32:いつ母になったと思うのか

 大黒に連れられてやってきのは住宅街にある他とは大差ない普通の一軒家だった。

 表札には大黒と書かれている。

 此処が大黒の育った家なのか。

 璃亜夢は家の外観を眺めながら少し感動する。

 この家がこの男性を、こんな風に実直な人に育てたのだ。

 この家の人は璃亜夢のような人間をどう思うか。

 

 ……もしこの家で育ったら、私はもっとマシな人間になれたのか。


 そんなことを考えずにはいられない。

 家を見上げながらぼんやりと眺めていると、門扉を開けて茉莉花を抱えた大黒は中に入ろうとする。

「はい、どうぞ」

 大黒はそう言いながら璃亜夢は中へと招いた。


 璃亜夢は子供の時から、誰かの家に遊びに行くという経験が殆どなかった。

 いつも遊ぶときは外だった。映画とかショッピングモールとか。

 誰かの家にお呼ばれするなんてことはなかった。

 大黒のアパートの部屋に入った時も妙な気分になったが、家となるとその傾向は顕著になった。

 まず匂いが違うのだ。

 アパートを越してきたばかりだと言っていたし、匂いが強くないように璃亜夢は思った。だけど家はそうじゃない。

 住んでいる時間が違うのだ。

 璃亜夢は玄関に佇み思わず惚けてしまう。

 大黒は先に上がると「ただいま」と中に声をかける。

 すると奥からかなりお腹の大きな女性がやってくる。彼女は大黒を見ると「おー、朱鳥、おかえり」と笑う。そして大黒が抱える茉莉花とその奥に居る璃亜夢を見て「あー、この子?」と大黒に問う。

 誰こいつ、みたいな空気にならなかったのは璃亜夢としては有難かった。

 十中八九大黒が予め話してくれていたのだ。


「どうぞどうぞ、中入って。色々あるから選んでくれる?」


 そう言うと女性は奥へ璃亜夢を招く。

 彼女は大黒の一番上の姉で寛和かんなというそうだ。

 連れてこられたリビングには、寛和の娘たちがいた。二人は恐らく五歳と三歳くらいの女の子で、ソファーで二人丸まって眠っている。

 テーブルには淡いピンクや、フリルが沢山使われた服が何着も並んでいる。

 寛和は大黒が抱えていた茉莉花を見ながら「ちっちゃいね、可愛い」と笑う。

 それが本心なのか、社交辞令なのか。璃亜夢にはわからなかったけど、その言葉に璃亜夢は心臓がざわざわした。

 それは嫌な感じではない。自分が産み落とした赤ん坊に『可愛い』と言われて嬉しいようなむず痒いようなそんな気分になってしまったのだ。


「この子、可愛いのかな……」

 璃亜夢は思わず呟く。

 その声に大黒と寛和は驚いて顔を見合わせるが、寛和は璃亜夢に近づき璃亜夢の肩を抱きしめると頬を寄せる。

「可愛い、めちゃくちゃ可愛い。貴方が頑張ったって産んだ赤ちゃんよ? きっと美人さんになるわ」

 本当に頑張ったわね。

 そう言われて璃亜夢はまた少し泣きそうになってしまう。

 昨日と今日でどれだけ人を泣かせるつもりなのか。

 璃亜夢が唇を噛んで我慢しようとしているのを見て、寛和は璃亜夢の背中を摩って「どれが良い? 好きなの選んで」と璃亜夢をテーブルの方へ押した。


 暫くして大黒の三番目の姉が戻ってくる。

 彼女は天和てんなといい、寛和よりも一回りほど腹が大きいかった。

「こんなに大きいと買い物の一苦労よね」

 天和はお腹を摩りながら笑う。

 彼女も恐らく弟から璃亜夢と茉莉花のことは教えられていたのか、大して驚く様子もなく茉莉花を見て「女の子? 可愛い」と笑う。それを聞いて璃亜夢はまた心臓がざわざわする。


「大丈夫なんですか、お腹」

 璃亜夢は話題を自分から外したくて天和の膨らんだ腹を見て訊く。正直、自分の時よりも大きく膨れた腹に心配になる。

 天和は笑いながら「もうすぐ予定日なの」と笑う。だけどすぐに困ったような表情になる。


「でも、何だかさっきからお腹痛くって。今は治まってるんだけど、さっきから痛いのとそうじゃないのと繰り返しで……大丈夫かな」

 そう言いながら腹を摩る天和に、寛和がぎょっとする。

「アンタ、それ陣痛来たんじゃないの?」

 その一言に、天和だけではなく璃亜夢と大黒もぎょっとする。


「えっ?! これ、陣痛なの?! 陣痛来たの?!」

 お腹を押さえて天和は焦る。

 その様子に大黒も「陣痛?!」と焦りだす。

 璃亜夢も先日のことを思い出して血の気が引く。

 あののたうつような痛みが天和を襲おうとしている。腹が圧迫されるような強い痛みがもうそこまでやってきているのだ。

 あの悪夢のような恐怖の時間に璃亜夢は震える。

 大黒もこの状況に焦っていたが、寛和は「でもまあ予定日ってそういうものよね」と言いながらゆったりとした足取りで大黒の背中を強く叩く。


「朱鳥、天ちゃん病院連れてってあげて。天ちゃん、入院の準備はしてたよね?」

「えっ、あっ、うん、カバンにまとめてる」

「朱鳥、ほら天ちゃん連れてって」

「う、うんわかった」

 大黒はずっと抱えていた茉莉花を璃亜夢に一旦抱かせると慌てて天和の荷物を取りに向かう。天和も大黒を追いかけながら「二階の和室!」と叫ぶ。

 リビングには璃亜夢と茉莉花、寛和と眠っている彼女の子供たちだけになる。

 璃亜夢はこの空気にただ困惑していたが、寛和がそんな璃亜夢の背中を撫で彼女の顔を覗き込む。


「璃亜夢ちゃんは公衆トイレで一人でこの子を産んだんだよね。それって普通のことじゃないのはわかる?」

 責めるような口調じゃない。だけど諭すような声色だ。

 やはりこの人は大黒の姉なのだと璃亜夢は思わず考えながら「えっと」と口篭る。


「璃亜夢ちゃんも天ちゃんと一緒に病院に行ってくれるかな? それで一般的な出産がどういうものか、女性がお母さんになる瞬間ってのを見てきたら良いよ」

「お母さん……。それって私ももうお母さんになっているってことでしょうか。茉莉花の世話の仕方を昨日教えてもらいました。でも……私は、お母さんって感じじゃ……」

 璃亜夢はそう言いながら茉莉花を見る。

 私たちは、母と娘なのか。

 関係としてはそうなのだが、気持ちが追いついていない。

 いきなり母と言われても、困る。それが璃亜夢の正直な気持ちだった。

 困惑する璃亜夢の背中を寛和が撫でる。


「私はね、一番上の子産んでも暫くは自分のことを『お母さん』だなんて思えなかったよ」

「今は思えるんですか?」

 寛和の言葉に璃亜夢は意外そうな顔をする。

 こんな真っ当な女性がそんなことを言うなんて。この人はてっきり出産した瞬間、母としての自覚に芽生えそれはもう立派に母親を努めているのだと思っていた。

 寛和は璃亜夢の顔に苦笑する。


「うーんとね、あの子に、ママ、て呼ばれるようになってからな。あー、私ママなんだーって思えるようになったの。そりゃ産んだら周囲は自動的に『母親』として扱ってくるけど、本人の自覚なんてその後からついてくるものよ。いつ『母親』になるかなんてその人次第。だから璃亜夢ちゃんがまだ茉莉花ちゃんのお母さんになれてないのは、それはそれ、じゃないかな」

 そう言って寛和は笑う。

 その言葉に璃亜夢は考える。


 私はちゃんと茉莉花の母になれる日がくるのか。


 そう考えてしまうが、そんな時に荷物を持った大黒がリビングにやってくる。

「じゃあちょっと行ってくる」と寛和に告げる大黒に、寛和は璃亜夢を大黒の方へとそっと押し出す。

「天ちゃん頑張って。朱鳥、璃亜夢ちゃんも一緒に連れてってあげて」

「うん? わかった」

 寛和の言葉に怪訝そうな顔をする大黒だったが、すぐに頷いて璃亜夢を連れて行く。

 璃亜夢は大黒に誘導されながらも、ただ寛和の言葉に戸惑ったままだった。

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