10:道化の涙には衆人の嘲笑が詰まっている

 胎動の回数も日に日に増し、腹部の膨らみも徐々に大きくなってきていた。それで璃亜夢りあむは腹の中の侵略者を殺すには至っていなかった。

 しかし以前に比べてただ動くにも体力が失われ、璃亜夢は漫画喫茶から出るのも辛い状態だった。暫く永信に渡されたお金でギリギリの生活をしていたが、それももうすぐ尽きてしまう。

 お金がない、食べ物がない、ただ身を置く場所がない。

 これまで考えてこなかった辛さが璃亜夢を襲う。

 何よりお金がないのは死活問題だった。こんな身体で、こんな体調で。

 もう夏とは言え、夜に野宿はできない。何か遭ったとき、腹のこいつに引き摺られて璃亜夢自身も酷いことになるかもしれない。

 いますぐにでも腹からこいつを出したい。どうにかしたい。

 そう毎日毎日祈るように考えるけれど、腹の中のこいつは勿論、神様だって聞き届けてはくれない。

 璃亜夢は、もう充電の残り少ないスマートフォンを視界に入れると、大きく深呼吸を数回し地獄に垂れる蜘蛛の糸を掴むような気持ちで、永延ながのぶに電話してしまった。



 その夜。

 璃亜夢は数週間ぶりに永延と顔を合わせた。

 いつものように駅で待ち合わせしていたが、永延は璃亜夢を視界に捉えると、前回よりも大きくなっている璃亜夢の腹を見て嘲笑を浮かべる。この男にとって、璃亜夢の存在は自分を楽しませるだけの道化なのだろう。

 今の彼の目に璃亜夢はどれだけ滑稽に見えているのか。

 永延は璃亜夢の前までやってくると璃亜夢を見下ろして、先程の笑みを何処かへやり嬉しそうに笑った。


「久しぶり。璃亜夢ちゃんから連絡貰えるなんて思わなかったよ。今日はどうしたの?」

「その、ちょっと……話があって」

 璃亜夢は苦々しく話を切り出す。正直この男を頼ることになるなんて考えてもみなかった。だけどもう腹を括るしかないのだ。璃亜夢は意を決して話そうと口を開くがその瞬間、最初の言葉を吐き出す前に、永延に遮られてしまう。


「お腹空いたね、璃亜夢ちゃん何食べたい?」

「えっ……」

「生ものが駄目だよね。つけ麺にする? 良い店知ってるんだよね」

「あの、私」

「こっちこっち」

「話が」

 さっさと歩いて行こうとする永延を璃亜夢は引き留めようと声をかける。だけど永延は振り返ると無表情で璃亜夢を見下ろす。その表情に璃亜夢は思わず口を噤んでしまう。

 璃亜夢が黙ると永延は薄く笑った。


「その話ってさ、ご飯食べながらじゃ駄目な話なの?」

「そういうわけじゃないけど」

「じゃあ良いじゃん。あー、夏だと夜なのに蒸し暑いね。身体に障るから早く行こうか」

 そう言いながら永延は微笑む。

 言葉では璃亜夢の身体を気遣っている。だけど言葉とは裏腹に、彼はさっさと早足で歩き始める。以前に比べて身体を重く感じている璃亜夢は、遠のいて行く永延の背中を睨みながら何とか後を追いかけた。


 やってきたのは永延の宣言通り、つけ麺を取り扱う店だった。

 ラーメンもあるが、つけ麺が人気メニューなのだという。

 正直この男と顔を突き合わせて楽しめる食事なんてあるはずもなく、璃亜夢は適応に『おすすめ』とメニューに書かれているつけ麺を頼んだ。永延が何を頼んだのか興味もなかった。

 少しして店員が二人の料理を運んできて「ごゆっくりどうぞ」と言って立ち去る。

 璃亜夢が麺を食べ始めると、永延は思い出したかのように「それで話って?」と切り出す。

 正直永延がその話題を出してきたことに驚いた。

 彼にはどうでも良い話だからもう忘れているかと思っていたから。


「……最近、更にお腹が膨れてきて」

「そうだね。前より大きくなったね」

「最近はずっと漫画喫茶で寝泊りしてるんだけど、個別ブースは椅子しかなくて椅子に座って寝るのがしんどいの」

「そっかあ。西瓜抱えて寝てる感じだもんね」

「それで、何処か格安で、横になって寝れるような場所知らないかと思って」

「知ってるよ」

 そんな都合の良い場所が早々見つけるはずがないが、この男は色んな店を知っている。もしかしたら一軒くらいそういう場所を知っているのではないかと縋るような気持ちで璃亜夢は訊いたのだが、永延は麺をすすりながら即答で返す。


 彼の言葉に璃亜夢は一瞬、希望、を見た。

 もしかしたら、この暗い生活を終えられるのか。

 そう思えてしまった。


「それって何処に」

 何処にあるの?

 そう訊こうとすると、今度は永延が「そうだ」とあからさまな言い方で璃亜夢の言葉を遮る。

「俺もね、璃亜夢ちゃんに訊きたいことがあったんだ」

「……何」

 にこやかに笑う永延の表情に、璃亜夢は嫌悪感を覚えつつ訊く。

 何だか不穏な空気を感じた。このあとの永延の発言はきっと璃亜夢にとって良いものではないはずだと、そんな予感があった。

 璃亜夢は内心恐怖を感じて永延の言葉を待つが、永延は微笑むばかりだった。


「うーん、ちょっと食事の席でする話じゃないかもね。話の続きは『後』で良い?」


 それはつまり、食事の『後』があるということ。

 いつも食事が終わるとホテルへと連れて行かれる。

 この男は、目の前の女の腹がこんなに膨れていてもお構いなしなのかと、璃亜夢は今食べているつけ麺を吐き出した衝動に襲われる。

 だけど璃亜夢に拒否権なんて存在しないのだ。


「わかった」

 璃亜夢はただ頷くと、その返事に満足したのか永延はとても楽しげに笑った。

 その笑みには、まるで璃亜夢を嘲るようだった。

 気分の悪い男だ。

 だけどそんなことが言えるはずもなく。

 璃亜夢は、自分の気持ちとは裏腹に、徐々にこの男に支配されていくような感覚にただ唇を噛み締めることしかできなかった。

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