22:井戸の底では息もままならない
それでも璃亜夢はこの生物の我侭に三日は我慢した。
璃亜夢は朦朧とする意識の中、耳の奥にこの生物の喚き声が残っている様な耳鳴に頭痛がした。
もう、無理だ。
どうして私がこいつの面倒を見ないといけない。
そんな考えがぐるぐる回って、ボサボサになった頭で結論出した。
こいつは要らない。
そう思った瞬間、璃亜夢はそれまでずっしりと自分に伸し掛っていた重圧から解放されたような気持ちになった。
きっとこの結論を聞いて、一般的な大人なら璃亜夢を叱責するだろう。
自分で産んだ子供を要らないとはどういうことか。
お前は母親だろう、身勝手にも程がある。
そう罵声を浴びせるだろう。
だけど。
璃亜夢はそもそも『子供』を産んだつもりはない。彼女にしてみたら、自分の不調の原因を外に出したというのが正しい。便秘と脱糞のような関係に等しい。
ただ外に出したものがたまたま生物だったというだけなのだ。
そして更に言うなら、彼女は『母』になったつもりもない。何故腹から『生物』が出てきたら、その『母』にならなくてはいけないのか。
璃亜夢はこの生物に対して何の責任を負うつもりもない。
それ故の、『こいつはもう要らない』という結論。
夜なったらこいつを捨てようと決めた。
便をトイレに流すように、胎盤を流した。次はこいつだ。
公園にある溜池に捨てよう。
そしたらこの頭がおかしくなるような日常から解放されるのだ。
日が暮れて、璃亜夢はタオルに包んだその生物を抱えてアパートの部屋を出る。
大きめなビニール袋も持っているので、それにこいつと公園に落ちている石を詰めて溜池に沈める。
それで終わりだ。
勿論、璃亜夢にも良識や善悪観念は多少なりともある。
多目的トイレでこいつを腹から出したときも、多少良心の呵責もあり置き去りにはしなかった。
だけど睡眠不足と疲労と頭痛、喚き声が残響するような耳鳴に、泣けなしの良心は溶け消えた。
まるで井戸の底にいるようだ。暗くて冷たくて、息苦しい。一人ではどうやっても逃げることができない。そんな絶望感。
だけどこれを捨ててきたら、この苦しみから解放されると光明が差し込んでいるような気さえしていた。
楽になりたい。これで楽になれる。
璃亜夢は喜びながらアパートの外階段を降りようとする。
その時だった。
いつかのように、下から誰かが階段を登ってくる。左隣の部屋に住む男性だ。
彼は璃亜夢を見て会釈をしてくれるが、璃亜夢はそれに何も返さない。
今はこの人と関わっている暇はない。
一秒でも早く楽になりたいのだから。
璃亜夢は何事もなかったかのように彼の隣りを擦れ違い階段を下りていく。
だけど擦れ違った時に、彼は璃亜夢にとってとんでもない言葉を口走ったのだ。
「産まれたんですね、おめでとうございます」
彼は璃亜夢が抱える生物を見て、穏やかに微笑む。
心からこの生物の誕生を祝福するかのような様子に、璃亜夢は思わず足を止めてしまう。
思わず耳を疑った。
この男は何を言っているのかと本気で璃亜夢は思った。
何が『めでたい』のか。
こいつのせいで、こっちはどんな目に遭ってきたか。そして今もこんなにも苦しめている。
それなのに、この男は『めでたい』だなんて言う。
これが一般的な反応なのだ。
産まれてきた子供をお祝いする。
だけど精神的に疲弊した璃亜夢にはもうその『普通』がわからない。今、彼に祝福されている生物に苦しめられている璃亜夢にとっては……。
璃亜夢はまるでこの世の終わりのような暗い表情で彼を睨みつけると、人目も気にせず叫ぶ。
「何がめでたいっていうの?!」
もうアパートの住人全員に聞こえるような大声が夏の夜に響く。
璃亜夢は思わず叫ぶが、こんな大きな声が出せたことに驚くけれど、疲労困憊の彼女にはこの行為だけで目が回るような感覚に襲われ、階段の手すりに掴まる。
彼は唖然と璃亜夢を見つめていた。
このまま、変な女に関わりたくないと部屋に帰ってくれないか。
もう関わらないで。
そう璃亜夢は霞のかかった思考で願うが、彼はそうしなかった。
「あの、大丈夫ですか?」
彼はあろう事か心配そうに璃亜夢に歩み寄ったのだ。
自分を気遣うような言葉を聞いたのは、いつぶりだろうか。
たった一言の優しい言葉に、璃亜夢は自分の中で何か張り詰めていた糸が切れるような気がした。
気が付けば、璃亜夢は涙を零していた。
「うっ、うう……」
璃亜夢は俯いてぼろぼろと涙を落としていく。涙は璃亜夢が抱える小さな生物に落ちる。
その涙に小さな生物は手足をバタつかせてもがくが、口にはタオルが詰められたまま呻く声が聞こえる。
彼は口にタオルが詰められている小さな生き物を見て、一瞬顔を強ばらせるが、璃亜夢の様子に何かを察したように困惑する。
彼は恐る恐る小さな生物に手を伸ばし、口に詰められているタオルを丁寧に外す。
生き物は久しぶりに何にも阻まれることなく呼吸を行うと、大声で泣き出す。
その声が聞きたくなくて璃亜夢は小さな生き物から顔を背けるが、彼は「ちょっとすみません」と言いながら璃亜夢から小さな生き物を受け取り抱える。
「大丈夫、大丈夫」
彼は小さな生き物をまるで赤ん坊にするように抱き上げて背中を叩きながら身体を揺らす。
すると鳴き声は次第に小さくなっていく。
璃亜夢は自分がどんなけやっても鳴き止まなかったその生き物をあやす彼に呆気に取られてしまった。
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