09:生きる事を促されるのは死ねと言われるより苦しい

 最初に胎動と思しき反応に襲われてからも、度々その反応は璃亜夢りあむを襲った。

 璃亜夢は、自分の内側からの影響を与えてくる生物に、日に日に思考力が削がれていくのがわかった。まるで水面を揺らす波紋のように、静かに、そして緩やかに、波打つようにこいつは自分の意思を告げてきた。

 胎動する度、大地震に遭ったように気分にさせられた。

 起きてる時も寝ている時も、腹部が揺らされると恐怖で身体が強ばった。


 この恐怖を、一体どれだけの人間が理解してくれるのか。


 いや。

 きっとこれに対しての理解は遠く及ばない。

 この恐怖は璃亜夢だけのものなのだから。

 誰も、この小さな生命が、自分を狂わせようとしているなんて思わないだろう。

 内側からの侵略に、璃亜夢はただただ震える身体を自分自身で抱き締めた。


 以前は複数の漫画喫茶をぐるぐると回っていたが、最近は移動すら億劫になり一つの漫画喫茶で過ごすようになっていた。

 個別ブースでただ貝のように静かに横たわるだけの生活。

 考えることは、どうやったら、腹の中のこいつを殺せるかということだけだった。

 ただ殺すなら、腹を殴りつければ良いかもしれない。

 でもそれが自分の身体にどんな悪影響をもたらすかを考えると、容易に実行できることではなかった。

 穏便に消えて欲しいのだ。

 音もなく、気配もなく、流れるように死んで欲しい。

 きっと、世界の妊娠中の人間は、自分の中に宿る新たな生命の死をこれ程までに願う璃亜夢をイカれていると思うのだろう。


 でも、これが璃亜夢の正常なのだ。

 どうにかして、こいつをなかったことにしたかった。


 どうすれば良いのか。

 璃亜夢は個別ブースの椅子にもたれかかり、天井をぼんやりと見つめる。

 そうしていると、空腹を感じてきた。

 そういえば昼食におにぎりを買ってきたが、食べずに放置していた。そろそろ夕方に近いから食べるべきなのだろうが、どうにも食欲が出てこない。

 璃亜夢は個別ブースの机に置いているおにぎりを見ながら溜息をつく。


 だけどこのとき、ふと、思ってしまった。

 もし、このまま断食を続ければ、腹の中のこいつに栄養が回らず殺せるのではないか、と考えてしまった。

 何も食べず、このまま、本当に栄養失調になってしまえば、栄養は得られずに成長できず死に至る。

 こうなったら、こいつと我慢比べでもしてやろうか。

 璃亜夢は嘲笑する。


 そんなとき、まるで璃亜夢を試すかのように、身体が空腹を知らせて腹を鳴らす。

 お腹が空いた……。

 璃亜夢はおにぎりを一瞥するが、すぐに視線を逸らす。

 二日三日の断食で、こいつにどれだけのダメージを与えられるか。

 そんなことを考えている最中も、身体は空腹を訴えて腹を鳴らす。

 ぐうと短い悲鳴をあげる。

 これはもう、腹の中のこいつが食事を強請っているようにさえ聞こえてくる。

 璃亜夢は椅子の上で膝を抱えて座ると、膝に顔を乗せて腹に向かって「五月蝿い」と呟く。

 すると今度は、今まで一番強い胎動が腹部を襲う。


 まるで腹の中で、自分は生きている、と主張された気がした。


 人の気も知らないで、勝手なことを言って……。

 でも璃亜夢はふと思った。こいつにしても、こいつは璃亜夢と顔もわからぬ誰かの都合で此処に降ろされたのだ。

 勝手に宿しておきながら、勝手に死ねというのか。

 こいつに感情があれば、そう思っているのかもしれない。

 でも、仕方ないじゃないか。

 私はお前の誕生を望んだわけじゃあないのに。

 もし人の形をして璃亜夢の腹から出てきたとしても、お前を育てられるはずがない。

 知識がない。

 金がない。

 何より、愛情がない。

 一般的な子供を身篭った『母』というのは、妊娠を知って出産するまで、色々思うことはあるだろうが、それでも確かに愛情をその膨れる腹に注いでいくのかもしれない。だけど璃亜夢がこの腹に溜めてきたのは、恐怖と忌避だった。殺意も付け足しても良い。可能なら早く死んでくれと祈ってきたが、その祈りに反して、こいつは着実に育っているのが璃亜夢の絶望を誘った。


 璃亜夢は思う。

 こいつの不幸は、私に宿ってしまったことだ。

 別の『母』の元に宿ったなら、今頃優しく腹の上から撫でられ、早く会いたいなどと言葉をかけられてたかもしれないのに。

 それでも思わずにはいられないのだ、私の腹から早くいなくなって、と。

 璃亜夢は膝を抱えたまま、自分の状況と腹の中のこいつの現実に涙する。

 涙がぽろぽろと落ちていくのを感じて、璃亜夢は抜けていく水分が勿体無いと何処か他人事のように思ってしまう。

 だけど腹の中のこいつは、そんな璃亜夢の感情なんて知らないかのように空腹を訴える。

 その疼きにも似た感覚に負けて、ゆっくりと顔を机に置いていたおにぎりへと向けてしまう。

 スーパーの惣菜コーナーで少し安くなっていた鮭のおにぎり。

 それを見ると、腹の中のこいつだけでなく、自身も空腹だったと理解して腹が鳴ってしまう。

 まるで促されるかのように、璃亜夢はゆっくりとおにぎりを取ると、泣きながらフィルムを外す。

 少し冷たくなっていたが、それでも鼻を掠める海苔の香りが胃袋を刺激した。


「いただきます……」


 璃亜夢は誰に言うでもなく呟くと、おにぎりを口に含む。一口が小さすぎて、鮭まで届かず米と海苔だけ。それでもそれを咀嚼して飲み込むと、身体が久しぶりにやってきた栄養に歓喜する。

 その反応に、腹の中のこいつも反応するかのように胎動する。

 やっぱり、生きてる、と言っているようだった。

 璃亜夢は止めどなく落ちる涙を手の甲で拭いながら、そのおにぎりをゆっくりと咀嚼しては身体の中へと落としていった。

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