第一章 モンスター

第一話 日常の終わり

 複雑な線を成す木目が、びっしりと並ぶ床。それを囲う黒い木の壁は独特な香りを放っている。

 四人の生徒を育て上げたこの道場にいるのは一人。

 上は半袖、下は長ズボンのジャージといったこの場にはあまり似合わない格好をしたその男――志木野しきの壱織いっしょくは、鎧立てからある程度の距離をとった位置で正座をする。

 その横に置かれた木刀は、外の光を少しばかり反射していた。


 鎧立てに飾られた防具には傷やへこみといったものが見受けられる。昨日、ここを卒業した者が長年使っていたものだ。

 それを前に壱織いっしょくは目を閉じ、溜まった熱を全て吐き出すかのように大きく深呼吸をする。

 そして静かに刀へと手を伸ばし――


 ――指先が、触れる。




「ふぅ」


 壱織は軽く息を吐き、砕け散った防具を背に道場を後にする。向かったのは道場のすぐ隣にある小さな家だ。

 深い山奥にあるこの場所は普段から静かな方であるが、それにしても今日は静かだ。鳥の声一つ聞こえてこない。

 少し不気味に思っていた壱織だが、ドアを開けるころにはそんなことなど忘れ、汗を落とすためさっさと風呂へと向かった。


 午後の面接に備え、普段は面倒であまりやらないドライヤーも今日は、と鏡の前で髪を乾かす。壱織は前よりも引き締まった気がする自身の体を見て少しばかり満足する。やはり頑張った成果が目に見えてわかるようになるというのは自己肯定感を上げてくるれるものだ。

 親譲りの黒髪を乾かし終えた後は就活用のスーツに着替え、まだ時間にある程度の余裕があることを確認する。そして、リビングの椅子に座り、机の上に無造作に置かれた会社の資料を手に取って目を通す。


「300万か……」


 まずは受からないといけないが、うまくいけば年300万。これだけあれば妹をいい大学に余裕をもっていかせてやれる。面接練習は何度もした。いける。そう自分に言い聞かせ、頬を叩く。


「っし」


 そうして気合を入れると、鞄とバイクの鍵を手に取り、玄関で革靴を履く。そしてドアを開けようとした時だった。


「っ……」


 突如発生した巨大な揺れがこの壱織を襲う。縦横に来る揺れはかなり激しく、まともに立っていられないほどだ。

 膝をつき、倒壊する恐れを察知して家から逃げようと目の前にあるドアの取っ手に手をかけたその時、揺れが止んだ。ゆっくりと収まっていった訳ではない。まるで先程までの揺れは嘘であったかのようにピタリと止まったのだ。一瞬、今のは只の立ち眩みで揺れなど無かったのではないかと思うほどに。

 しかし、辺りに散乱する物の数々がその考えを否定する。


「なんだ、今の」


 一旦立ち上がり、鞄を置いて壁にもたれかかると、ポケットから取り出したスマートフォンで妹へ安否連絡を送る。そして、今の揺れは何だったのか、電車は止まっていないかなどを調べようと画面をいじり出す。しかし、その手はすぐに止まった。


 どこからか音が聞こえてくる。木が倒れる音だ。それも一つや二つではない。幾つもの木がミシミシと音を立て倒れていく。小さくはあるが確かに聞こえた。

 今の揺れによりどこかで土砂崩れでも起きたのだろうか、と不安に思った壱織だったが、次に聞こえた音により、一層不安を募らせる。


 咆哮。


 一瞬、近くで雷でも落ちたかと思うほどの大きなものだった。地を割り、空を裂くような激しい咆哮。それは、数度テレビか何かで聞いたことのあるライオンの鳴き声に似ていた。だが、その大きさ、威圧感は桁違いだ。

 何事だ、と困惑しつつ壱織は外へ出るが、そこにはいつもと何ら変わりのない光景が広がっている。家があり、その少し離れた隣には瓦屋根の道場があり、少し進んだところには一日に一度ぐらいしか車が通らない道がある。ありふれた日常のワンシーンだ。今朝は聞こえなかった鳥の鳴き声もちゃんと聞こえている――が、その声はどこか不気味だった。


 そして、その不気味な鳴き声が止んで数秒、代わりに地鳴りが聞こえてくる。

 静かな森のなかでたった一つ響く地の鳴る音。それはだんだんと大きくなっていく。

 そこで気付く。これは地震などから成る地鳴りではなく、無数のが地を蹴る音だと。

 壱織は道場と逆側にある森の中へと目を向ける。そこより現れるを見逃さぬように。

 そして――


「……は?」


 持っていたスマートフォンが手から滑り落ちる。

 現れたのは人の身の丈をゆうに超える巨大なヤギだ。いや、ヤギに似た動物と表す方が正しいのだろう。少しばかり土が被っている焦げ茶色の長い毛に、歪んだ巨大な角、そしてその巨体を支える太く発達した四脚。

 そんな見たこともない動物が物凄いスピードでこちらへと向かって来る。それも一匹や二匹ではない。無数のバケモノが横に列を並べたように走ってきたのだ。


 あまりの衝撃に一瞬取り乱しそうになったが、命の危険を感じたことで脳が勝手に冷静さを取り戻す。そしてバケモノに背を向けて全力で走り出す。今から奴らの進行上より避けようとしたところで、群で突っ込んでくるそれらから逃れることは出来ない。うまく足を避ければ何とかなりそうではあるが、一匹分の足ではない。先頭のバケモノに続き、続々と現れる何匹もの足に踏み潰されないよう避けなければならないのだ。一瞬考えた壱織だったが、すぐに却下する。ならば、と狙ったのは道場の縁側だ。

 あそこならば何とか滑り込めるだろう。壱織は落としたスマホのことやあいつらは何だという疑問を頭から捨て去り、ただ必死に走る。

 だが、太く強靭な四肢を持つバケモノらの方が断然速く、壱織との距離はみるみる縮まっていく。

 走り出して数秒、大きな音とともに後方から飛んできた何かが後頭部に直撃する。勢いを持ったそれに姿勢は崩され、頭から地面に倒れてしまう。幸い湿った柔らかい土がクッション替わりとなり、前からの衝撃は少なかったものの何故だか頭が回らず気を抜けば意識が飛びそうになる。

 縁側までの距離はあとわずかだが、その距離を進もうにもなぜか体が動かない。その間にも無数の足による地鳴りはだんだんと近づいてくる。

 壱織は気合で何とか動かした足と腕を使い、地を這うようにして何とか縁側の下に潜り込む。その直後には先程倒れていた場所は巨大なひづめに押し潰されていた。

 何とかここまで逃げ込めた安心感からか意識が遠のいていく。その視界にあったのは縁側の下の冷たいコンクリートに出来る赤い水溜まり、過ぎていく無数の獣の巨大な脚、そしてその間から見える倒壊し、瓦礫の山となっていく家。

 その光景はなど欠片も含んでいなかった。



 ・



 海辺の南極調査基地を突如襲った猛吹雪。激しい風が打ちつける扉は音を立て、十分な暖房が効いてある筈の室内でさえ少しずつ温度が下がり続けている。


「あ、あぁ……」


 ある一人の研究員が外に取り付けられているカメラの映像を見て口を押さえる。

 そこに映っていたのは、今まさに上陸しようとする巨大な生き物。

 それは山のように巨大で、そして人間のように頭と二本の腕がある白い化け物。海から出ているその上半身からは白い液体が垂れ流されている。


「……神よ」


 震えた声が暗い部屋で木霊した。



 ・



 雪に覆われている巨大な山脈。その遥か上空を一機の大型爆撃機が飛行していた。


『こちらαアルファ。目的上空に到着。投下する』


 その通信とともに大量の爆弾が雨のように投下される。

 雪の下に隠れていた岩場は爆弾の直撃を受けたその一帯は削り取られ、砂埃が上がる。それが何十も。

 これだけの量であればここら一帯を容易く吹き飛ばせるほどの威力になる筈だったが、砂埃が消え、観測できた損害はそれに遠く及ばない。

 爆発地点を中心とし、半径100メートル以内の岩の破壊確認できたが、だ。その下のドス黒い色をした層には傷一つ付いていない。


 爆撃地点よりかなり離れた場所を飛ぶ一機の観測用小型ヘリコプターから通信が入る。


『……っ。こちらλラムダ。損害確認できず! 目標、速度変わらず街へ近付いています!』


 ヘリコプターの眼前には巨大な地響きを立てながら動くがあった。

 緑の中を進む不自然な山脈。それの後ろには何も残っていない。木々は潰され、平な大地と化していた。



 ・



 月に照らされる東京渋谷のスクランブル交差点。いつものこの時間帯は人でごった返している筈の場所であるが、今は誰もいない。

 昼には絶えず響いていたサイレンも悲鳴も化物モンスターの咆哮も今はない。そこにはただ静粛が広がっていた。

 そんな場所にいる一匹の生物。

 ボロボロの薄汚れた鎧兜を身に纏った体長10メートルほどある巨大な怪物。人の形をしたの手には巨大な刀が握られている。その切先から滴る一滴の血。それは地面にできた鮮やかな赤い池に波紋を広げる。

 人、動物、化物モンスター。無数に転がるそれらのむくろに囲まれた怪物が咆哮を上げた。

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