Epi32 まさかのお別れなのか

「あ、あきほ。小説はさ、もっと時間取って、ゆっくり考えようよ」


 目は赤く唇は固く閉ざされてるようで、なんとなく震えてる。手も固く握り締められたままだ。少しだけ肩で息してる感じはあるけど、俺をじっと見据えるその目に映るのは、どんな俺なんだろう。


「持ち込み用の小説を書くのはいい。でも、それをすぐに仕上げるのは、いくらなんでも無理だって。だから時間を取って、ちゃんとしたものにしようよ」


 こっちの息もやっと整って話をするんだけど、無言のまま俺を見てる。

 どうすればいいんだろ。


「明穂にちゃんと指導してもらえれば、いずれ認められる作品になると思う。でも、今焦ってもいいものは書けないよ」


 視線を落としたと思ったらすぐに俺を見つめてる。

 唇が少しずつ開いて言葉を発したようだけど。


「大貴。別れよう」


 聞こえなかった。じゃなくて聞きたくない言葉が出て来た。

 そのまま振り向いて改札を抜けホームへと走り去って行く。その後ろ姿をただ眺めているだけでなにもできなかった。


 どのくらいその場に立ち竦んでたんだろう。

 気付いてから、ものすごい焦燥感の中家に向かったけど、足が滅茶苦茶重い。なんか、体中から震えが来て視線も定まらないし。ふらふらしながら家に着くと、自分の部屋に入ってベッドに倒れ込んだところまでは覚えてた。


 翌日、目覚めて昨日のことを思い出す。


 確か最後に「別れよう」と言われた気がした。いや、したじゃなくて確実に言われた。もしそれが本気なら俺に見切りを付けたってことだ。弱気な俺に愛想を尽かしたんだろう。でも、自分から別れるなんて無い、そう言い切ってたのにそれは嘘だった? それともさすがにここまで酷いとは思わなかった。だとしたら愛想も尽きるんだろう。明穂が思っている以上に俺が情けない奴だと、そう思ったなら仕方ないのことなのかもしれない。


 考えが纏まらない。

 誰もが仲睦まじいと思っていた二人の関係は、こんなにもあっさり途切れてしまうんだ。

 なんだか、視界が滲んでるなあ。

 しゃっくりまで出てくるし。

 頬を伝うのって明穂が流してた奴と同じ?


 俺の頬を伝う涙。そこには昨日の明穂の温もりが残っている気がした。


 終わったんだ。

 見返す前になにもかも。


 また以前と同じくぼっちだ。

 立っていられずへたり込んだ。床にまるで女の子のように座り込んで、涙だけが止まらない。

 あ、鼻水も出るし。最悪だ。


 何もする気が起きない。


 俺と明穂の関係は昨日で終わって、明穂は新たな男と仲睦まじくやるんだろう。俺はと言えば本当に生涯独身で寂しく終わるんだろうな。

 ベッドに這い上がって体を横たえて、天井を見上げてもなんだか、ゆらゆらしてどんどん溢れるのは涙なんだろう。こんなことで泣くなんて、男らしくないなあ。


 気付いたらドアがノックされてる。

 そのドアの向こう側から母さんの声がする。どうやら朝ご飯の時間らしい。でも食欲は皆無。無言で居たらドアが開けられた。そう言えば鍵掛けてなかった。


「大貴? どうしたの?」


 俺が盛大に泣きじゃくっている、そう見て取ったようで、俺の傍に来て頭を撫でてる。


「なにがあったかは聞かないけど、人生いろいろあるから」


 頭を撫でながらそういう母さんだ。


「でもあの子なら最後まで大貴を支えてくれると思ったけど」


 俺もそう思ってたんだろう。明穂の期待に応えられなかったら、なんてすっかり忘れてた。油断してたのかもしれないし、明穂に甘え切ってたかもしれない。


「悪く言うつもりはないけど、やっぱり若いうちはね、気持ちなんて移ろいやすいの。だから些細なことでも仲違いしちゃうんだから。これもいい経験だと思って、いずれは見返してやりなさい。こんなにいい男になったんだぞって。悔しがるほどにね」


 いつ以来だろう。母さんに抱き締められた。

 昨日まではその感触は明穂だったけど、今日は違う感触が俺を包んでる。


「あとでご飯持ってきてあげるから、今日はゆっくりしてなさい」


 そう言って母さんは部屋から出て行った。


 一人になるとまた涙が溢れてくる。天井が揺れてるなあ。

 明穂の声が聞こえるんだよね。鮮明に。いつも聞いてたあの声はでも、なんだかどんどん聞こえなくなってくる。もう無いんだろうな。

 こんな話を聞いたことがある。女子ってのは一度相手に見切り付けると、二度と復縁することは無いんだって。

 だとしたら二度と明穂とは付き合いが無いってことなんだろう。もうあの笑顔もあのエッチで止め処ない性欲も、俺には一切向かなくなった。あれはいずれ他の男のものになってきっと、近い将来子どもを授かって、楽しい家庭を築くんだろうな。俺には永遠に手にできないものを。


 泣くしかできなかった。


 少し時間が経った頃に母さんが朝食を持ってきた。


「少しでも食べておきなさい」


 床に座って俺をじっと見てる。母さんのそんな優し気な表情、幼い頃に見たきりだった気がする。


「お父さんたら、怒ってた。あれだけ執心しててあっさり別れるのかって。やっぱ若い子は辛抱することを知らないから駄目だって。大貴に相応しいのは年上の包容力のある人が一番だろうって」


 同い年とか年下は俺には向かないそうだ。なんでも包み込んでくれる母親のような、そんな女性こそが俺に相応しいんだとか。

 子どもかよ。


 でも、それもある意味正しいのかもしれない。明穂と俺じゃ元々釣り合い取れてなかったんだし。出来過ぎる女性が相手だと男の方が苦労するらしい。肩身の狭い思いをしていつも怯えて。だからバランスが大切なんだとか。


 失恋って、こういうものなんだな。

 初めて経験して心からなにかが抜け落ちる。そんな感覚も初めてだし。明穂からはたくさん経験させてもらった。その点ではお礼をいくら言っても足りないのかも。

 また涙が出て来た。なんでこんなに悲しいんだろう。だって付き合ってた方が不思議なくらいだったのに。明穂と付き合える、そんな奇跡、何度も起こる訳無いし。

 奇跡を経験して俺は少しでも大人にならないといけないんだろう。いつまでも引き摺っても仕方ないんだろうな。


 起き上がって少しだけ食事を口に運ぶ。


「元気出たら旅行でも行く? お盆休みも残りわずかだけど、お父さんとあたしと三人で」


 陽和は置いてくのか?

 まあ、今のあの状態じゃ兄妹喧嘩が絶えないだろうし、せっかくの旅行も台無しになるだろう。だったら陽和は置いて行くのが正しい。

 食事を適当に済ませると母さんがトレーを持って部屋から出て行った。


 また部屋に一人。


 寂しさが込み上げてくる。


 結局この日はずっとベッドで寝ていた。

 小説なんて書く気力も無いし画面に向かうと明穂を思い出す。思い出すと涙が出てくるし胸が痛い。

 だからひたすらなにも考えずベッドで横になる。


 そうだ。旅行先で明穂とお揃いで買ったぬいぐるみ。ペンギンが抱き合ってる奴だ。あれは捨てちゃおう。いつまでも明穂を引き摺るくらいなら無くていい。旅行で撮った写真も全部消しちゃった方がいい。未練がましく持ってると次の一歩を踏み出せないし。


 ベッドから起き上がってぬいぐるみを掴む。


「また涙出るし……」


 互いに抱き合うペンギン。まるで俺と明穂。だったもの。

 そのままゴミ箱へ投げ込んだ。


 旅行で明穂に買ってもらった鉛筆。

 まとめてゴミ箱へ投げた。


 旅行で撮ったツーショット写真。背景にはワニとかイルカとか。海水浴場で撮った水着姿のエロい明穂。これも要らないな。手元に残しても意味無いし。

 ゴミ箱へ投げ捨てた。


 パソコンに向かうと、昨日までせっせと設定していた小説。

 ツールから削除を選択して削除した。


 こうして俺の中から明穂との思い出が消えていく。

 涙が溢れて止まらないけど、でも、こうでもしないと明日から、自分の足で立って歩けない気がした。


 これで全部捨てた?


 思い出してみてもこんな程度にしか無かった。意外と少ない。

 物より体とか精神的な結びつきの方が多かったんだ。

 あとは、そうだ。スマホに入ってる明穂の電話番号とアドレス、それとSNSアプリも不要で削除だ。

 スマホを手に持って消そうとしたけど、躊躇う気持ちがあった。意を決して全部消した。

 これで完全に終わりだ。

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