第5話 今、男と取り込み中だから


 私は男から顔を背け、まぶたをぎゅっと閉じたまま、木立に手をあて息を整えた。人にしては恐ろしく美しく冷徹な佇まいに、いわれのない恐怖を感じる。理由のない不安におそわれた。


 そう思ったときには、すでに数メートルを走って逃げていた。


 数メートル。走った距離はそれだけ。

 ただ、それだけで胸の中心が重く息苦しくなった。息があがり動悸どうきがひどい。いつもの貧血だろうか?


 これは男に会ったことが理由ではない。走ったからだ。私の身体は年を追うごとに弱っており、息苦しさから貧血でよく倒れた。


 ともかく男から逃げ、走り、歩き、走っていくと、ついに目の前が開け、刑務所のような灰色の高い塀の前に飛びだした。


 得体の知れない恐怖を抑えきれないのは、なぜだろう。この場で死んでしまう気がする。身体が重い。吐き気がして倒れそうだ。

 最近、日に一回は貧血を起こす。いつもの発作が起きそうだった。

 そうだ、助けを呼ぶためにも叫ぼう。


「あ…あぁ……」


 それは意図した大声ではなく、弱い貧弱な掠れ声にしかならなかった。


 コンクリート壁はどこまでも続いている。壁にそって走ると木の枝が腕にピシピシとあたる。コーナーまで到着したが門はどこにもない。コンクリート塀しか見えず、その上に夏の太陽がぎらついている。宇宙の漆黒しっこくが漏れているような濃い青空だった。


 私はパニックになりかけ、だから、スマホを取り出して冷静で冷酷な芽衣めいに電話した。


『ただ今、平泉芽衣は、魅力的かどうか判断のつきかねる男性と取り込み中ですので電話にでることができません。二時間後におかけ直しください。もし、二時間後に同じメッセージが流れましたら、もう一時間少々お待ちくださいませ。ご想像通りの時間が長引き、ご不便をおかけして、大変申し訳ございません』


「芽衣、芽衣、芽衣!」


 私はスマホに向かって叫んだ。返事はないが、スマホの向こう側にいるのはわかっている。彼女は相手の声を聞いてから、はじめて応答する。もし、本当の取り込み中でなければだけど。早く電話に出てと私は念じた。その時、受信の音が聞こえた。が、まだ無言だ。機嫌が良くないのだろう。


「芽衣、助けて、芽衣」

「はい、はい」

「芽衣、芽衣」

「はい、はい、あなたの芽衣よ」

「道に迷って」


 不意打ちのような笑い声がスマホから響いた。


「つまり、こう言いたい訳ね。くそったれた研究所に行こうとして、馬鹿みたいに道に迷った、とね」

「どうしてわかったの?」

「ラインで、ヒトのモデル化なんとかに行くと書いていたじゃない。友人として誤解しないように忠告しておくけど、スーパーモデルになるには身長が足りないわよ」

「遺伝子モデル研究所」


 そうだった。写メしてラインしたのだった。外に出るのはひさしぶりで高揚した気分のまま連絡した。その一時間後には混乱して道に迷ったと助けを求めている。


「遺伝子治療してまでモデルになりたいの? マセコじゃないんだから」

「芽衣、芽衣。塀が、塀しか見えない」

「そう、じゃあ、まず、深呼吸して」


 私は大きく息を吸って、吐いた。


「それから、そのまま壁伝いに歩くのよ。ゆっくりと心を落ち着けて。入り口は必ず、その先にある。じゃあ、ディア、夢をおって走りなさい。私は、ちょっと取り込み中だから」と、電話が切れた。


 芽衣の指示通りにコンクリート伝いに歩いていく。塀はどこまでも続き、見上げるように高い。ここは人を威嚇するための建造物なのだろうか。


 と、背後から低い男の声がした。


「話しかけてもいいかい」


 私はぎょっとして、振り向いた。考えていたよりも、ずっと近くに男がいた。


 あの男……だ。


 近くでみると、その神々しいばかりの容貌はさらに冴えていた。私がマセコなら尻尾をブンブン振り回してよだれを流して誘惑しはじめるような男だ。いや、さすがのマセコも気後れするだろうか。


「君を殺しはしないよ」


 彼はそう言った。低く深い声で、そう言ったのだ。聞き間違いかもしれないけど。

透けるような色白の肌で、彫りが深く、整った完璧な顔で。連続殺人犯、サイコパスとかが、こんなふうに声をかけるんだよという様子で。


 だって、彼の容姿は、あまりに非現実的で、私はすっかり悲劇のヒロインだった。映画やドラマの一場面に自分が出演している気分だった。


 でも、その場合、主役じゃない。

 どう考えても、私は配役に名前がなく、その他大勢とか通行人Aとかエンドロールに小さく記載されるだけの、最初に消える役柄だろう。


 てことは、最初に殺される人物ってこと?

 

(つづく)

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