17:その瞬間の訪れに恐怖だけが寄り添う
遂に、その瞬間がやってきた。
その日の夜、璃亜夢は溜まった洗濯物を持ってコインランドリーへ来ていた。洗濯を終えて帰ろうかと乾かした服の入ったトートバッグを肩にかけた瞬間、股から水が垂れてきた。
腹が大きくなるにつれ尿漏れのようなことは度々あったが、落ちていく水の量は尿漏れとは比較にならないほど多く、璃亜夢は足元にできる小さな水溜りを見て『遂に来た』のだと理解した。幸いコインランドリーには璃亜夢以外の利用者がいなかったので、床を汚したことを見咎められることはなかった。
足を伝う液体に璃亜夢は血の気も引いていく。
最近妙に腹に生理痛のような痛みが度々やってくると思っていたが、この瞬間が近づいている合図だったのか。
まずい、どうしたら良いのか。
心構えとして少しだけ出産について調べたが、先に陣痛が来て、それから破水なのだと璃亜夢は思っていた。これは破水なのか、そうじゃないのか。それすらわからない。
だけどもうすぐ腹の中のこいつが遂に出てくる時が来たのだということだけはわかった。
これからどうする。
アパートに帰ることを考えたが、すぐに永延から『部屋を汚してはいけない』と言われたのを思い出してその案は却下する。
璃亜夢は顔をあげて、コインランドリーの壁に掛かっている時計を見る。
時間は夕方の五時。
今の時間から人がおらず、立て篭れる場所はないか。
璃亜夢はコインランドリーから逃げるように出た。
どうしたら良いかどうしたら良いか。
璃亜夢はこれから起こるはずのことに怖くて涙が溢れる。俯き声を殺して、のろのろとした足取りで『何処か』を目指す。
手で涙を払いながら、璃亜夢はあてもなく歩く。
本当にどうしたら良いかわからないのだ。
簡単に調べただけでもこれからどれだけ過酷な時間が待っていることは明らかだった。
どれだけの痛みと苦痛が待っているのか。
想像しただけで足が震えた。
目的地は見つからないせいか、自然と足がアパートへ向かう。
だけどアパートでは到底腹の中のこいつを出せるはずもない。痛みで璃亜夢が泣き叫ぼうものなら、アパートの住民が警察に通報するかもしれない。それだけは駄目だ。
人気がなく、一人になれる場所。
そう考えたとき、アパートからスーパーへ行く途中の道を外れた場所に少し大きめの公園があるのを思い出す。
溜池もある広い公園で確か公衆トイレがあったはずだ。
「あそこなら……」
璃亜夢はふらふらとした足取りで公園を目指すこととした。
公園に着くと、園内はまだ空は薄ら明るかったが、人の姿はあまりなかった。園内をランニングしている男性や、犬の散歩をしている女性。それらを横目に璃亜夢は公衆トイレの多目的用のトイレに入り鍵を締める。
多目的トイレの室内に電気はあったが、どうも電球の寿命なのか時々ジリジリと明かりを不安定に揺らした。流石に点滅はしないから、今夜は大丈夫だろうと思うが、時々揺らぐ電灯は璃亜夢の不安を煽った。
これから一体どうなるのか。
どれだけ恐ろしいことが起こるのか。
凄まじい痛みが来るという。
その痛みに耐えることができるのか。
璃亜夢はトートバッグを壁のフックにかけると、よろよろと便座に座る。
何度も何度も深呼吸をするが、ちっとも気分が落ち着かない。
心臓が強く波打つ。
ただ只管恐怖しかない。
これから自分はどうなってしまうのか。
この恐怖を誰かに知って欲しかった。聞いてもらって分け和えたなら少しはこの恐怖は和らぐのか。
璃亜夢はスマートフォンを出すと、連絡帳からもう随分開いていなかった母の登録を探す。母の登録を開くと、母の写真を設定しており微笑む彼女がそこにいた。
母は自分を産むときにどんな心境だっただろう。
こんな恐怖が母にもあったのか。いや、あの人は少なくとも自分とは違う。
母は、多分、妊娠したときは少なくとも望んで身篭っていたはず。今となってはそのことを後悔しているかもしれないが。それでも妊娠は彼女の意思だったと思いたい、璃亜夢と違い。
望んで妊娠した女性でも、この瞬間は怖いのだろうか。
震えるほどの恐怖があるのだろうか。
母もこの瞬間は恐れたのだろうか。
璃亜夢は母の顔を見ながらスマートフォンを握り締めて涙を零す。
助けて、助けてママ。
そう助けを求めたら、あの人はどんな言葉をかけてくれるだろう。
璃亜夢は涙を止めど無く流しながら、自分に伸し掛る恐怖に嗚咽を漏らした。
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