13:偽善の対価が釣り合わない

 永延は璃亜夢に部屋を貸すにあたりいくつか条件を出した。


 ベッドを使ってはいけない。

 部屋を汚してはいけない。

 アパートの他の住人と話をしてはいけない。


 この三つだった。

 彼は「わかった?」と璃亜夢の意識を圧迫するかのように彼女をまっすぐに見下ろして強い口調で問いかける。その声に璃亜夢は背筋を冷たいものが落ちていくのを感じながらも「わかりました」と返すのだが、その自分の声が震えていることに気が付く。


 本当にこの男についてきて良かったのか。


 そう思うけれど、もうこの腹の膨れた身体じゃあ何処へもいけない。

 せめてこの腹の中のものがいなくなるまで、此処で耐えよう。腹の中のこいつさえいなくなれば自由に何処へでもいける、きっと。

 そう思いながら、璃亜夢は腹に触れる。前は皮下脂肪の柔らかい感触があったが、今は随分固くなってきているように思える。それだけ腹の中のこいつが成長してきているということなのか。

 胎動も多くなりより強くなっている気がする。

 こいつはきっともうすぐ璃亜夢の腹から出ていこうとする。

 それが良いことなのか悪いことなのか、璃亜夢にはわからないのだ。

 璃亜夢が自分の膨らんだ腹を見ていると、永延はそんな璃亜夢を嘲笑う。


「璃亜夢ちゃんさあ、その子どうするの?」

 そう問われて璃亜夢は肩を震わせる。

 どうするかだって? その結論は、璃亜夢も何度も考えた。腹の中でこいつが動く度、考えざるを得なかった。

 もし、生きてこいつが腹から出てきたら……。


 私はこいつを殺すだろう。


 璃亜夢の中で既に結論は出ていた。それ以外の結論があるか。

 腹の中のこいつは間違いなく璃亜夢の精神を崩壊させようと目論む侵略者なのだ。

 こいつが現れてからというもの、璃亜夢の精神は落下するばかり。

 腹は膨らみ体調も悪いし、動くのも大変だ。

 どうして自分ばかりがこんな目に遭っているのか。

 それは全てこいつが現れたからだ。


 今だけでもこれほどこいつの存在に苦しめられているのに、こいつが外に出た後にこいつを育てるなんて、そんな……!

 そんなこと有り得ない!

 絶対に息の根を止めてやる。

 憎しみを持って殺してやる。

 璃亜夢は自身が受けた苦痛を晴らすつもりでいた。

 彼女にはその選択肢しか存在しないのだ。


 璃亜夢の様子を見ていた永延は何も答えない璃亜夢を見ながら肩をすくめる。

「殺そうが育てようが、それは俺にはどうでも良いけど、わかってると思うけれど部屋を汚すのは駄目だから。間違っても此処で出そうなんて思わないでね」

 良い?

 永延はそう璃亜夢に念押す。

 璃亜夢は永延の顔を見れないまま「わかりました」と静かに頷いた。


 ***


 アパートの部屋は漫画喫茶より快適に過ごせるが、永延が昼寝をするために借りていると言っていただけはあり、生活に必要な物がほとんど無い。

 洗濯機もテレビもない。

 食器の類も殆なく、カップと電気ケトルはあった。でも鍋やフライパンもなければ包丁もない。空っぽなキッチンに璃亜夢は愕然とする。

 漫画喫茶では当然のことながら調理なんてできないから必然として惣菜やおにぎりやパンなどの食生活になってしまっていた。でもそれだと出費がかさむ。


 永延は璃亜夢に部屋のことを伝えるとさっさと出て行ってしまったが、その際、一万円札を三枚ほど置いて行ってくれた。

 この三万円が無くなる頃、この腹はどうなっているのか。ただそれが不安だった。

 ただここまで大きく膨れ上がった以上、璃亜夢が取れる方法として『産み落とす』という手段しか残っていない。

 その日がもう近くまで来ていることに璃亜夢は只管恐怖した。


 璃亜夢はしばらくソファーに横になり眠っていたが、まるで腹の中のこいつが要求しているのか、空腹に襲われて目を覚ます。

 漫画喫茶はどの時間でも常に周囲のブースに人がいるため静かであることがなかったが、この部屋は静かだ。永延が寝るために借りたのも頷ける。防音はしっかりされているのか、それとも昼は隣室の住人がいないのか。どちらにしろ、久しぶりにゆっくり眠れた気がする。

 璃亜夢はソファーから立ち上がると窓を見る。永延が開けてそのままになっている。夏の暑さにじんわり汗を掻いているのに気が付き璃亜夢は窓を閉める。

 外はもう暗くなっている。

 遠くの空は薄っすら橙色が残っているから夜中というわけではなさそうだ。


 璃亜夢は台所にある璃亜夢の身長よりも小さな冷蔵庫を開けて中を確認するが、何も入っていない。比喩表現ではなく、本当に何もない。調味料や飲料水もない。製氷皿には氷があるが、冷凍庫にも何もなかった。

 本当に寝るためだけの部屋なのだと理解して、璃亜夢はスマートフォンで時間を確認する。

 時間はもうすぐ七時になるだろうかという頃。


 何か食べるものを買いに行かないと……。

 此処へはタクシーで連れてこられ璃亜夢にとっては初めて来た場所だから、この周辺に何があるかしらない。

 コンビニ、スーパー、食べ物が帰る場所を探さないと……。

 璃亜夢はふらふらとした足取りで財布とスマートフォン、そして永延に預けられたこの部屋の鍵を持つと部屋を出る。


 扉を施錠すると外階段を降りようとするが、途中まで下りている時に視界が揺れるような目眩に襲われる。目眩を感じた瞬間、璃亜夢は手すりに掴まり慌ててその場に座り込んだので階段から転げ落ちることはなかった。

 これも腹の中のこいつのせいなんだろうか。

 璃亜夢は視界の揺れが収まるまで動けずにいたが、外階段を下から誰かが登ってくる足音が聞こえる。

 金属製の階段をカンカンと甲高く踏む音がするが、その音から璃亜夢はその人物が慌てていることに気が付く。幸い階段の幅は広いので、自分の横を通り抜けて上げれるだろうと思い、璃亜夢は足音が近づいてくるが動かずその場に座ったままでいた。

 しかしながら足音が璃亜夢の横を通り過ぎることはなく、すぐ前で止まってしまう。

 邪魔だとか文句を言われるのだろうか。それは嫌だな。


 璃亜夢は陰鬱な表情の顔を上げると、目の前には背広姿の男性が立っていた。


 永延はやり手の若手社長という風格だが、この男はどう見ても平社員のようだった。

 一日働いて疲れが顕れているかのような少し草臥れた背広に、ちょっとだけ緩められたネクタイ。

 仕事が終わり整える必要がなくなったのかややボサボサになった髪と前髪。その表情は人の良さそうに見えるが、璃亜夢には頼りなさそうな男だと思った。

 だけど男性は璃亜夢の前にしゃがみこみ、彼女と視線を合わせる。璃亜夢が彼と視線を合わせたのを見て、少し安心したように息をついた。


「大丈夫ですか、具合悪いんですか?」


 そう聞いてくる男性。

 自分を本気で気遣ってくる言葉を聞いたのはいつぶりだろうと璃亜夢は他人事のように思っていたが、不意に永延から『アパートの他の住人と話をしてはいけない』と言われていたのを思い出して、慌てて立ち上がる。


「大丈夫です、すみません」

 璃亜夢は慌てて彼から視線を下げると階段を降りようとするが、男性の視線が自分の膨れた腹に向いていることに気がついてしまう。

 その視線は何でもないものなのに、この腹の中の存在が許せない璃亜夢にとって腹を見られるというのはただ苦痛なだけだった。

 璃亜夢は腹を隠すように彼から背を向けて階段を数段降りるが、まだ少しふらついていたため足が思うように進まない。

 すると彼は持っていたカバンを階段に置くと、璃亜夢の前までやってくると璃亜夢に「下まで手伝います」と手を差し出す。

 確かに片手は手すりに掴まっているが、もう片方の手は掴まるものがなく不安定だった。確かにその手は有り難いが、璃亜夢はその手を掴めなかった。


 男という生き物が、璃亜夢をこんな風にしたのだ。

 璃亜夢は男性から隠すようにしていた腹に触れる。


 結局璃亜夢は男性の手を取らないまま無理して階段を下りた。

 璃亜夢は彼に何も言わなかったし、彼も璃亜夢に何も言わなかった。

 彼の行為が親切なのか、それとも何か下心があるのか。

 ……いや、絶対に後者だ。それは今まで璃亜夢を搾取してきた男性たちがそうだった。璃亜夢も対価を求めたが、自分の身体を開くという行為は、どうやっても彼らが払う紙切れでは足りないのだと、この膨れた腹を見て自分に言い聞かせる。


 親切な男なんて嘘だ。そんなもの存在しない。


 だから璃亜夢は振り返ることなく逃げるようにアパートを離れた。

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