第6話 顔面偏差値99vs49


「なにを慌てている?」

「財団法人遺伝子モデル研究所……」


 一息に目的地の名前を言って、あわてて付け加えた。


「母の手伝いで書類を、あの、届けに……、あの」

「それで?」

「迷っていて、場所がわからなくて」

「ここだよ」


 私は絶望的に壁を見つめた。


「入り口は? 壁を通り抜けるの?」


 男は奇妙な表情を浮かべ首を傾けると視線を落とした。吹き出したいのを必死に押さえているみたいだ。まるで、私がバカみたい。そう、私は平凡な単なる学生で、その上にバカだから、こういう美そのものとは目をあわせられない。普通に話すなんて難易度が高すぎる。顔面偏差値99と49じゃ、見える世界が違うんだよ。


「入り口を探しているなら難しいことじゃない」と、彼が私の上着を差し出した。

「これを落としたまま逃げたね」

「いえ、あの、その、逃げたわけではなくって」


 彼は皮肉な表情をうかべ、私が過去に出会ったことのない目眩めまいがするほど華麗な美しさで微笑んだ。


「しかたない、やるか」


 しかたない、やるか? 

 で、でね。この美しい男、なにをしでかしたかって、ポケットに無造作に突っ込んでいた手をだすと、その場にひざまずいたんだよ。


 片膝をつき、両手を膝の上においた。まるで、中世の騎士が姫のまえで敬意を表するように。


 やるかって、そういうこと? 私をおそうの?

 ちょっと考えればわかることだけど、おそってくる人はひざまずいたりしないから。

 いや、こんな男に襲われたら、私は逃げるだろうか、それとも、マセコみたいにうれしくてシッポを振っちゃうんだろうか。


 いや、そこじゃない。

 今考えるべきは、そこじゃない。

 が、私は完全に圧倒されていた。


 で、私のしたことって、背中が木にぶつかるまで後退しただけだった。


 男は腹がたつくらい冷静だったから、どぎまぎする自分が恥ずかしくなってくる。相手が冷静であればあるほど、こちらは止めようもなく震えるという悪いループに入り込んでしまった。


 男は私の様子など全く頓着とんちゃくせず、その場に片足をつき、子どもに対するように視線を私より下にして見上げた。なぜかトロけるほど優しい笑顔を浮かべて、だから、ものすごくドギマギとして、たぶん、真っ赤になって、あわてていた。


「さあ、俺の手を取ってくれ」

「ど、どういうこと、そ、それは……」

「一緒に来てもらおう」


 私は本当に混乱していたから、周囲が白い霧におおわれたことに気づいていなかった。

 白いベールが木々の間を幻想的に包んでいったのに、私は魅入られるように、男の顔から目が離せなかった。


 遠くから笑い声が聞こえる。2歳くらいの幼い女の子と、かなり上の少女が楽しそうに走ってきた。

 この周囲に家はなく小さな子はいないはず……。

 男の横をすり抜け、女の子のふたり連れは風を起こして通り抜ける。


 年上の女の子が叫ぶ!


「こっち、こっち」


 もう一人は素直にヨチヨチとあとを追う。

 風を追って疾走する姿は不思議なほど現実味がない。


 なぜなら、子どもたちは奇妙な格好をしていたからだ。中世風というか、現代の子どもがする格好とは思えない。


 年上の女の子は白いニット帽をかぶり、そこからはみ出た髪は鮮やかに輝く赤毛で、年下の子はくすんだ赤毛だった。ふたりともとても可愛い子たちだった。ひとりはとんでもない美少女で、2歳くらいの子は愛らしかった。


 彼らは白い霧のなかを駆け抜けていく。

 いや、これは霧じゃない。雪だ。霧のような細かい粉雪がふっている。

 何が楽しいのか子供たちは笑い、それから、こちらをチラっと見た。どこかで見たようななつかしさを感じて、思わず声がでそうになった。


 きっと、この子たちにどこかで会っている。

 それも家の近くじゃない、ずっと遠くのどこかで。


「戻ってらっしゃい!」


 白い雪の向こう側から、大人の女性のなつかしい声が聞こえた。


 その声に、一人は立ち止まり、一人は聞かなかった。

 ふいに年上の子が怖い顔の男たちにつかまり、そして、少女の顔が硬直した。

 少女は一瞬で大人の顔になり、私を見た。ああ、この顔を知っている。


 わ、わたし、私は知っている。


 一陣の風が吹き抜けた……。


 女の子の姿は風にゆらぎ、すっと消えた。


(つづく)

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