいと言い出したのかと、私が推理する必要はない。いや全くの無駄である。人の心持なぞ絶えずぶれている。理想と現実でぶれて、本音と建て前でぶれて、嘘をついてぶれて、見栄を張ってぶれている。さながら秋の嵐に巻き込まれた舟のように、沈みこそせずとも留まることが出来ずにいる。

 かと思えば自分の言葉に縛られ、場に縛られ、窮屈極まりない。波に任せて流されていくことさえ出来ぬのである。思いが定まらず絶えず変わるが、時間の制約にとらわれ、致し方なく解を表出ひょうしゅつしているに過ぎない。

 揺れ動く波の、たった一瞬が切り取られ明るみに出ているにすぎないことを、ぶしつけに心の内に上がり込み、人間関係を明らめて俗にする。全く無駄である。そんなことをせず、ただ超然と見ていればいいのである。人も景色も平面のであるかのように、芸術を鑑賞するかのように見ればよい。そうすれば、損得も面倒もない。

 無論人の世に生きる限り、そこまでには成り切れない。しかし、非人情のつもりで過ごせるうちは非人情のつもりでいよう。よし、そうと決まれば彼女のことは一幅の美人画とでも見ればよい。

 煙草を吸い終え、辺りを散策することにした。少し先で、川辺のベンチに座り本を読む彼女を見つけた。目の前を轟々と濁流が流れる中、一人の女性が静をまとって座っている。なるほど、非人情の観点から見ると、なかなか詩的に映る。私は、自分がどれほど非人情を保っていられるかと試してみたくなり、彼女へ近づいてみた。草を踏む音に気付いた彼女が、つと顔を上げる。口は動くが言葉は発しない。目は私を映した後、閉じられた本の表紙に移り、また私に向けられる。

 明らかに動揺している。恥ずかしがっているようだ。彼女の心理に触れたとき、私の非人情の仮面は外れた。

「えっと」と言い淀む彼女はまた画に戻ってゆく。

「どうしました? もう時間ですか?」

「いや。俺も散歩してたらたまたま会っただけだよ。座ってもいい?」

 彼女は黙って、私のためのスペースを開けた。

「あの、別に変なものを読んでいたわけではないんです。ただちょっと驚いただけで」

 彼女の膝には夏目漱石の『虞美人草』が置かれている。

「虞美人草か。どお?」

「どうでしょう。漢語とか哲学とかが絡んでて難しいです」

「じゃあ、なんで読んでるの?」

「読み始めたら途中でやめたくなくて。敷島さんは読んだことありますか?」

「あるよ。最後まで読めば面白いと思えるよ。多分ね。どこまで読んだの?」

「今、上野の万博、じゃないですけど、なんかそんなのに行ってるところです」

「うんうん、面白くなってきてるところだね。この話ってさ、俺らからするとちょっと異世界っていうか、日常とは全然雰囲気の違う社会が設定じゃない? 時代背景もそうだし。でも中の人にとってはそれが日常で、話は日常から始まってるんだよ。でもその日常が、たった一つ歯車がずれるだけで、なんだかずずっと不穏に傾いていくのが、虞美人草の魅力の一つだと思う。しかも、歯車がずれるのも天命とか運命のいたずら、みたいな被害者的な受け身のものじゃなくて、これまでの過去に行ってきたことのひずみってのがまた夏目漱石のすごいところだなって思うわけよ」

「ほうほう、なるほどです。そうやって読むんですね」

「あ、ごめん。でもネタバレはしてないから」

 互いに流れる川を見つめ黙り込む。ここで見る川も、さっき見た川も同じようにしか見えない。急な流れで濁っているため似通っているのだろうか。ゆるやかで澄んでいれば、もう少し違った表情も見られたのかもしれない。

「敷島さんは、虞美人草がなにか知ってますか?」

「いや、知らないな」

「ヒナゲシっていう花らしいですよ」と言って、スマホで調べたヒナゲシの花を見せてくる。赤い花びらが一回り小さい薄紅の花びらを包み、中心に黄色のしべのある大きな花だ。

「綺麗だね」

「そうですか。私は赤すぎて毒々しい印象です」

 時間を確認すると十六時まではまだある。また少しこの辺りを歩いてみることにした。

「じゃあまたね。十六時にエントランスで」

「はい、わかりました」



 校舎と校舎の間、中庭の流し台で、金網をたわしで擦る。焦げた肉がこびり付き、力を籠めないと取れなかった。北側校舎の一階廊下だけに電気が点いて明るい。黒い校舎が両脇からそびえ立ち、空は薄いガスのような雲に覆われている。

 あれほど穏やかなバーベキューは初めてだった。焼いては食べ、食べてから焼く。わざわざ大勢でやるから忙しくなる。仕事のない者は食べるしかない。そのため焼く者は食べる者のために急いで焼かねばならない。仕事のある者がない者のために忙しく働きほどこすとは、巧妙にできた作りだと感心した。

 今宵のバーベキューには、奉仕する者もされる者もいなかった。我らは高下の区別なく焼き、食った。外から見ることができたなら、それは美しい理想郷となったはずだ。理想郷には、善も悪も存在せず、上層も下層もない。苦痛やしがらみ、利害も駆け引きも垣根も、恋愛、孝行、義理、ありとあらゆる関係が存在しない世を理想郷と呼ぶ。非人情の観点からのみうかがうことのできる世界である。

 片付けもあらかた終わり、あとは燃える炭の始末だけが残った。炭は役目を終えた今も燃え尽きてはいない。用もないのに燃えるものは厄介である。水をかけ粉々に砕かれたそれは、もう二度と使うことはできない。燃えることを許さんと、炭を潰すことが私には忍びなかった。

 正直に言おう。私は彼女に惚れてしまった。彼女の前では非人情ではいられなかった。私の心は、引かれ乱され、人情の火花が散っていた。そうなれば私は彼女の心の様を知りたくなり、言葉を引き出そうと試みた。この旅に来たことや、バーベキューでの様子などから、もしやと思ったのである。しかし、わかったのは彼女に男がいることだった。男とは私も面識がある。私の思いもまた、許されないものとして、消さなければならない。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る