20:可哀想と思う気持ちが心の慰み

 徒歩十分程の距離を、璃亜夢は一時間程かけて漸くアパートに戻った。

 白んでいた空は随分明るくなっていて、新聞の配達員とも擦れ違った。

 抱き抱えた小さな生き物が鳴き声をあげないか不安だったが、こいつは璃亜夢の中から生まれでた後に少し鳴いた後は、どういうわけか静かだった。

 単に鳴き叫ぶだけの体力がないのか、それともそういう性質なのか。

 どちらにしても手間がかからないのは良い。

 息が止まっているのか気になるが、背中が上下しているから一応呼吸はしているようだ。


 アパートに戻ると、璃亜夢は小さなそいつをフローリングに転がす。ベビーベッドなんて上等なものはなかったし、ソファーに置いて汚されても困る。


 璃亜夢は自分の服に包まって横たわる、まだ目もよく開いていない生き物を見る。


 こんなものが自分の腹に入っていたことにただただ驚く。

 小さいのに確かに人の形をしている。不気味だ。

 璃亜夢はまじまじとその小さな生き物を観察していたが、アパートについた安心感からか急に疲労感と眠気が襲いかかる。


「もう無理」

 璃亜夢はまだ痛む下腹部を摩りながら、ゆっくりとフローリングに横たわる。

 シャワーも浴びたいし、着替えもしたい。

 起きたら何か食べたい。

 そう思いながら、璃亜夢はゆっくりと目を閉じる。

 そういえば、こいつは一体何を食べるのだろうと考えたが、結論が出る前に意識が途切れた。


 ***


 それはどれくらいの時間が経った頃か。

 胸を強く圧迫する感覚に璃亜夢は意識を浮上させる。

 まるで胸にレンガでも積み上げられているような気分になり何事かと慌てて目を開けた。


 まず顔にかかる影に気が付いた。

 一瞬もう夜なのかと思ったが、周囲は明るい。ただ璃亜夢の顔に影が落ちているだけだった。

 それは永延だった。

 永延はフローリングに仰向けなって寝ていた璃亜夢の横に立って片足で彼女の胸を踏みつけていた。

 自分を無表情で見下ろす永延と目が合うが、璃亜夢はその表情にぞっとする。

 永延とて璃亜夢と目が合って、彼女が目を覚ましたことに気がついているはずだが、彼女の胸を踏みつけている足を退けることしない。それどころか、足にかける力を更に加える。

 徐々に加わっていく荷重に璃亜夢はついに呻き声をあげて永延の足を掴む。


「い、痛い」

 璃亜夢は息も絶え絶えに呟く。

 彼女が表情を歪めて永延の足を退かそうと力を入れるが、出産を終えて疲れている彼女の力ではびくともしない。

 このままでは肋骨が折れるんじゃないのか。

 そんな強い力に璃亜夢は更に顔を歪ませるが、その瞬間、急に永延が足を退かせる。

 急に圧迫感から解放され、璃亜夢は咳こみ何度も呼吸を繰り返す。

 璃亜夢がフローリングに転がったまま無様に呼吸を整えている様子を見ながら、永延は楽しそうに微笑む。


「っ」

 何か言うべきなのだろうかと璃亜夢は永延を見上げながら考える。

 だけどこの状況で出てくる言葉が出てこない。

 今の行為に対する嫌味や恨み言は今も火山のように噴き出しているが、それが自殺行為であることをよく理解しているから璃亜夢は言葉を飲み込むしかない。

 永延もそれをわかっているのだ。

 璃亜夢が抗わないことを知っている。

 本当に嫌な男だ。

 璃亜夢は唇を噛んで、ゆっくりと身体を起こしてフローリングに座る。

 ちらりと窓を見ると、カーテンの隙間から青い空が見えているから昼間であることを察する。


「これ、いつ産んだの?」

 何も言葉を発しない璃亜夢に対して、永延はさぞ愉快と言いたげに璃亜夢の横に転がる洋服に包まった生き物を指差す。

 こんな状況でも静かなそいつに璃亜夢は内心呆れる。死んでるんじゃないのかと思える程だ。だけど残念ながら小さく身体が動いている。……まだ生きてる。

 璃亜夢はそいつが生きていることを確認しながら「今朝方です」と答える。


「ふーん。女の子、男の子?」

 永延はそう言うとゆっくりとしゃがみこんで小さな生き物を覗き込む。

 性別を問われ、そういえば確認していないことに気がつき璃亜夢は「見てません」と素直に答えると、永延は笑いながら「普通確認しない?」と言いながら包んでいる洋服を摘み上げる。そして「女の子だね」と言ってまた笑う。


 女の子。

 その言葉に璃亜夢は失笑する。

 永延が呟いた瞬間、璃亜夢は『女』としての自分のこれまでの人生を振り返る。何不自由なく育ってきたはずの自分がこの一年程過酷な日々を過ごしてきた。この一年は人生の苦しみを煮詰めて濃くしたような壮絶さがあったと璃亜夢としては思っている。

 それは自分が女だったからか。

 こいつもこのまま生きていたらこんな思いをするのだろうか。

 可哀想。

 そう思って笑ってしまう。


 璃亜夢が顔を歪めて笑うのを見ながら永延は首を傾げて「それで? どうするのこれ。育てるの?」と問いかける。

 そう問われて璃亜夢は永延を見る。

 育てる?

 私がこれを?

 育てる?

 私が?!

 永延の言葉に璃亜夢は唖然とする。

 いやしかし、こいつが如何に可哀想な人生を歩むかを見たいと思う気持ちも確かにあるが、それはつまりこのまま璃亜夢が育てるということになるのだろう。

 正直育てるという発想が全くなかった璃亜夢は永延の言葉に衝撃を受ける。


「『育てる』の言葉の意味が、ちょっと理解、できません」

 璃亜夢は率直に答える。

 すると永延は思わず吹き出して笑う。


「えっ? じゃあどうして連れて帰ってきたの?」

「どうしてって……」

「そもそもさあ、璃亜夢ちゃん、自分のお母さんのこと嫌いでしょ? 自分が今みたいなことになってるのは、お母さんのせいだって思ってるでしょ? そんなお母さんに育てられた璃亜夢ちゃんが育てる女の子は、『もう一人の璃亜夢ちゃん』になるって思わない?」

 永延の言葉に璃亜夢は、確かに、と思う。


 私がこれを育てたら、それがもう一人の私になる。


 それは何て可哀想なことか。

 璃亜夢はそう思いながら包まれているそれを見る。

 今は目を閉じて眠っているように見えるこいつも、璃亜夢が育てればきっと不幸になる。璃亜夢は少しだけ口元に笑みを浮かべる。


 永延はそんな璃亜夢の様子を見ていたがすぐに肩をすくめる。

「前にも言ったけど育てようが殺そうが、俺はどうでもいい。でも部屋を汚すのは許さないから」

 そう言いながら永延は璃亜夢の服を汚そうに指で摘む。

 出産を経て、血と汗で汚れた服。


「汚いよ。着替えたら?」


 永延はそう言うと自分のズボンで指を拭った。

 璃亜夢は自分の格好を思い出して急に惨めな気持ちになって、洗面所へ逃げ込んだ。

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