第3章 異世界

第1話 異世界への扉


「さあ、来い。ここにいても生きられん」


 だめだ、だめだ、ムリ、ムリ、ムリ。

 心の声が聞こえるのか、男が薄く笑いをうかべた。その顔があまりに美しくて、私は魔法にかかったみたいに、頭がぼんやりしてくる。


「ここではもう2年、いや1年の命だな」

「1年……」


 声がかすれ、どうしようもなく男に魅入られた。こんなに近くで男性と話したことなんてなかったし、男免疫がないのに、いきなり、この美形。


「ハカセや芽衣に会えなくなる」

「それは1年後には同じことになる。だから、母親はお前を手放す決意をした。気付いているはずだ。この世界で、おまえの身体は不安定だ。常にここが本当の居場所じゃないと思っているはずだ」


 こんな言葉を信じていいのだろうか。確かに私は居場所を探していた。ハカセが実の母でないと知っている。その事実を告げたとき、『いずれ』と、ハカセは言って黙った。その、いずれがいつかくることが怖かった。


「さあ、時間だ」


 男は宣言すると、ひざまずいていた足を伸ばし立ち上がった。均整のとれた体つきで背が高い。その男が灰色のコンクリートの壁に左手をもたせかける。


 そのとき驚くべきことが起きた。


 ゆらりと壁の一部が変化して、左手がその中へと吸い込まれていったのだ。すっぽりと手首がおさまり、それを中心に壁に小さな波紋が作られていく。

 手首から肩先まで、男は波紋をつくりながら灰色の壁のなかに消えていく。


 ――あなたの名は……


 ――レヴァル


 半身が壁にとけるままに男は答えた。

 右手が差し出された。男の美しい顔は誘惑するように微笑んでいる。


 ――沙薇、早く来い……


 運命には逆らえぬと声はつづく。


 そう聞こえたように思ったのかもしれない。私は彼の手をつかんでしまった。激しく後悔しながら、心のなかで『ハカセ、嘘だよね』と、考えながら。


 ―――――怖い。

 ―――こ、こわい。



 つかんだ手は、ほんの少しの暖かさもなく、冷たく凍りついていた。その手の先にあったのは薄空色が透ける白。液体のような感触で、私は窒息しそうになりながら、やみくもにバタバタと手足を動かした。


 ―――落ちつけ! 俺が守るから


 あの男の声が聞こえる。その声は、なぜか暖かかった。

 もがいていると、ついに身体が軽くなり、私は銀色に輝く世界の中心にいた。


 どこまでも、どこまでも続く雪景色が見えた。すべての汚物おぶつを白い雪が隠しおおう世界……。


 私は夏用のスーツを着ていたが、不思議と寒さを感じないんだ。そのうえ呼吸がとても楽になった。身体の芯が、この世界の空気を欲して味わっている。以前の世界では口と鼻で常に深呼吸するように呼吸していた。それが、楽に空気が入り肺を満たす。なんて気持ちのよい世界なのだろう。


 真冬のはずなのに、寒くもなく心地よい。


 子どもの頃からよく悩まされた頭痛が消えている。

 身体が自然になじみ、空気が美味しく、息苦しさもない。これまで、私は酸素ボンベのまずい空気を吸って生きてきたのだろうか。いま、やっと外の新鮮な空気にありつき、身体中の臓器が小躍こおどりしているのを感じる。


『二酸化炭素を吸って酸素を吐く』と、男は言った。


「行くぞ」


 背後から声が聞こえて、はっとして振り返った。レヴァルが立っていた。

 白いと思っていた髪はここではブロンドに近い。こういう髪色を、たしかプラチナブロンドと呼ぶんじゃないかな?

 目の色はさらに深まり、エメラルド色に近い。肌は白く輝いている。ファンタジー映画でみたことのある、幻想的なエルフのように美しい。ま、耳はとがってないけど。


「夏だったのに……」

「この世界の時間は半年ずれる。今は2月だ。おまえはまだ17歳なのだ、だが数日で18歳になる」

「あなたは誰なの」

「レヴァル」

「それは名前なの?」

「そうだ」

「じゃあ、フルネームは?」


 レヴァルと名乗った背の高い男は、眉をちらっとあげると、私の問いを無視して歩きだした。新雪に軽く足を沈ませながら歩いていく。彼が歩いた後にブーツが沈んだ楕円の白い靴跡が続いていくだけ。


 私はまだ迷っていた、このまま従ってもいいのだろうか。


 背後を振り返ってみた。

 私がここへ来た入り口のようなものはなく、前も後ろもすべて同じ雪景色しかない。

 白い粉雪がふっている。

 すぐに後悔した。見知らぬ男の言葉に容易に乗せられて、こんな世界にいることは怯えるよりも後悔しかない。


 それにしても、なぜだろう?


 普段の私なら、その場にうずくまって泣きはじめていただろう。

 こんな奇妙な状況でも心がしっかりと整っている。自信をもてたというべきか。

 芽衣めいにいてほしい。


『どう、私、自信にみちてない?』と、言ったら芽衣はなんて答えるだろう。

『なんとも劇的だけど、明日、もう一度、聞いて』


 なんてシニカルひにくに答えるだろうか。

 そう思った瞬間、私はあまりにも簡単に捨て去った自分の過去に呆然とした。


(つづく)

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