第7話 気をつけて、さようなら。愛してます。


 白い霧が晴れ、森は現実に戻っていた。


「これは?」

「これって?」

「いま、女の子たちが通り過ぎたでしょう」

「俺にはわからない」

「でも、小さな女の子たちが、赤い髪の」

「赤い髪……、炎の巫女か。それは記憶が戻ってきているのだ。封印がとける兆候だ。俺の空気が君の記憶を呼び覚ますのだろう。あれはお前の姉だが、バカに……」


 バカという言葉を男は途中でのみこんだ。言い過ぎだと気付いた態度だけど、それがまたぎこちない。


「私の記憶?……、姉?」

「ここではない世界だ。さあ、泣くな」


 私は自分が泣いていることに気づいてなくて、指で確認すると目もとが水っぽく、驚いてぬぐった。彼は、あきらかに面倒くさそうな態度だった。


「なぜ、私は泣いている」

「それを人に聞いてどうする」


 本当に嫌そうな声。薄い唇が酷薄こくはくに歪んで、この美しい顔じゃなきゃ、世界中から嫌われそうなイヤな男だって思う。でも、まあ、それはわかる。私だってと話すのは嫌になることが多いんだから。


「わ、わたし、私は幼い頃の記憶がない」

「わかっている。君の記憶は消されたんだよ」

「なぜ……」

「なぜなら、消されたからだ」

「同じ言葉の繰り返しだけど、でも、誰に、あなたが消したの?」

「いや、それは違う」

「あなたは、キーハラに似ている」

「誰だ、それは」

「キーハラ、小学生のころに消えた子」


 男の態度が少しやわらいでいる。


「キーハラか、なるほど。そういう名前を使っていたのかもしれない」

「知っているの」

「少しな。あの厄災で多くの人々は氷と化して、その後の虐殺で、いくばくかの人間がお前と一緒に隙間を通って、こちらの世界に送られた。その一人だろう」

「厄災?」

「今は説明するのをやめておこう。どうせ言っても信じない。長い物語だ」


 男の態度がやわらいだと思っても、すぐ壁ができる。私は、なぜ、この男から逃げないのだろう。彼の話に真実などカケラもないはずだ。


「いつの話だ」

「いつって?」

「その、キーハラのことだ」

「7年前のことよ」


 男は少し考えるように眉を寄せ、それから、細く長い骨ばった指で口のあたりを押さえた。考え込むようにうつむくと、美しい銀髪が額に落ち透き通った切れ長の大きな目を隠した。それは彼の表情に感動的な何かをつけ加えた。たぶん、多くの女がこの表情をみるためになら、すべてを投げ打ってもいいと思うような何かで、私はぞくりっとした。


「なにがあった」

「あの、理科室が火事になって、それで……、それで、キハラではない老婆が運ばれたって、あの聞いたけど……」

「自然発火だろうな」

「自然発火?」

「この世界は冥界めいかいだ。俺は冥界と現世を往来できる力を持っているが、それも何度もできることじゃない。移動では危険が伴う。いつ身体が壊れるか脳が壊れるか、その危険は少なくない」

「なにを言っているの。ここは地球で冥界なんかじゃない」

「きみは何も知らない。幼いころに冥界に囚われたからだ。さあ、とびらを開けるぞ、その間、俺のマナが消費される。それほど長くは持たない。俺の力にも限度があることを知ってほしい」

「いやよ」

「この世界でおまえの身体はもたない。病気で弱るか、発火するか」

「何を言ってるの」

「その大事そうに持っている書類ケース。育て親から渡されたものだろう」


 胸に抱いているハカセの書類ケースを、なぜ、この男は知っているのだ。


「開いてみれば、わかる」

「え?」

「開けてみろ」


 私は書類ケースを見て、再び、男を見て、もう一度もどった。紐でケースを閉じている部分を開き、そして、中を見た。A4の用紙が入っていた。


「中身をみてみろ」

「まるで、内容を知っているみたいな口調ね」

「知っている。白紙だ」

「そんなバカな……」


 だが、男の言うとおり、書類ケースに入っていた用紙はすべて白紙だった。


 なぜ? なぜなの? ハカセ、いったい、なぜ?


 ハカセは……、知っていたんだ。でも、なぜ黙っていた。今すぐ戻ってハカセに問いただしたいって思う。


「もう時間がない。行くぞ」

「どこへ」

「我らの世界だ。お前が子どもの頃に住んでいた場所だ」

「いやよ」

「育ての親の気持ちを悟れ、この世界でお前は生きられないと知るからこそ手放したのだ」


 ハカセ……、そんな。

 お別れの言葉も、なにもなかった。いつもと同じように出てきた。

 ただ、一言、妙なことを言っていた。確か、「気をつけて、さようなら。愛してます」とか。


 ハカセは知っていた……。知っていて、私をここへ送ったのだ。なんの説明もなく。知っていて……、頭のなかで同じ言葉がぐるぐると巡りつづけた。


「いやよ」

「いやも、良いかもない。空気に良いか、いやかなどないと同じだ。さあ、おまえの成人は18歳だ。覚悟をしたほうがいい」

「なんの覚悟よ」

「そう、覚悟だ。ただ、今なら戻れる。その生活はさらに危ういものとなろうがな。長くは生きられない。これが最後のチャンスだ。そこだけを考えてくれ」


 美しく現実的ではない男が私を手招きしている。

 その指は身体とは別の意思をもち、断固とした態度で私を呼んでいた。彼の瞳のせつなさに引きずられ、私は一歩、近づく。


「私の身体がもたないとは、どういう意味」

「キハラという女は、我らの国の人間だが、この冥界に来たときに脳に傷ができた。理科室の火事は、おそらく、彼女の免疫機能が衰えて発火したのだ」

「身体が発火って?」

「われらの国は寒い。このように熱い国とは気候が違う。寒さに順応した身体に、この気候。とくに、ここの人間は酸素を吸う」

「誰でも酸素で生きている」

「常識に囚われるな。この世界の酸素量は約2割、我らの世界では酸素は1割にも満たん」


 酸素が少ない世界、では、常に窒息ちっそく状態なんだろか。


「この世界の人間との大きな違いは我らが二酸化炭素を吸うということだ。二酸化炭素を吸って酸素を吐く。この冥界でいえば、われらは植物と同じだ」

「二酸化炭素を? でも、私は」

「お前もだ。だから、この冥界にいては身体がもたない」


 私は混乱するしかなく、言葉を失った。


(つづく)


第2章完

第3章 異世界へつづく。

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