19:白む空を見て思うことは

 結論として、璃亜夢は生まれてきた宿敵を絞め殺すことができなかった。

 憎いという気持ちは確かにあった。厭う気持ちも確かにあった。何ならこの数ヶ月自分を苦しめられてきたことに恨み辛みも紛うことなくあった。


 だけど自分を腹の内側から苦しめていた存在が、こんなにも小さく、くしゃくしゃな猿のエイリアンのような生き物であることに肩透かしを食らった気分だった。

 私はこんなちっぽけな生き物に苦しめられてきたのか、璃亜夢はその事実に腹が立つと同時に、滑稽だ、と思った。

 この矮小な生き物を殺すのは簡単だけど、そんな簡単に終わらせていいのか、これまで積み上げられてきた苦しさはそんなものじゃあなかっただろう?


 だから、どうせなら、苦しめて殺してやろうと璃亜夢は思った。

 お前のせいで、私のこの約一年がどれだけ辛かったか。

 いや、そもそもこんなことになった原因は璃亜夢の家出から始まっているのだから、元凶は結局璃亜夢でしかないのだ。


 これはもう八つ当たりなのだ。

 だけど今の璃亜夢はそんなこともわからないくらい心が衰弱していた。

 ただそうすることで自分を保とうとしているだけの自分勝手な行為だ。


 ***


 出産で随分気分が高揚していたようだが、その波が引くと次にやってきたのはどうしようもない疲労感だった。

 早く帰って寝てしまいたい。

 璃亜夢はそう思ったが、出産が終わってからもかなりの労働が残されていた。


 まずはへその緒。これを切るのにかなり苦労した。

 鋏なんて持っておらず化粧ポーチに入れていた眉用のハサミで切断しようとしたが、まるでゴム管でも切っているような感触で中々切れなかった。

 テレビ何かで赤ちゃんのへそ近くで切って紐のようなものをへその緒に巻いているから何か結んだ方がいいのかと思ったが、紐なんてあるはずがなく髪用の細ゴムで縛った。


 何より困ったのはへその緒がまだ子宮口から伸びていたこと。

 へその緒のもう片端が一体何処に繋がっているのか知らない璃亜夢は残ったゴム管のようなへその緒を掴んで困惑した。

 どう処理したら良いのか。

 璃亜夢は腹を撫でながら困っていたが、少し腹に力を入れると、何かが腹の中から下りてくるような感触に震え上がる。

 一瞬出産が上手くいかず子宮が落ちてきたのかと焦った。

 子宮口から出てきたのは赤黒く丸い臓器のような何か。

 璃亜夢は血塗れのでろんとしたよくわからない二十センチにも満たないものが出てきて心底泣きそうになった。どうやらへその緒のもう片端はこの臓器のようなものについている。

 慌てて調べるとそれが胎盤であることがわかって、少し安心した。

 持って帰れるはずもなく、璃亜夢は胎盤はトイレに流した。

 手に持ったとき、胎盤はまだ温かく、本当に気持ち悪かった。


 トイレットペーパーで血塗れのタイルを拭いたけれど、どうにも隙間に落ちた分は拭いきれなかった。

 きっと明日何も知らない人がこの多目的トイレに入ったら、此処で良からぬことが行われていたことを悟って警察に通報するかもしれない。

 ……水浸しにして血を限りになく薄めるしかないか。

 璃亜夢は苦し紛れに蛇口の水をタイルに撒いた。血はかなり流れたが、それでも完全ではなかった。それ以上やっても無駄だと璃亜夢は察すると、水を止めた。


 どの程度証拠隠滅ができたかわからないが、璃亜夢が片付けを済ませ生まれたばかりの小さな生き物をコインランドリーで洗濯した服で包んで持ち帰ろうと多目的トイレを出たとき、橙色の空は夜の暗さを越えて既に白んでいた。

 もうすぐ朝が来る。

 夕方が明け方になるほどの長い時間、璃亜夢は苦しみ続けたのだ。


「疲れた……」

 璃亜夢は白んだ空を見上げてぼそりと呟く。

 本当に長い夜だった。

 まだ股が痛いし、足ががくがくする。

 本当に必死だった。死ぬかもしれないと思ったが、何とか生き残った。


 それなのに、こんな重い荷物を抱えて帰らないといけない。

 だけど腹の中が空になったせいで、朝に比べて身体は軽かった。

 結構出血してしまったせいか、頭がふらふらする。

 本当に早く帰って寝たい。シャワーも浴びたい。食事は……あんまり空腹感はなかった。取り敢えずまずは寝たい。

 白んだ空を見て、璃亜夢は脱力感に襲われながらもアパートを目指して歩こうとするが、もう身体の節々が痛むような感覚に、足が思うように前へ出ない。

 帰るのにも時間がかかるに違いない。

 璃亜夢が溜息をつくと、乱雑に服で包んでいたその小さな生き物が璃亜夢の服を掴む。目もまだ開いていないのに、どうしてこの生物は的確に璃亜夢を攻撃してくるのか。

 璃亜夢はそいつの手から服を振り払うように服を引っ張る。すると意外とすんなりと手を離す。

 その非力さに哀れになる。


「お前は可哀想だね。私のところに生まれなければ、多少はマシな人生だったんだろうね」


 心の底から哀れに思う。

 こんな私から生まれた落ちた命。

 こんな私を『母』にしてしまった『子供』。

 こいつは多分この世界で一番不幸なんじゃないのか、そう思えてしょうがない。


 昨日までは璃亜夢自身が、世界で一番可哀想な人間なんだと思って自分を慰めていた。

 だけど今日は、今日からは一番可哀想なヤツはこいつだ。

 そうに違いない。

 璃亜夢は小さな手を動かして何か縋るものを探しているような仕草をするそいつを見て、哀れに思えて心から嬉しかった。


 私だけが、可哀想なんじゃない、と。

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