16:頭を下げる度に尊厳が欠ける

 アパートでの生活が始まって数日して、永延から連絡が来た。

 今夜夕食に行こうという誘いだった。

 正直応じたくない。

 あの男と会うと、璃亜夢は自分の心が軋むような感覚に毎回震える。だけど自分の心情よりも、今は永延からの支援を打ち切られることが恐ろしい。

 この男に見放されてたら、寝る場所も食べるものも無くなってしまう。

 渡されている一万円札に惨めな思いはあるけれど、これが璃亜夢には必要なのだ。

 あんな紙切れが璃亜夢を生かすのだ。


 待ち合わせはいつも通りの駅だった。

 このアパートから最寄りの駅まで徒歩十分、璃亜夢の足で二十分、そこから電車で十五分かかって漸くいつもの駅に辿り着く。

 ここまでで璃亜夢も体力的にかなり疲れていた。

 駅から出るとまだ永延の姿はなく、璃亜夢は所在無さ気に駅の前に立ち尽くす。

 丁度学生や会社員の帰宅時間と重なっており、駅には沢山の利用者が出入りしている。璃亜夢は通行人にぶつからないように駅の出入り口の端に立つ。

 皆これから自分の家に帰っていくのだ。その何処にでも溢れた光景に璃亜夢は胸が重くなる。

 もしかしたらこの世界の何処かに璃亜夢が帰れる場所があるんじゃないかと錯覚したくなる。

 そう思った瞬間、璃亜夢は自分を殴りたくなる。

 そんなものはない、あるはずがない。だからこんなことになっているのではないか。

 璃亜夢は視線を下げて、服の上からでも分かるほど膨れた腹を見る。

 全部こいつのせいだ。そう思わなくては、璃亜夢は自分の保てなかった。


 本当に、自分はこんなところで何をしているのか。


 そう自分自身に問い質したくなる。

 そんなとき、不意に誰かが璃亜夢の前に立つ。自分にかかる影にぎょっとして顔をあげる璃亜夢だが、目の前に立っていたのが永延で思わず息を飲んだ。

 璃亜夢を見下ろす永延の表情には、喜怒哀楽の色はなく、ただ無慈悲に璃亜夢を見下ろしていた。彼の表情に璃亜夢はぞっとするが彼から逃げることができず何とか足を踏ん張り何とか彼の顔を見上げる。

 その様子に永延は鼻で笑ったように見えた。

 だが、すぐにいつものような軽薄な笑いを浮かべる。


「璃亜夢ちゃん、遅くなってごめんね」

「いえ……」

「最近どう? 貸した部屋はどんな感じ?」

 どう、と訊かれても、元より何もない部屋だから寝てるか起きてるか食べてるか、そういう生活だ。

 歩くのも体力がどんどん減っていくから夏の気温の外出は避けている。

 それでも食材の買出しや、洗濯機がないからコインランドリーで洗濯しに行ったりしている。


 起きている時間は、いつ、こいつが出てくるかも知れないという恐怖に怯えている。

 その瞬間の襲来を恐れている。

 こいつが無事に出てきたとき、ちゃんと殺せるのか。

 そんなことばかり考えてしまう。

 不毛な日々しか送っていない。


 永延とて、訊かずとも彼女の生活がどうなっているかわかっているはずだ。

 それでも訊くのは何のためか。

 璃亜夢が精神的に落ちていく様子を知りたいのかもしれない。


「特に変わりは……ない、です」

 璃亜夢がそう言うと、永延はガッカリしたように肩をすくめる。

 その様子に璃亜夢は内心、やっぱり、と思う。

 この男にとって璃亜夢は、玩具なのだ。

 コイツの前で面白おかしく踊る道化でしかない。


「今日は何食べようか。ハンバーグの美味しいお店で良い?」

 そう言いながら永延は歩き出す。

 その足取りに早く、璃亜夢は無理に早く歩いて追いかける。

 彼の足取りに、一瞬、アパートの隣りの部屋の会社員の男性を思い出す。彼は先を歩いていたが、璃亜夢を振り返り彼女が来るまで待っていた。

 だけど永延は振り返ることも歩幅を狭めることもなく歩いていく。

 璃亜夢は息を上げながら何とか追いかける。


 何とか店に着くまで永延を見失うことなく追いかけて到着したが、漸くやってきた璃亜夢に永延は「遅いよ、璃亜夢ちゃん」と少し苛立ったように呟く。

「すみません」

 璃亜夢は頭を下げて謝ると、そんな璃亜夢の頭を撫でながら永延は「次は気をつけてね」と笑った。

 髪に永延の指が絡む感触に吐き気を感じながら璃亜夢は「はい」と小さく答えた。

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