最終章 ドラゴンと巫女
第1話 追撃と聖なる山シオノンの頂き
「どうしたの」と、マセコが私を現実に引き戻した。
「ハカセのことをね、思い出してたの」
「そう……、遠いね」
「ええ、すごく遠い、本当に遠いわね」
マセコは泣いているように見えた。
「朝食をとってくるわ。待ってて」と、マセコは何かを振り切るように言った。
「私も行くわ」
「いいから、待ってて。ひとりになりたいのよ。察してよ」
マセコが食事を入れた容器とともに戻ってきたとき、もう、彼女の顔は普通に戻っていた。
ふたりでベッドの上で雑炊を食べ、そのまま無言で登山服に着替えた。
テントの外に出ると、昨日乗った小船が準備を終えて待っている。
漕ぎ手はそれぞれ左右に5人ずつ。二つの船で出発するようだ。
シオノンは、この地方の山脈のひとつの山で、
私たちが乗船するとすぐ、「エイホー、エイホー」とレヴァル隊はリズムをとって櫂をこぎ川を遡っていく。
「エベレスト」と、思わず声がこぼれた。
聖なる山シオノンの裾野はエベレストを含むヒマラヤ山脈に似ていた。
シオノン山は他の山よりひときわ高く峻厳な形をしている。聖なる山、まさに神の山だ。切立った頂上は完全に人を拒絶していた。
船を係留して、降灰を避けるために西側から登山道をのぼるとレヴァルが指示した。歩くにつれ、むき出しの地面が見えはじめ岩や石がごろごろしている。
「どこまで歩くの? まさか頂上?」
「いや、山の中腹よりも、かなり下だ。地図でみてくれ、この3合目くらいの地点だ」
「いまはどこまで来ているの?」
「ここだよ」
レヴァルが示した場所は、シオノン山のまだ裾野部分だった。
目標を説明するレヴァルの顔がすぐ横にあった。それだけで心臓がドクンと大きく波打ってくる。昨日から感覚が鋭敏になり、彼の息遣い、匂い、すべてを鮮明に感じて身体がほてる。
それにしても、なんという人間離れした横顔だろうか。
筋が通った完璧な鼻、眉毛の下に絶妙なバランスに配置された切れ長な目、薄い唇はセクシーで話すたびに少し見える白い歯、この美貌は人ではありえない。エルフでもない。その中間の芸術作品だと思う。これはある種の呪いであり、彼の平凡な生活を奪ってきたにちがいない。
私はレヴァルを意識しないために、無理して周囲の景色に視線を外した。
「どうした」と、レヴァルの声がした。
どうしたじゃないと舌打ちした。この男は女に対する遠慮がない。いっそ、あんたに見惚れてぼうっとしたと言ってやろうか。どう返事をするのか見ものだ。
「地図をみないのか」
「ああ、ごめん。あなたにみとれて」
ほら、言っちゃった。まったく新生サラも、なかなかコントロールしずらい。あのビクビクした自信のない少女はどこに消えたのだろう。
レヴァルはふんっと鼻で笑った。
「まったく、本当に変わったな。あの時もそうだったが」
「あの時?」
「キャンプファイヤーで、俺の部下を誘惑しただろう。危なっかしくな」
「あら」と、私は声をあげて笑った。
「危なっかしく?」
「ああ、そうだ。あれは、やめておけ」
「命令されるいわれはないけど、レヴァル侯爵」
「それがまずいんだよ、炎の巫女」
彼は、私の腰を強引に抱きよせた。身体が意に反して震えている。
「レヴァル」
彼はなにか言いかけて言葉を止めた。身体から筋肉に動きが伝わり、緊張が走るのを感じる。レヴァルは背後を見た。
突然、彼の手が離れ、支えを失って私はその場でふらついた。
「聞こえるか? エイクス」
「はっ、隊長」
「木に登って南西方面を確認しろ」
エイクスは隊のなかでも小柄な体躯で、木登りが得意なのだろう。あっという間に木の頂点近くの枝に立っていた。
「なにが見える」
「騎兵隊だ。あの旗はシルフィン帝国。まずいぞ、隊長」
「数は」
エイクスは目で追いながら指を折っていく。
「おおよそ200」
「距離」
「もう、数分。たぶん、そう時はない距離だ」
「降りてこい」
レヴァルの判断はすばやかった。
「全員、退却、逃げるぞ!」と、隊に命じた。
「あっちは馬だ。すぐに追いつかれる」
「ついて来い! この先の
20人の兵は、われ先にと疾走した。
先ほど見た地図にはシオノン山の丘陵で谷になった箇所があった。レヴァルが示した先には、6、7人しか通れないような狭い谷戸が見える。周囲を丘陵に囲まれたそこで迎え撃つなら、少人数でも戦えると判断したのか。
しかし、200人となれば、十倍の敵だ。そんなことで逃げられるはずがない。
(つづく)
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