15:地獄に仏がいたけれど
結局買ったオレンジは食べずに璃亜夢は眠りに就いた。冷房が効いてひんやりとした部屋で璃亜夢はソファーに横になって眠る。時々腹の中のこいつが腹の中で動くのが鬱陶しいけれど漫画喫茶より快適な夜を迎えられた。
だけど朝になって、結局何も食べる物がないことを思い出して璃亜夢は空腹を通り越して腹が立った。
まだワークトップに残っているオレンジが二つあったが、食べたいとは思わず見向きをしなかったが、時間が進むにつれ、立腹は空腹に戻り、空腹は気持ち悪さを招待したため璃亜夢は仕方なくオレンジを食べて空腹を凌いだ。
何か買いに行かないとと思ったが、窓を開けた瞬間入ってきた茹だるような熱気にその思考は早々に折れた。
昨日はタクシーで此処まで来たからあまり考えなかったが、夏の暑さが辛い。日中に外に出るのは無理だ。
璃亜夢は窓を閉めると、再びソファーに戻り横になった。
それから何度か寝て起きてを繰り返して、気が付けば夕方になっていた。
まだ辛うじて陽は出ているが、日中程の暑さはない。
この辺りの治安がどうかも知らないし、あまり暗くなりすぎるのは嫌だったから璃亜夢はのろのろと買い物に行く準備をする。
一日一食での生活だとしてもできればこの部屋で籠城したいので、カップ麺などのすぐに腐ったり傷んだりしないものを買おう。冷蔵庫もあるし、フルーツの缶詰を買ってきて、一個を数日に分けて食べるのも良いだろう。いやしかし、缶詰は缶切りがないと駄目だな。この部屋には缶切りがないし、百円均一コーナーに置いているものなのか。そんなことを考えながら、璃亜夢は今日もスーパーへと向かった。
百円均一で缶切りを見つめ、ついでにプラスチックの小さなまな板を見つけたので購入することにした。
カップ麺と缶詰をいくつかカゴに入れて、レジへ向かった。会計の店員が気を付かせて袋を二枚必要か聞いてくれたが、璃亜夢は分けるのが面倒くさくなって大きいビニール袋一枚で良いと言って全ての買い物を一つにまとめてしまった。
だけどいざ持つと片腕に荷物の重さがかかってしまう。それでもアパートまでの距離なら何とでもなるだろう。
そんな楽観で歩き始めた。
買い物をしている間に辺りはすっかり暗くなっていた。
身体が重いせいか、どうしても歩く速さが遅くなっているのも時間が取られる要因になっている。
早くこの腹を空っぽにしたい。
早く以前に自分に戻りたい。
こいつのせいで自分が壊されていくのが許せない。
璃亜夢は不意に腹の中で動くこいつに腹が立つ。
こいつさえいなければ、こんなにも辛く苦しい目に遭わなかったのに。
腹を殴りつけたい衝動に駆られるが、そんな時、ついにビニール袋の持ち手が避けてしまい、買った物が地面に落ちる。
「あ」
アスファルトの道にガラガラと音を立てて、フルーツの缶詰が転がる。幸いカップ麺は足元に留まるが、缶詰は転がっていってしまう。
取り敢えず璃亜夢はビニール袋にカップ麺を入れて、手の届くところにある缶詰を袋に戻す。
他の缶詰は?
そう思いながら周囲を見回すと、背広の上着と通勤カバンを片手に持ちシャツの袖を捲し上げている会社員風の男性が少し離れたところに立っていた。
昨日アパートの外階段ですれ違った頼りなさそう男性だ。
璃亜夢は彼を見た瞬間、ぎょっとするが何と声をかけて良いかわからず彼と目が合うと慌てて視線を下げてしまう。
彼も璃亜夢が昨日アパートの外階段にいた人間だとわかったらしく軽く会釈したが、璃亜夢の様子に気まずそうな表情をした。
璃亜夢は近くの缶詰を集めるが、一つだけ、男性の足元へ転がっていることに気が付く。
彼はその缶詰を拾うと、ゆっくりした歩みで璃亜夢に近づき缶詰を璃亜夢に差し出す。
「どうぞ」
彼は、お世辞にも愛想が良いとは言えない璃亜夢に穏やかな口調で缶詰を差し出す。
璃亜夢は彼の顔を一瞬だけ見たがすぐに缶詰に視線を下ろして奪うように缶詰を取ってビニール袋に入れる。
だけどビニール袋の取っ手は破れてしまい、上手く持てるはずもない。
抱えていけばいいのだが、ビニール袋が取っ手から袋の途中まで避けているせいで上手く上手く持つのが難しい。両手で抱え様にも腹の膨らみが邪魔で上手く抱えられない。
璃亜夢が何とか持とうと苦労していると、それを見ていた男性が不意に「アパートで良いんですよね?」と聞いてくる。
「え」
璃亜夢は思わず彼を見上げると、彼は璃亜夢からビニール袋を取り片手で器用に抱えるとアパートの方へ歩き出す。
「ちょっと」
璃亜夢は先に歩き出す男性を睨みながら追いかけようとするが、身体が重くて思うように足が出ない。同じ速度で追いかけられるはずもなく、璃亜夢はよろよろと歩きながら彼を睨む。
しかし彼は数メートル程進むと、振り返って足を止めて璃亜夢が歩いてくるのを待った。
その行動に、璃亜夢は怪訝そうに彼を見るが、璃亜夢が近づいて来ると彼はまた少し歩き璃亜夢を待った。
その繰り返し。
二人は一切話さなかった。彼は璃亜夢から奪ったビニール袋をそのまま持ち去るようなことはしなかった。ただ璃亜夢が来るのを待っていた。
璃亜夢は何故この男性が、彼にとって何一つ特にならないようなことをしているのか不思議で堪らなかった。
いや、もしかしたら、アパートに着いたら何か対価を要求されるのか。
永延のように足を開けと言うのだろうか。
そんな憂鬱な気分で、璃亜夢は覚束無い足取りで男性を追いかける。
アパートまで戻ってくると、彼はさっさと外階段を上がり二階の廊下にビニール袋を丁寧に下ろす。そして外階段の上から璃亜夢が登ってくるのを待っている。
璃亜夢は手摺に掴まりながら、一歩ずつ一歩ずつ階段を上がる。
彼は璃亜夢が階段を登りきるのを確認すると、永延が借りている部屋の左隣の扉の前に立ち鍵を開ける。そして部屋に入る前に一度だけ璃亜夢に会釈すると、何も言わず部屋に入っていった。
璃亜夢は複雑な面持ちで左隣の閉まった扉を見る。
ただ親切だったのか。いや、もしかしたら後日に何か要求されるのか。
何にせよ、今日の出来事は永延の言う処の『アパートの他の住人と話をしてはいけない』に当たらないか心配した。
とはいえ、此処まで荷物を持って貰って助かった。
璃亜夢はもう閉まってしまった扉に頭を一度だけ下げると、ビニール袋を引き摺って部屋に入った。
彼の行為がただ親切だったとしても、璃亜夢にはそれに対してお礼を言うことも許されていないことを思い出して虚しくなった。
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