第2章 現代

第1話 人の不幸は遺伝子レベルで決まっている



 吉祥寺月子は私の愛すべき母だが、10歳の女の子を持つ母親としては、いささか老けていた。だから、本当の年齢を教えない。母は「永遠の30歳」だと小学4年一学期の8時25分まで、私は深く信じていた。


 それが脆くも崩れ去ったのは、よりにもよって日野真実子、通称マセコによってだからダメージが大きい。


 天敵マセコは常に私を敵視し監視しているんだ。理由がわからないけど、親友の芽衣めいによれば、ライバル相手への典型的なサルの行動様式だそうだ。


 あの日、天敵マセコが机の正面に両足を広げて立ったとき、ず〜んと嫌な予感がした。


「ねえ、沙薇サラちゃんのママって、いくつなの?」

「どうして」

「ママが聞いてこいって」

「30歳だけど」

「去年も、その前の年も、そう言ったじゃない」

「だって、ママは永遠の30歳だから」

「バッカじゃないの」

「ホントなんだから」と、すかさず切り返したが、胸の奥がチクチクした。

「イミフね」


 マセコは、こちらの動揺にニヤッと笑って、それ以上は追及せずに自分の席を探しに行った。


 マセコの言う通り分数を習う年齢に、いや、足し算を知ったときに、もう無理のある計算だと気付くべきだった。私は無闇むやみに人を信じて、いつも痛い思いをする。


 だから、クラス中の机や椅子がいあがって、あのドヤ顔の上に降りそそぎ、彼女が悲鳴を上げるといった幸福な妄想にしばしひたった。私は、こうした妄想で頭がいっぱいになる至福の時間を、とっても大切にしているんだ。


 ともかく、大人を真直ぐに信じると後悔する。

 信じてはいけないが、それでも母が愛すべき存在であることにはかわりない。


「人間は不幸です」と、母は言う。


 母の第一法則だ。自然の摂理せつりらしい。


「じゃあ、幸せな人間っていないの?」

「いないです」

「どうして」

「ヒトの遺伝子には生存競争情報が組み込まれているため、常に不幸でなければならないのです。別の言い方をすれば、幸福になる努力をするために、幸福であることが困難なのです」


 私はある時から母をハカセと呼ぶようになった。ハカセとは、簡単なことを難しく説明するのが上手な人だからだ。


 ちなみにハカセは研究員らしい。らしいというのは、大人をまっすぐに信じることを止めたから。そういえば、マセ母にうっかり「大人の言うことをまっすぐに信じないの」と、まあ、意味のない会話の流れで言って失敗したことがある。


「そんな、沙薇サラちゃん、可哀想に」


 マセ母はマセコそっくりのドヤ顔で言った。あの母子共通の性格から生まれた、ひっじょ〜〜に不愉快な表情だ。詳しく説明すると、小鼻を広げ、顎を少し上にあげ、ツンとした、あのふざけた得意顔のこと。


「どうして、そんなことを言うの。お母さんは嘘をつくの? おばさん、聞いたげるわよ」


 ワイドショーのレポーター並みに話が進むのはいつものこと。私と同じように虚しい妄想をするのが好きな大人なんだ。


 お父さん……。これはハカセの弱点だと知っている。年齢の次くらいか? つまり、ハカセは世間的に弱点が多い人なんだ。


 私に父はいない。


 どこにいるのかも、どういう人なのかも知らない。しかし、そんなことは、どうでもいいことだ。ハカセが十分に愛してくれるから。ちょっと熱でもだせば証明できることだ。そして、子供の頃から、私はよく熱を出す弱い子だったから、ハカセの愛情はよくわかっている。


 あの小難しい顔のハカセが、難しい理論は捨て、狼狽ろうばいしながら一分おきに額に手を当て、「大丈夫、良くなります。苦しい? そう、わかっています。しかし、永久に続く苦痛はありません」って、ベッドの横でつきっきりになる。


 わかってもらえるだろうか? それは、少しだけ鬱陶うっとうしいけど、満たされた幸せな気分になれるってことを。


「もう大丈夫」というたびに、ハカセは笑うんだ。


 薄い唇を曲げ、口角があがり、能面のような笑い方をする。例えば苦笑、冷笑、爆笑と笑い方にはいろいろあるけど、ハカセのこれはどれにもあてはまらない。


 それは笑うという意味を満たしてない。なぜなら、ハカセが笑う時、白い歯が口元からむき出し、知らない人みれば、狼が威嚇いかくしているように見えるからだ。


(つづく)

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