33:その隙間から見えたのは有り得ない幻

 大黒が実家の車を運転して、天和を病院まで連れて行く。

 璃亜夢も茉莉花を連れてそれに同行するが、昨晩やってきた病院に来たもののどうして良いかただ焦るだけだ。

 個室のベッドで天和は大きなクッションに上半身を預けて四つん這いに近い状態でずっと悲鳴の様な声を上げて痛みに耐えている。もう随分と長い時間辛そうで見ている璃亜夢も血の気が引いてくる。


「あー、痛い痛い痛い!」


 そう叫ぶ天和。

 どれだけ苦しいかは璃亜夢も知っている。本当にいないとわかっていながらも神でも仏でも何でも良いから助けてくれという気分になる。

 早く出したいという気持ちは凄くわかる。

 だけど天和の調子を見に来た助産師が、まだ子宮口がもう少し開くのを待つのことで、まだ分娩室へは移動できないと言うのだ。そんな殺生な。


「ううー! あああああ、無理いいいい!!」

 叫ぶ天和。

 大黒も姉のこんな状態におろおろとしながらスマートフォンを片手に、もう片手に茉莉花を抱きながら困惑している。

 恐らく天和の夫からの連絡を待っているのだろう。

 天和の夫は出張で県外に出てしまっているらしいのだ。今日に限って。

 大黒から天和の陣痛の話を聞いて「帰る! 今すぐ帰るから!」と電話口で叫んでいたらしい。だけどどれくらいで戻って来れるかは正直わからない。


「痛い、しんどいもう無理」

 そう力なく叫ぶ天和に、璃亜夢はどうして良いかわからず取り敢えず水分補給をしてもらおうとストローのついたペットボトルを彼女に近づける。

 天和は眉間に皺を寄せて苦しそうな顔で璃亜夢を見ていた。

 それは紛れもなく自分自身だった。

 何度も何度も呼吸を繰り返して、呻き声をあげる姿は本当に『あの夜』の自分と重なり璃亜夢はぞっとする。

 璃亜夢は思わず息を飲んでしまうが、それに気が付かなかった天和は璃亜夢の差し出すペットボトルのストローに口を付けて飲む。

 そして璃亜夢の空いている手を握る。

 あまりに強い力で璃亜夢は思わず現実に引き戻されるような気分だった。


「璃亜夢ちゃん、こんなの一人で頑張ったの? 強すぎだよ」

 天和はそう言いながら璃亜夢の手を握り締める。

 璃亜夢は何と返せば良いのかわからなかった。

 だって、天和はこの日をきっと待ち侘びていたはずなのだ。自分の中に宿った命を喜び、ここまで大事に大事に育ててきた。

 璃亜夢とは全然違う。

 茉莉花を呪うように過ごしてきた璃亜夢に、天和にかける言葉があるはずもなかった。

 璃亜夢はただ天和の手を握り返した。それしかできなかったのだ。

 それからしばらくして助産師がやってきて、漸く分娩室へ移動することとなった。


 そこからは怒涛だった。

 先生や助産師たちの「いいよ」「がんばって」の励ますような声をかき消す様に天和の叫び声が廊下にまで聞こえていた。

 駅から走ってきた天和の夫は汗やここまでの走行でスーツは酷いことになっていたが、服装を整える時間も惜しいようで分娩室へ通され周りと同じように天和に声をかけ続ける。

 でもそれをも遮る彼女の言葉にならない悲鳴に、大黒は勿論、璃亜夢も気が気ではなかった。

 どれだけの時間が過ぎた頃か。

 先生と助産師の「おめでとうございます!」の声と同時に赤ん坊の鳴き声が聞こえてくるので、大黒と璃亜夢は思わず顔を見合わせる。


「産まれた」

 そう呟いて大きく息を吐く大黒の声を聞きながら、璃亜夢は思わず「良かった……」と呟く。

 助産師たちが慌ただしく分娩室を出入りするとき、扉の隙間から天和の胸に乗せられている小さな小さな赤ん坊が見えた。天和はその赤ん坊を見て、泣いていたし、笑っていた。

 真横に立っていた天和の夫も泣いていたし、笑っていた。

 天和と一緒に生まれてきた赤ん坊を見て本当に嬉しそうだった。


 ああ、あれが『普通』の姿なんだ。

 璃亜夢はそう思う。

 自分にはなかったものだ。

 だけど想像してしまうのだ。


 もし。

 もしもの話。

 アパートへやってきた時、外階段を降りるのに手を貸そうとしてくれた大黒の手を取っていたら。

 買い物袋が破れて缶詰を拾ってもらった時、大黒にお礼が言えていたら。

 もしかしたら、璃亜夢はもっと早く病院へ連れられて、こういう出産を迎えることができたのではないか。

 もしかしたら、茉莉花が産まれた瞬間を喜べる未来があったんじゃないのか。

 そして隣りに大黒が立ってくれていたんじゃないのか。


 そんなもう遅いことを考えてしまう。

 璃亜夢が扉の隙間から見えた『有り得たかもしれない自分の未来』に思わず涙を流す。

 だけどそんなことを知らない大黒は、璃亜夢の肩を撫でながら「無事産まれてよかったね」と姉の子供が産まれたことを心の底から喜ぶ。

 その表情を見ながら、璃亜夢は、私の時もそう思って欲しかった、と考えざるを得なかったのだ。

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