第二話 鬼の少女

 壱織いっしょくはゆっくりと目を開ける。ぼやける視界に映るのは、コンクリートに染み込んだ血。

 痛みに耐えながら体を起こすと、同時に視界が正常に戻ってくる。

 そして、鈍っていた脳みそも活性化され、先ほどの記憶がぼんやりと浮かんでくる。


「……確か、ヤギに轢かれて……ヤギ?か、あれは。なんだよあのばけもん……」


 一度大きく深呼吸をし、頭の血が止まっていることを確認すると、辺りを警戒しながら縁側の下から這い出る。

 そこにあったのは変わり果てた道場の姿。瓦は割れて辺りに散らばり、壁や柱は吹き飛ばされて、見るも無残な姿となっていた。隣の家と同様、瓦礫の山となっている。


「マジかよ……」


 縁側下ではなく道場内に逃げ込んでいたら、今頃この残骸と同じ運命を辿っていただろうと考えるとゾッとする。だがそれよりも壱織の内を占めるものがあった。

 あのバケモノは何なのか。どこから来てどこへ行ったのか。その前に聞こえたなの咆哮は何だったのか。あのバケモノのものか。それとも他にも――

 そこまで考えた壱織は急激な不安に襲われる。


 妹は無事なのか。


 壱織はバケモノが現れる前に妹へ連絡をしたことを思い出し、家――のあった場所でスマホを探し始める。


 瓦礫の山からスマホを見つけるのに苦労したのだが、その苦労は無駄になりそうだ。触ると指が切れてしまいそうなほどに画面はひび割れている。

 諦め半分で電源ボタンを押してみるが、その結果は予想に反したものだった。

 歪んだ画面に映るいくつもの不在着信の文字。歪んだ文字を何とか読み取ると、妹からのものであることが分かる。画面に触れても操作はできず、返しの電話をかけることはできないが、妹の無事を知れてひとまずは安心する。

 その後、何とか操作できないかといろいろ試してみるが、再起動を試みると画面は映らなくなってしまった。


「ったく、使い物になんねえな」


 高かった割にはと不満を漏らしながらスマホを投げ捨てた壱織は、これからの方針を決める。

 山を下ることは確定事項なのだが、徒歩でとなるとかなり時間がかかる。いつもはバイクなのだが、その選択肢は先程スマホを探しているときに鍵が見つからなかった時点で捨てた。どこに吹っ飛んでいったかもわからない小さな鍵が見つかる保証などない。


 壱織は特大のため息をつくと、鍵が見つかるかもという薄い希望を抱きながら、下山するにあたっての最低限の荷物を瓦礫の中から探し始めた。




 最終的に揃ったのは、財布と会社資料の入った鞄、質素な鞘と離れぬように糸で括り付けられている一本の刀。前者は取り敢えずは財布を持っておけば何とかなるだろうという考えから、後者は少し痛む足を支える杖として、かつかなり良い刀らしいので売ればそこそこの値段が付くだろうという期待から拾ったものだ。

 その二つを持った壱織は山を下りようとするが、数歩歩いたところで足を止める。

 何が壱織をそうさせたのかはわからない。長年住んだ家を離れる寂しさか、それともただの気まぐれか。ただ何となくを感じたのだ。

 壱織は後ろを振り向き、そして捉える。森の奥から出てくる一人の少女の姿を。

 藍色あいいろの短い髪をした小柄な少女は真っ直ぐこっちを見て立ち止まっている。森をさまよっていたのだろうか。目は赤く腫れ、服などが砂や泥で汚れてい

た。


「嬢ちゃん、どうした?」


 そう言いながら近づき、荷物を横に置くと少女の服についた砂やら木の枝やらを払っていく。白いレインコートのような、民族衣装のような服を着ているが、それもかなり汚れ、ところによっては破けてしまっていた。

 あまり小さな子と接する機会がないのでわかないが、小学二年生ぐらいであろうか。であれば考えられるのは一つしかない。


「迷子か?」


 そう聞く壱織に、少女は黙ったまま首を横に振る。

 であればなんだろうか。


「お父さんとかお母さんはどこにいるかわかるか?」


 その質問に少女は少し間を空けた後、か細い声で答える。


「……戦争で死んだ」

「……」


 あまりの答えに何も言えなくなる。

 戦争? 何を言っているのかがわからない。いつの時代の話をしているのだろう。

 壱織は頭を抱える。

 少女は嘘を言っているようには見えない。であればなんだ。

 壱織は少し考え、思考を放棄した。こう言ってはなんだが、所詮子供の話だ。それも森から出てきた子供の話。迷子になって記憶が曖昧なのだろう。ただ一つわかるのはこの場にこの子の親はいないということ。

 ただ少女の発言を否定するのは酷いように思われたので、話を少女に合わせ、頭を下げる。


「そうか、それは悪いことを聞いた。申し訳ない」


 二人の間に生まれる沈黙。それを誤魔化すように壱織は質問を続ける。


「じゃあ、帰る場所はあるか?」


 少女は首を横に振る。


「同じだな。俺もさっき失ったばかりだよ」


 笑い混じりにそう返す。


「なら、一緒に来るか?」

「うん……」


 その返事を聞き、少女の手を引いて歩き出そうとした。その瞬間だった。

 一匹のバケモノが二人を襲う。

 トカゲのような見た目をしたそれは大きく口を開け、二人を丸呑みにする勢いで森の中から姿を現す。


 壱織は少女の手を強く引き、抱きかかえると間一髪で後ろに飛び退く。腕の中で少女は小さく悲鳴を上げるが、そんなことを気にしている余裕はない。次が来る。少しの判断ミスが己を殺す。今のも判断が一秒でも遅れていたら二人仲良く腹の中。たとえ呑まれるのは避けれたとしても、鋭くとがった牙により一発であの世行きだ。


 壱織は破裂しそうなほど激しく波打つ心臓の音を無視し、とぼけた様子で首をかしげるような仕草をしているバケモノをじっと観察する。次の一瞬を見逃さぬように。


 一言で言い表すならば首の長いトカゲ。その体は草やツタにまとわれており、一見すると体から生えているようにも思える。ヤギのバケモノよりかは小柄だが、それでも巨大。ヤギが大型バスだとすれば、こいつは小型バスぐらいだろうか。ヤギとの違いは大きさだけでなく、見た目からも行動からもわかる圧倒的肉食性。

 ヤギのときのように隠れていれば見逃してくれることなどないのだろう。向こうもこちらの出方をうかがっているのか微動だにしないが、その不気味なほどにぎょろりとした目は捕食者対象としてこちらを捉えていた。


 先に動き出したのは壱織の方だった。バケモノの目をにらみ返しながら、気を抜けば震えだしてしまいそうになる足を動かして距離を取ろうとする。

 震える少女を抱えながらゆっくりと着実に後ろへ下がる壱織を向こうもまたじっと見つめていた。

 動かない。やはり警戒しているのだろうか。食べるかどうかを悩んでいるようにも見える。


 そして、このままいけば逃げれるのではないかという淡い希望を抱き始めるに十分な時間が経った時だった。

 目の前でただ佇んでいたバケモノが目の色を変える。


「最悪だな」


 壱織との間にあった距離をたった一歩で詰めてきたかと思えば、先程と同じく二人を喰らうべく襲ってくる。

 今度は横に避けるが、先程と違いそのバケモノは止まりなどしない。口を開け、牙を剥き出しにしたまま方向を変えて襲ってくる。

 壱織は少女を脇に抱え、空いた方の手で鞄を投げつけ、隙を作ると、痛む脚に力を込めてなんとか走る。そして同時に考えていた。最良の一手を。

 朝見たヤギのバケモノよりかは大きさの違いによるものなのか数段遅いものの、バケモノはバケモノだ。このままであればすぐに追いつかれる。たとえ先のような補食行動を何度もうまく避けれたとしても先に体力が底をつくのは十中八九こちらだろう。であれば、ここで何とか撃退するしかない。殺さなくていい、相手に諦めさせることが出来ればそれでいい。

 日々の鍛錬のおかげか、それとも朝に一度同じような経験をしたからか、このような極限状態であっても頭は冴え切っている。一瞬がまるで何十秒にも感じられる。そして答えは出た。これは賭けだ。


「嬢ちゃん、321で投げるから全力で逃げろ」


 返事を待つ時間はない。


「さん、にー、……っち!」

「きゃ……っ」


 壱織は掛け声に合わせ少女を前方に投げると自身は身を反転させ、それと同時に刀と鞘を縛り付けている糸を歯で噛みちぎった。


 『大事なものを見誤るなよ』


 育ての親である者の言葉が頭をよぎる。同時にもう一つの選択も。


「くそだな」


 そう吐き捨てると、脳内麻薬のおかげか痛みが無くなった脚に力を込め、全力で地を蹴る。

 バケモノと壱織。相対する二者の距離、わずか数メートル。

 壱織は勢いを保ったままバケモノの攻撃をかわし、その下へと滑り込む。そして持っていた刀の切先を喉元へと最短距離で突き上げる。しかし、その結果はバケモノの喉を貫くことはなく、少しの傷を付けるだけの結果に終わった。バケモノの首は、もう刀の切先が届かない場所にある。

 バケモノは起こした上半身で、下にいる不愉快な虫けらを潰さんとその身を勢いよく倒した。

 押し潰される寸前で間一髪抜け出した壱織はバケモノの足を利用し倒れている体に飛び乗ると、刀を背中に突き立てる。刀は、何の抵抗もなく、つばまで、深く刺さった。


 バケモノが悲鳴を上げる。

 脳にまで響いてくる金切声と共に暴れまわるバケモノに、振り落とされないよう、壱織は刀とバケモノの身を覆う草やツタを必死に掴む。

 刀を持つ手に生暖かい血を感じ、このまま耐えれば何とかなるのではないかという淡い希望を抱き始めた時だった。


 視界に何かが映ったかと思えば、次の瞬間には体中が激しい痛みと衝撃に襲われる。呼吸が出来なくなり、意識までもが持っていかれそうになるが、なんとか息を吸い込み、意識を留める。

 視界に映るのは遠く離れたバケモノの姿。一瞬自身の身に何が起こったのかわからなかったが、全身を襲う激痛と引き換えに距離が出来たことで捉えることが出来たバケモノの全容、それを見て察する。

 そこには、まるで別の生物かのように激しく動いている尾があった。


「そんなんありかよ……」


 瓦礫の山まで吹き飛ばされ、身体が思うように動かない壱織にはそう呟くことしか出来ない。

 勝利を確信したのか、バケモノは瓦礫の上に転がる獲物に対し、ゆっくりと近づいていく。

 一歩、また一歩と迫ってくる「死」に対して獲物はどうすることもできない。一挙手一投足に痛みが伴うこの身体に鞭打って走ったとして追いつかれるのは明白だ。

 眼前にはバケモノ、手には先程付いたバケモノの血の感触と指先に当たる破片か何かの感覚。三途の川の岸辺とはこんなものなのだろうかと思ってしまう。

 このまま何も考えなければ楽になれるなどという考えが、一瞬頭をよぎったが、自分への憎悪と嫌悪がその考えを焼き消す。


 もう二度と逃げないと誓ったにもかかわらず、また逃げるのか。お前はろくでもないくずだ。年端もいかない女の子を囮にするなどと考えてしまうクソ野郎だ。人間そんな簡単に本質は変わらない。お前が屑なのはいつだって変わらない。ならば屑らしく汚く、醜くもがけ。


 壱織は体を起こす。


 バケモノに轢かれかけ、死にかけ、家が壊され、バケモノに喰われかけ、死にかける。最悪で運の悪い一日だが、まだ死んでいないのはある意味運が良いのかもしれない。


 指先にあったのは瓦の破片であった。


 やっぱり俺は運が良い。ならば、もう一度博打に出よう。賭けるのはもちろんこのの命。


「こいよ、バケモノ」


 自身の捕食領域に入った獲物に、バケモノは容赦なく襲い掛かる。

 先程、森から出てきた時と同じく頭を傾け、喰らわんとする。


 壱織は指先で触れていた瓦の破片を力強く掴むと、痛む体を無理矢理動かし、尻をついていた状態からバケモノの頭の横へと移動する。

 一瞬でも遅れれば今頃バケモノの巨大な牙に噛み砕かれていた。近くで見れば見るほどその大きさがわかる。だからこそ、狙いやすい。

 バケモノはすぐに頭の向きを変えようとするが、もう遅い。


 ここならば、届く。


 壱織はバケモノの眼球に破片を突き刺した。

 先程よりも大きく、悲痛な鳴き声が上がる。

 壱織は重い足を引きずり、少し離れると暴れ回るバケモノの様子を眺めながら祈っていた。頼むから死ぬか逃げるかであってくれ、と。


 その願いが叶い、バケモノは森の中へと走っていく。

 一応、最悪の事態は想定していたものの、その最悪が来ぬとわかって全身から急速に力が抜けていく。

 それに抗うことなど出来ず倒れ込んだ壱織に、遠くから少女が駆け寄って来る。


「大丈夫?」


 顔を覗き込みながら聞いてくるその声音には、心配の二文字があった。


「大丈夫じゃねぇよ。体中がいてえ。それよりそっちは大丈夫か? 結構力入れて投げたもんで……」


 そう言いながら何とか上半身を起こした壱織に少女は「大丈夫」と一言。


「そうか、それならよかった」


 そう言いながら少女の髪にに付いた土を払う。そこで気づいた。少女のでこから生える角の存在に。

 髪で隠れており、触るまでは気づかなかったが、確かにそこには角があった。でこの隅から生える二つの小さな角。彼女は人間ではないのだろうか。


「おまっ……」


 壱織は思わず口に出しそうになるが、それを飲み込む。言ったところで何かが変わるわけでない。少女との関係性が悪くなることはあっても良くなることはないだろう。そもそも、こんな状況でこのような些細なことをおかしいと言える自信がない。おかしいのは自分自身であるかもしれないのだ。


「いや、何でもない。俺は取り敢えず街に下りるつもりなんだが……今の俺じゃ無理そうだな。少し、休憩させてれ」


 心からの願いが漏れる。

 ただ、このまま何もしないというのも時間を無駄にしている気がしてならないので、そういえば訊いていなかったな、と少女に質問を投げかける。


「嬢ちゃん、名前は?」

「ノア」

「いい名前だな……」


 そこまで聞くと、また急な脱力感に見舞われ、今度は意識までもを持っていかれそうにる。

 またバケモノが現れるかもという状況で、意識を飛ばすのはまずいと何とか抗おうとはするものの、それに反して視界が狭まっていく。

 本日二度目の気絶であった。

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