第4話 エルフのような男に誘われて
大学はコロナのためにオンライン授業で、だから、大学に行くこともなく夏休みに入っていた。
ある日、「頼みがあります」と、ハカセに言われたんだ。『財団法人遺伝子モデル研究所』というハカセの仕事先に書類を届けて欲しいというのだ。
「わざわざ?」
「今日中って話で、現地に行くしか方法がないのです。私は用があります。あなたはずっと外へ出ていないでしょう。お願いできますか」
「わかった、ハカセ」
「すぐに、行ってください」
「じゃあ、紺のスーツでも着ていこうかな。入学式には着れなかったし、ハカセの職場だもの、いつもお世話になっていますって」
ハカセは何も言わなかった。
「じゃあ、書類をよろしく」
「すぐ帰るわ」
ハカセは例の不気味な笑顔をしようとして、それから、途中で表情を止め、「
「何?」
「いえ、気をつけて、さようなら」
それから、小さく、「愛してます」って付け加えたけど、たぶん、私の聞き間違い。だってハカセがそんなこと言うわけないもの。
「ハカセ、な〜〜んか変なの、じゃあね」
ハカセは目を細め、メガネを顔の中央に丁寧に修正した。そして、ただ、うなずいた。
研究所は地図によると山奥にあり、自宅から電車で20分くらいの場所。ハカセは家で仕事することが多く、私は職場に行くのははじめて、このローカル電車に乗るのもはじめてだった。電車内は空いていた。まあ、私の家も田舎だけど、さらに田舎なんだ。
だから、駅員のいない小さな無人駅で降りたときは、ぽつんと取り残されたような気分になった。
人っ子ひとりいない、のどかな風景が広がっている。
本当になにもない。森に囲まれた狭い一車線の林道しかなくて。ハンカチを出して汗を拭きながら、途方にくれてしまった。なんとも心細かった。昔から、私はあまり丈夫ではなく、こんなふうに太陽にさらされると、頭痛が激しくなり貧血をおこすことが、よくあった。
たった一人で倒れたら、誰が助けてくれるというのだろう。
周囲をうろうろしながら、地図をみて場所を探した。だんだん焦りはじめたころ、木々の間にある脇道を発見した。
『この先、財団法人遺伝子モデル研究所』という案内板がある。
それは車一台がやっと通過できそうなほど狭い道で、木々が道におおいかぶさるように茂っている。
セミの鳴き声が騒々しいのに気づいた。
なき声のあい間に、すぅーっと微風がふいてくる。道に入るとすぐ、先程まで騒々しかったセミの声が、ふっと止まった。
しばらくして、一匹のセミが鳴き、再び同じ騒々しさが戻った。何かが妙だ。
なに?
気配を感じた。また、いつもの神経過敏よ、と芽衣なら言うかもしれない。でも、確かに木立の左奥でコソっと音がして、小枝が折れる音がしたんだ。
人間?
でも、もしちがったら。
もし、クマだったら?
よくクマが人里に出て人をおそうとかニュースになっている。どうしよう、クマだったら。
心臓がばくばくして、パニックを起こさないように手の甲に爪を立てた。
用心深く周囲をうかがうと、左側の数メートルくらい先、木々の間に黒い影が見える。あ、動物じゃない、人だ。
そこには大柄な白髪の老人が樹木を背に座っていた。うつむき加減で前髪が顔を隠している。じっと座ったまま動かない。白い上下の楽そうな服。長い指が膝の当たりを掴んで、ズボンが皺になっていた。
先を急ごう。足を踏み出すと枯れ枝を踏んで、しまったと思った瞬間、大きな音を立て、老人が振り返った。
老人じゃない。
髪が白いから老人とかんちがいしていた。
男の年齢がわからないけど若いようにも、年をとっているようにも見える。
白い肌に切れ長の目。長いまつげの奥から冷やかな眼がのぞく。あの髪は白じゃない、プラチナブロンドっていうの? 外国人か? 太陽光を受けて髪がキラキラと輝いている。まるで映画でみる妖精とかニンフとか、エルフとか、そんな非現実的な美しさだ。
男は過去に出会った誰よりも、あの
オタオタしながら、心のなかでいろんな言い訳していた。
(すみません、ジャマをして、いえ、そんなつもりじゃなくて。通りがかりで、母のお使いで、あの、えっと、ともかく、ごめんなさい)
まるで、その声が聞こえたかのように、彼は魅力的な目を皮肉に歪ませ、こちらを睨んだ。いや、そう感じただけかもしれない。
「こ、こんちゃあ……」
私は驚異的に美しい男のまえで、私史上最大にまぬけな挨拶をした。芽衣なら、もっと気の利いたことを言えるにちがいない。ほんと泣きたい。
彼は、こちらに気づいたのに、そのまま視線をずらし両手を広げて、顔を天に向け光を受け入れるかのように目を閉じた。
木原……。違うけど、木原と同じ匂いを感じる。
全身から冷や汗があふれた。危うく倒れそうになるのを、なんとか持ちこたえた。
私は気が小さい……、と思う。だから、こんなシチュエーションは無理。どうして、もっと大人になれないのだろう。ネットのなかで自分を偽るように、じっさいの自分を偽ることができれば、本当に楽なのに。
だって、リアルは恐いんだ。
(つづく)
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