春に向かって飛べ

外宮あくと

春に向かって飛べ

 切り立った崖の突端に、僕は立った。

 吹き上げてくる強い風に嬲られた髪が逆立つ。見下せば白波の立つ海。見上げれば千切れ雲の浮かぶ青い空。どこまでも続く広い空。

 上空では沢山の仲間たちが飛び回り、僕が来るのを待っていた。早くおいでよと無言のエールをくれる仲間たち。陽の光を浴びてキラキラと虹色に輝く彼らの翅を、僕は眩しく見つめるのだった。





 僕らはみんな春生まれだ。森の中で産声を上げた。夏の間にぐんぐんと成長して、秋の終わりに翅を生やして空に飛びたつ。翅は大人になった証だ。

 冬が来る前に皆で温かい土地へと大移動して、巣ごもりをする。そして春になると、またこの森に戻ってきて次の子どもたちを産むのだ。

 遠い昔から、僕らはこうして命を繋いできた。

 僕らと似た姿で言葉を話す生き物たちは、自身を人間と名乗り、僕らを妖精だとか天使だとか呼んで、恐れたり崇めたりする。

 でも僕らは彼らと同じで、この世に産まれた生き物のひとつだ。奇跡を起こせるはずもない。自然の中で生きてゆく、ただの命だ。


 夏の間、森の中を駆けまわり跳ねまわり、葉っぱや木のみを沢山食べていっぱい遊んで、生まれた時より二回りも三回りも大きくなった。そして今、秋がきた。僕らにとって旅立ちのときだ。そして恋をするときでもある。

 ひんやりとした風が黄色くなった葉を散らし初めると、ずっと一緒に遊んでいたあのの横顔が急に綺麗に見えだした。彼女はいつもと何も変わらないはずのに、僕の胸はドキドキと高鳴って落ち着かず、頬が身体が熱くなってくるのだ。今まで平気で握っていた手が握れなくなり、会話も途切れがちになった。

 すると彼女は、真っ赤な顔して涙を浮かべて「私のこと嫌いになったの?」なんて言って、僕を困らせた。大きく首を左右に振り「その反対だよ」と呟くだけで精一杯だった。

 その翌日、彼女の背に美しい翅が生えた。薄く半透明なその翅は、角度によって七色に変化する。彼女は僕より一足先に大人になったのだった。

 自由に空を飛びまわる彼女は、早く一緒に飛ぼうと僕に誘い掛ける。そして、生まれてからずっと一緒にいたのだから、次の春までも一緒に居ようと約束してくれた。





 崖の端に立ち、僕は沢山の仲間たちがわんわんと羽音を上げて飛び回る空を見上げ、あのを探した。飛べなきゃあの娘と夫婦になれない。飛べなきゃ春に子どもを産めない。

 涙を溜めて心配そうに見つめる彼女を見つけて、僕は小さく頷いた。今日こそ翅を生やして、空を飛んでみせるのだと。


 今年生まれた仲間の中で、翅が無いのはもう僕だけだった。みんなとっくに空を飛びまわっているというのに。

 背中はぽこりと盛り上がりムズムズと痒くて、翅は今にも顔を出しそうなのに、ちっとも出てきてくれないのだ。

 僕より体の小さな奴が、飛ぶと宣言した翌日にすんなり翅を生やした時は、泣きたくなるほど悔しかった。

 仲間たちは次々に翅を生やしてゆくし、風はどんどん冷たくなってくる。僕は飛べないまま、冬の気配に焦りを募らせていった。

 大きな岩から飛び降りれば、翅は出てくるだろうか。――地面に転がっただけだった。

 もっと高い木から飛び降りれば、空を飛べるようになるだろうか。――固い大地に叩きつけられただけだった。

 皆が心配する中、何度飛び降りても翅は生えてこず、僕は傷だらけになるばかりだった。

 でも、諦めるわけにはいかない。一緒に次の春を迎えよう、子どもを産もうとあの娘と約束したのだから。冬になる前に飛べなければ、凍えて死ぬことになるのだから。生まれて来た意味を失ってしまうのだから。


 そして僕は、海に突き出た崖の突端に立ったのだった。

 海鳥たちが教えてくれたのだ。何年か前にも僕のようになかなか翅が生えてこない者がいて、この高い崖の上から飛び降りたところ、見事飛べるようになったのだと。強い心をもって勇気を奮い起こせば必ず翅は生えてくると。自分を信じる者は、必ず飛べるようになるのだと。

 崖の遥か下方には、白波を弾けさせる槍のように尖った岩がいくつも見える。もしも翅が生えてこなければ、僕はあの岩に貫かれて死ぬだろう。恐ろしさに足はガクガクと震えたが、何もせずに凍えて死ぬかここから墜落して死ぬかしかないなら、今は海鳥の話を信じるしかなかった。奇跡はきっと起きると、いや自分は飛べると信じるしかないのだ。

 それに僕の為に仲間たちの旅立ちを、もうこれ以上遅らせるわけにはいかないのだ。

 ドクドクと激しい音を立てて、僕の心臓が暴れまわっていた。これが最後の挑戦になる。もう後は無い。


 飛ぶんだ。

 生きて春を迎えるんだ。


 ゴクリと唾を飲んだ。

 僕は少し後ろに下がり、助走を付けて走り出した。そして崖の突端で、地面を思い切り蹴る。息を止めて、背中に神経を集中させて。

 体重を支えるもののない空間に躍り出ると、急速な落下に尻がすぼまり胃が絞めつけられた。びゅうと風がうなる。

 僕の名を呼ぶあの娘の声は、まるで悲鳴のようだった。


 僕は飛ぶ!

 君と一緒に!

 僕は生きる!

 君と共に!


 強風に目を瞑りたくなるのを懸命にこらえる。両手を広げ、歯を食いしばって、少しでも空を見ようと顔を上げた。


「飛べ! 飛べ! 春に向かって!」


 海がどんどんと近づく。

 ガツンと体の内側から背中を叩く衝撃。

 胸が破れそうな激しい鼓動。

 熱い血が高速で全身を駆け巡り、そして背中の一点に目がけて一斉に集まってくる。そこに滞っているものを押し出すように。

 ついに、僕の翅がボコボコと皮膚の下で蠢き始めた。

 潮の匂いが、恐ろしい程間近に迫る。

 僕は腹と背に力を込め、懸命に翅を押し出す。

 空を飛ぶんだ、生きるんだ、もうそれしか考えられない。

 波の飛沫が頬に跳ねた。


「あああああ!」


 唐突な激痛に背中が反り返った。

 ドクンと脈打ち、勢いよく二対の翅が飛び出す。それは瞬時に大きく左右に広がり、硬化した。無我夢中で翅を動かすと、ビビビビビと鋭い羽音が僕の鼓膜を叩いた。

 獣のような唸りを上げ、僕は渾身の力を込めて羽ばたく。その羽ばたきが起こした風が、波の飛沫を更に舞い上げた。

 海から突き出た鋭い岩に貫かれる寸前で、僕は落下を止めていたのだ。そして急いで上昇気流を探す。

 全身が軋んで痛みに目が回る。でも翅が風を切る音を聞くだけで、風を掴んで浮かび上がるのを感じるだけで、僕は恍惚となるのだった。

 恐怖に打ち勝った。諦めずにつかみ取った。僕は僕の命を無為なものにせず、繋ぐものにできたのだ。

 うっとりと夢心地で空へと、あの娘のもとへと僕は舞い上がっていった。喜びに胸は震えるばかりだった。


 背を見れば、驚くほど大きな翅が生えていた。あの娘と同じ虹色に輝く美しい翅だ。仲間より二回りほど大きいのではないだろうか。大きすぎてつっかえていたのかと、思わず唇が緩んだ。

 先程までの痛みは歓喜に変わり、僕は凱旋するかのように上空の喝采に向かって昇ってゆくのだった。涙を流して微笑むあの娘が、僕を迎えてくれた。

 胸がじんと熱かった。気が付けば僕の頬も濡れていた。

 僕は今、空を飛んでいる。己の意志で自由に飛んでいる。愛しい人と手を取り合って。祝福してくれる仲間と共に。

 待たせてごめん。待っててくれてありがとう。

 海の向こうを目指して、温かい島を目指して、群れが動き出した。恋の相手を探しながら、求愛の歌を歌いながら、じゃれ合うように飛びながら。


 さあ、行こう。

 冬が来る前に旅立とう。

 そして恋をしよう。

 温かな所で巣ごもりをし、愛を育み春を待とう。

 そう、僕らは春に向かって飛んでゆく。

 次の子らにこの命を繋ぐために。

 

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