34:幸福の条件は手が届く距離にあるけれど

 天和が無事出産して、大黒と璃亜夢は病院を後にした。その頃にはもう夜になってしまっていた。

 一度大黒の実家へ車で戻り置きっ放しにしていた買い物袋と借りた茉莉花の服を受け取りに行ったのだ。

 その際、寛和に天和が無事に出産を終えたことを改めて報告した。先に連絡はしていたが直接伝えると嬉しそうだった。


「天ちゃん、どうだった?」

 寛和は大黒ではなく、璃亜夢に問う。恐らく家を出る前の事を言っているのだろう。

 璃亜夢は何も答えることができず曖昧に寛和に笑うしかできなかった。寛和もそのことに言及するつもりはないようで「天ちゃんが退院したらまた遊びに来て」と璃亜夢に笑いかけた。

 そのまま大黒と璃亜夢はアパートに戻ることになった。


 大黒の実家からアパートまで歩いて帰れない距離ではなかった。

 大黒が茉莉花を抱え昼に購入した買い物袋を持っていた。璃亜夢は大黒の姉から借りた女の子用の服が入った袋を持っていた。

 二人は並んでアパートまでの道を緩やかに進む。

 今日は土曜日のためか、昨日よりも人通りが多いように思える。


 人が大勢いる。

 皆目的地があるなしに関わらず道を行く。

 璃亜夢が今向かっているのはあのアパートだが、そこは『帰りたい場所』というわけでは到底ない。

 じゃあ一体何処に帰りたいのか。そもそも帰りたい場所はあるのか。

 そう考えたとき、不意に、今朝出生届の住所欄にあの家の住所を書いたことを思い出してしまう。

 あの場所は、やっぱり自分の帰りたい場所だと思っているということなのか。

 そう思うと複雑な気持ちになるのだ。


 あの家に帰りたいなんて思いたくない。

 だけどこのままあのアパートに住むこともしたくない。

 これ以上、永延と関わっていたくない。

 だけどどうしたら。

 まるで『母』と『永延』を天秤にかけている気分だ。


 どうせ天秤にかけるなら……。


 璃亜夢は隣りを歩く大黒を窺いみる。

 誰かを選ぶなら大黒を選びたい。

 そうしたらきっと幸せになれるんじゃないのか。この人と出会えたのは幸運だったんじゃないのか。

 そう思わずにはいられない。

 この人が私の幸運なのだ。


 すがれば、受け入れてくれるかもしれない。


 璃亜夢は空いているで、買い物袋を持っている大黒の手に触れようと伸ばす。

 この手を取れれば。

 そう思うが、指が届かない。触れることに戸惑うのだ。

 拒まれるかもしれないという可能性を考えると怖い。大丈夫という確証がないと動けない臆病者なのだ。


 もし、私がもっと『可哀想』だったら、彼は私を受け止めてくれるだろうか。

 大丈夫と私の手を握ってくれるだろうか。

 私が『可哀想』なら。


 そう思いながら、璃亜夢は大黒の手に伸ばしていた自分の手を引っ込める。

 同情で大黒の気を引ければ良いのか。

 それは虚しいんじゃないのか。

 璃亜夢は少し頭を振って、その考えを消そうとする。

 その様子が目に入ったのか、大黒は怪訝そうに璃亜夢を見る。


「どうかした? 気分悪い?」

 そう気遣うようにかけてくる大黒に璃亜夢は胸がざわつく。璃亜夢は「ちょっと疲れただけ」と曖昧に笑う。


「それも僕が持とうか?」

「大丈夫……」

「そう?」

「うん」

 大黒の言葉に、璃亜夢は少し息が詰まる。普通に返せていただろうか。

 璃亜夢は大黒を窺いみるが、璃亜夢の気持ちの変化に大黒は気がついている様子はなく前を見て歩いている。

 そのとき、ふと、大黒は何かを見て少し目を見開く。


「コンビニ寄るけど、璃亜夢さん何か要るものある?」

 そう言いながらコンビニの看板を指差す。

 璃亜夢は首を横に振ると、「コンビニの冷房がちょっときついから、私は外で待ってる」という。


「じゃあ荷物見ててもらって良い? すぐ戻るから」

 大黒はコンビニの前に着くと、壁際に寄って立つ璃亜夢の足元に買い物袋を置く。茉莉花は抱えたまま中へ入ろうとする。

「うん、大丈夫」

 璃亜夢は大黒にそう言いながら今後の自分について考えようとする。

 本当にこれからどうしたら良いか。

 答えがでないことを思いながら、璃亜夢は自分の足元に見ていた。


 そんなとき、璃亜夢の前に誰かが立つ。

 此処に立ってるのが邪魔だっただろうか。

 璃亜夢がゆっくりと顔を上げると、目の前に立っていた『男』の顔を見て息が止まりそうになる。


「やあ、璃亜夢ちゃん」


 それは永延だった。

 思わず借りてきた服の入っている袋を落としてしまう。

 心底茉莉花を大黒が抱えて行ってくれたことに安心した。

 何故此処にこいつが。そう思うものの、声が全く出てこない。

 怖い。逃げ出したい。

 永延はそんな璃亜夢の恐怖を感じているのか、楽しそうに微笑む。


「奇遇だね、どうしたのこんなところで」

「買い物の、途中でいるだけ……です」

 璃亜夢はそう言いながらちらりとコンビニのガラスから店内を横目で見る。大黒はレジに並んでいるが、会計を待っている人がまだいるからすぐには出てこれない。

 永延に、大黒のことを知られたらどうしようと、璃亜夢は焦る。

『アパートの他の住人と話をしてはいけない』というルール違反を咎められるだろうか。どうにかして永延をこの場から遠ざけたい。

 その方法を必死で考える璃亜夢。

 そんな璃亜夢を見ながら永延はコンビニのガラスから店内を一瞥するが、すぐに璃亜夢に視線を戻して微笑む。


「ねえ、璃亜夢ちゃんお腹空いてない?」

「え」

「ご飯食べに行かない?」

「……」

 璃亜夢は微笑む永延にただ息を飲む。

 断れるはずがない。

 璃亜夢は永延の顔が直視できないまま、静かに頷いた。

 心の中で大黒とまだ連絡先を交換していなかったことにちょっとだけ安心した。



 大黒が買い物を終えてコンビニを出ると、そこに璃亜夢の姿はない。

 彼女が立っていた場所には、大黒が預けた買い物袋、そして璃亜夢が持っていた袋が残っていた。

「璃亜夢さん?」

 大黒はきょろきょろと見回すが、彼女の姿を見つけることは当然ながらできなかった。

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