14:胸を抉る香りは腐臭とは限らない
幸いアパートの近くにはコンビニもスーパーもあった。
璃亜夢はスーパーに立ち寄って、早速何か買おうかと思ったが先程までは確かにあったはずの空腹が引いてしまっていた。
現金なやつめ。璃亜夢は膨れた腹を一瞥する。
場所もわかったし、今日はもう良いか。そんなことを思いながら璃亜夢が店内を歩いていると、ふと、特売として積まれているオレンジが目に入る。
そのオレンジを見ながら璃亜夢は、母がオレンジをよく買ってきた事を思い出す。
母はオレンジが好きだった。璃亜夢も好きでよく食べていた。もう随分長い間食べていない気がした。
璃亜夢はオレンジを手に取ると、横に置かれていたカゴを持ってその中に一つ、二つ、三つとオレンジを入れていく。オレンジを買うのは良いが、指でオレンジの皮を撫でるとそこそこの厚みがある。切るものが欲しい。
璃亜夢はスーパーの一角にあった百円均一コーナーで、刃渡り十センチ程のナイフを見つける。
持ち手がプラスチックでちゃっちい感じがしたが、無いよりはマシだろうとそれもカゴに入れた。
オレンジとナイフを購入して璃亜夢は帰途につく。
既に暗くなった道を歩きながらアパートを目指す。
アパートにつくと当然ながら手を貸してくれた男性はいない。階段を上がってきたという事は二階の住人なんだろう。璃亜夢は他の住人に鉢合わせしないように注意しながら階段を上がり部屋に入った。
部屋はすっかり蒸し暑くなっていた。璃亜夢は冷房をつけると、キッチンに買ってきた袋を持っていく。キッチンのワークトップにオレンジを置いたとき、そういえばまな板もなかったことを思い出すが、今日はもう良いと肩をすくめる。
璃亜夢は包丁をパッケージから取り出すと軽く水で洗い、ワークトップにオレンジを置きヘタと底の部分を切り落とす。そしてオレンジの皮を落としていくが、半分ほど皮を落としたとき、ふと、母がオレンジを切っている姿を思い出して手が止まる。
「ママ、オレンジが大好きなの」
そう言って嬉しそうに笑う母の顔を思い出してしまう。
あの美しく微笑む母の顔が見たくて、璃亜夢もオレンジが好きなった。母が好きだったから、璃亜夢も好きになった。
そのことを思い出してしまい、璃亜夢は半分ほど剥いていたオレンジをワークトップに落とす。
璃亜夢はわかってしまったような気がした。
璃亜夢が食べ物だったり服だったり、好きなものは大抵母が好きだったり褒めたりしていたからだ。母が良いと言ったから好きになったのだ。
そのことを不意に理解してしまい、自分がどれだけ母に依存しているかと思い知る。
璃亜夢は持っていたナイフを逆手に持つと半分だけ向いたオレンジに突き刺す。
八つ当たりのように何度も突き刺し、キッチンにオレンジの香りが立ち込める。
爽やかで何処か甘い思い出の香り。
その匂いが不快で、璃亜夢は手を止めて、辛うじて形を保っていたオレンジを見たがもう食べる気になれずそのズタズタになったオレンジをワークトップに転がす。
まだキッチンに香りが残っていて、璃亜夢は泣きたくなった。
いっそのこと、このナイフで今すぐ終わらせてしまおうか。
そんな気持ちで、璃亜夢は自分の腹部を見下ろす。腹の中のやつは、まるで璃亜夢の心情の変化を感じ取ったかのように腹を蹴る。
やめろ、動くな。
璃亜夢は奥歯を噛み締めて、まだオレンジの果汁に塗れたナイフを腹に近づける。
ひと思いに振り下ろせたら、楽になれるのだろうか。
璃亜夢が両手でナイフを持つと、軽く振り上げる。このまま腹目掛けて振り下ろせば、もうこんな苦しい思いをしなくても良いのだろうか。
璃亜夢はオレンジの香りにまかれながら涙を零す。
もういいよ、もう死んだっていいよ。
そう自分に言い聞かせるように考えるが、ナイフを握る手は震えるだけでいつまでも決意が固まらない。
その内、永延から『部屋を汚さないでね』と言われた声が脳内に響いて璃亜夢はナイフを持つ手に込めていた力を抜く。そして死ぬ決意も決まらない情けない自分に苛立ちながらもナイフをワークトップに置く。
そこにはぐしゃぐしゃになったオレンジも転がっている。
「片付けないと……」
璃亜夢は袖で涙を拭いながら、オレンジをゴミ袋へ入れた。
オレンジの香りは何度も手を洗っても、璃亜夢の手にまとわりついた。
それは何だか呪いのように璃亜夢を苛んだ。
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