23:その声は誰よりも泣いていた
彼は
大黒は慣れた手付きでその小さな生き物をあやすと、璃亜夢を自分の部屋へ招いた。
璃亜夢が生活している永延の部屋は殆ど家具がなかったが、どういうわけか、大黒の部屋も家具が少ない。ダンボールが中途半端に開けられており、まだ引っ越してきて日が浅いように見える。とはいえ、永延の部屋よりは圧倒的に物があった。
部屋には小さなローテーブルとクッションがあり、大黒はその生物を抱えたまま璃亜夢にクッションに座るよう勧める。そして荷物を抱えたまま、大黒は璃亜夢にホットミルクを入れてくれる。
「どうぞ」
「……ありがとう」
璃亜夢はカップを受け取ると、大黒は璃亜夢の向かいに座る。大黒は抱えた生物の背中を撫でながら穏やかにそのくしゃくしゃな顔を覗き込んでいた。
璃亜夢はまだ涙が乾かない目を伏せながら、ホットミルクを飲む。ただの牛乳のはずなのに、どうしてこんなにも美味しく感じるのだろうか。
もしかしたらこの三日、まともに食事ができていなかったのもあるのかもしれない。一口飲み込むほどに、疲弊した身体に暖かさが沁みていくような感覚に、璃亜夢はまた泣きそうになる。
大黒はそんな璃亜夢を見ながら、不意に思い出したように「この子、名前を聞いても良いですか?」と呟く。
その言葉に璃亜夢は大黒の顔を見れずカップの白い水面を見つめる。
「名前なんて、ない」
その言葉に、大黒は驚く。だけどすぐに表情を戻して「じゃあ付けてあげたら?」と呟く。
そう言われても、と璃亜夢は困惑して押し黙る。何も答えない璃亜夢を急かすようなことはせず、大黒は小さな生物の背中を擦るように撫でている。
そのあまりに慣れた手付きに璃亜夢は不思議そうに大黒を観察していた。
「子供がいるの? 何か慣れてる」
璃亜夢が率直に問うと大黒は「そう?」と笑う。
「僕は四人姉弟の末っ子で、上は全員姉さんなんだ。歳は皆三歳差で、僕と一番上の姉さんとは九つ離れてるんだ」
彼はそう言って苦笑する。
一人っ子だった璃亜夢には遠い話だ。想像もつかない他の家族の話に璃亜夢は相槌を打ちながらホットミルクを飲む。
「姉さん達は全員お嫁に行ったんだけど、出産の時は決まって家に帰ってくる。出産後もしばらくは家にいるからオムツ変えたりミルク飲ませたりしてたから、うん、多分慣れてるんだと思う。姉さん達は使えるものは旦那さんだけじゃなく母さんも弟も遠慮なく使うから。姪っ子をお風呂に入れてくれって言われた時は本気で困ったよ」
大黒は苦笑気味に答える。その様子を璃亜夢は想像する。璃亜夢には大黒の姉達の気持ちが少しわかった。
あんなこと、一人で続けていると本当に頭がおかしくなる。……実際おかしくなっていたのだと思う。
「あんなの耐えられないわ。それで家を出て此処に越した来たの?」
璃亜夢はそう直感して大黒に問う。
逃げ出したくなる気持ちはよくわかる。璃亜夢は逃げ出したかったのだから。
大黒もそうだと思った。
だけど大黒は璃亜夢の言葉に面食らったが、すぐに笑った。
「残念、そうじゃないよ。今、一番上の姉さんが三人目、三番目の姉さんが一人目を妊娠して家に戻ってるんだけど、一番上の姉さんがまだ小さい姪っ子達も連れて帰って来てるからお子様達が寝る部屋が無いって僕はアパートに追い出されたわけ。元々仕事場の近くに引っ越そうと思ってたんだけど、契約したかったマンションが設備点検とか耐震工事とかで一年入居できなかったから此処に越してきたんだ。それに此処に越してきたけど、多分姉さんのどっちかが出産したら即行呼び付けられるよ」
大黒はそう言いながら笑う。
そんな彼の朗らかな反応に璃亜夢は理解できなかった。
目の前の男は、まるであの苦行を何でもない風に笑っているのか。頭がおかしいんじゃないのか。
璃亜夢が唖然としていると今度は大黒が問いかける。
「君はさっき何処に行こうとしていたの」
そう問われて璃亜夢は血の気が引いた。
大黒に声をかけられるまで、璃亜夢は自分が行おうとしていた行為が『正当』なものだと信じて疑っていなかった。
だけど大黒に声をかけられ、大泣きして、ホットミルクを飲んでいると、璃亜夢の精神状態は少し落ち着く。それだけで、さっき自分が行おうしていたことがどれだけ恐ろしいことだったか理解する。
殺すのではなく、何処かに置き去りにする方が良い。……それも間違っているが。
璃亜夢は答えたくなかった。だけど、答えなくても大黒は既に察しているような気がした。何も言わなくても、彼は疲弊しきっていた璃亜夢と口にタオルを捩じ込まれていたその生き物の様子からただならぬことが起こっていることに気がついているはずだ。
彼は全部わかっているのだ。そう思うと、璃亜夢は何処か諦めたように口を開く。
「……そいつを、殺そうと思ってた」
素直に白状する。
すると大黒は明らかに狼狽するが、何とか冷静でいることに努めているようだった。
「この子のお父さんはそのことを知ってるの?」
「そもそも父親が誰か知らない。私は『子供』を産んだつもりもない。だから私はそいつを育てる気もないの」
そう言い放つ璃亜夢。
大黒にはさぞ身勝手な女に見えるだろう。実際その通りなのだが。
璃亜夢の言葉を聞いて、大黒が自分を非難するだろうと、璃亜夢は覚悟した。だけど大黒は悲しそうな顔で璃亜夢の言葉を聞きながら、今は静かな小さな生物の頭を撫でる。
「君の家族は、君に子供が産まれたことを知ってるの?」
「家出してきたの。こんなことになっているなんて知らないし、そもそも探す気もないみたい」
「……誰か君を助けてくれる人はいる?」
そう問われて、璃亜夢は一瞬、永延の姿を思い浮かべるがすぐにその姿を打ち消す。
あの男は、璃亜夢で遊んでいるに過ぎない。確かに金銭面やアパートの部屋など、助かっていることはあるが、決して善意ではない。
璃亜夢を飼い慣らしているのに近いのかもしれない。
それを『助ける』とは言わないし、もし陣痛が来た時に永延に連絡をしても「そうなの? 頑張って」と言って通話を切られるに違いない。だから璃亜夢は大黒の言葉に首を振った。
そんな璃亜夢を見て、大黒は悲痛そうな顔をする。
彼は璃亜夢に同情してくれているのか。
可哀想だと思ってくれているのか。
璃亜夢は自嘲すると、大黒に家出してから自分に起こったことを話しだした。
自分は十五歳であること。
家を出て、漫画喫茶や路上で生活していたこと。
夜寝る場所を確保するために、適当な男性とホテルへ何度も行っていたこと。
その内の一人が璃亜夢と頻繁に遊んでいたこと。
妊娠が発覚したこと。
アパートの部屋を貸してもらい生活していたこと。
公衆トイレで一人出産したこと。
そして三日間そいつと暮らしたが耐えられなくてそいつを殺そうと決めたこと。
もう洗いざらい全部ブチ撒けてやった。
大黒は、どんな顔をするか。
同情してくれるか、可哀想に思ってくれるか。それとも璃亜夢という人間を否定するのか。
どれでも良い。璃亜夢は大黒の反応を窺う。
だけど、大黒の反応はどれでもなかった。
大黒は璃亜夢の話を黙って聞き耐えると、まるで痛がるように顔をしかめる。
「……それは君の自業自得だ。なるべくしてこうなった」
その一言に、璃亜夢はこの男も他と同じだと思う。自分と否定する人間だ。
だけどただ否定されるのは気に食わず璃亜夢は大黒を睨みつけた。
「アンタに何がわかるの。私だけが悪いの? どうして私が非難されないといけないの?」
そうキツく言い放つと、大黒は「僕は君を非難するつもりはないよ」と呟くがすぐに「いや、違うね」と首を軽く左右に振ってから自分を睨みつける璃亜夢を見据えた。
「僕は君『だけ』を非難するつもりはない。君に関わった全員を非難するよ。身勝手に家を飛び出した君も、そんな君を連れ戻そうとしない家族も、きっと家出娘だってわかっていたのに君の誘いに乗った男性も、事情を知っているのに君に家に帰るよう言わなかった人も、僕は皆非難するよ。……一体何を考えてるんだ。君は未成年で、女性なんだぞ」
大黒は璃亜夢を見据えて淡々と呟く。
彼は非難していると言っているが、璃亜夢はまるで叱られているような気分になった。母から怒られることは沢山あった。
だけど、諭すような、叱るような、そういう物言い。
「じゃあ私は一体どうすれば良かったの。ずっとずっと辛い思いをしてあの家で生きていけば良かったの?」
「確かに君に取って家は辛いものだった。それは家を出て何ヶ月も帰ってないことからも明らかだと思う。だけど人一人殺すことを良しとする精神状態になってことの方が駄目だ。僕は辛くても家にいることを選んで欲しかった。高校を卒業すれば大抵のことはできるようになる。就職も、家を出て部屋を借りることも。十五歳に何ができる。惨めに身体を差し出して日銭を稼いだ結果、君は身体も心もボロボロしてしまった」
本当に馬鹿じゃないのか。
大黒は呟くが、その表情はとても傷ついていた。
まるで璃亜夢に降りかかった出来事を自分の身に起きたかのように感じているのかもしれない。
大黒は何度も璃亜夢に、馬鹿、と呟く。その声はとても弱々しく今にも泣きそうにも聞こえた。
気が付けば璃亜夢は「ごめんなさい」と呟いていた。
その呟きは大黒にも届いたようだったが、大黒は目元を押さえながらもう一度「馬鹿」と呟いた。
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