東京セメタリー -1

西式ロア

プロローグ

絶望の鐘

 2XXX年


『次は終点、東京、東京――』


 高層ビル群の中、地上50メートルの地点を動くモノレールに揺られて男は会社へと向かう。いつも通りの面持ちで、いつも通りの時間に、いつも通りの憂鬱な気持ちで。

 そしていつも通りの車内放送が流れてきて、これもまた、いつも通り耳をすり抜けていく――筈だった。


 ビル群の間から差し込んでいた日の光が、一瞬にして姿を隠す。

 その異常な事態に男が気付いた瞬間だった。突如として発生した大きな揺れが車両を襲う。

 縦横にくる巨大な揺れにより、何かに摑まっていなければ床に頭を打ち付けてしまいそうになる。

 男は手すりに摑まり、片膝をつくことで何とか耐えるが、辺りからは物のぶつかり合う激しい音や、甲高い悲鳴が聞こえてきている。


 数十秒後、揺れは収まり、車内は一瞬ではあるが、静粛に包まれる。

 そして次に来たのは、混乱。それは一度始まるととどまることを知らず、他車両からのざわめきも伝わってくる。


 男は辺りを見渡す。

 足の置き場が十分にあったはずの床には、誰の物かもわからない鞄やその中身などが散在しており、それらを必死にかき集めようとする人の姿が見受けられる。

 他にも、泣き出してしまう子供に、必死に落ち着かせようとする母親。すぐにスマホをいじりだす者やただ辺りを見渡すことしかできない者など。各自行うことは様々だが、その顔には一貫して不安、恐怖といったものが表れていた。


『ただ今、大規模な揺れが起こったため、緊急停車いたしております。周囲の安全が確認でき次第、避難誘導を開始しますので、今しばらくお待ちください』


 突然、車内に響き渡った車掌の声は、淡々とマニュアル通りの言葉を述べているように思われるが、そこには隠し切れないものが溢れていた。

 わずかな声の震えや高さ、そういったものがマイクを通ることで拡大される。誰の耳でもはっきりとわかるほど。


 それがさらに乗客の不安を煽り、混乱、ざわめきは何倍にも膨れ上がっていく。

 そんな状況であっても、なぜだか男は冷静だった。

 五十五年も生きていれば一度くらいは同じような経験をしたことがある。もうそれに慣れてしまったのか、それとも心配する家族も友人もいないからか——生きることへの執着が薄れているからか。


 辺りが家族や友人らに連絡を取り合っている中、男はポケットの中からスマホを取り出す。そして、連絡先の欄から「会社」の二文字を選択しようとしたその時だった――


 ――地が震える。


 それは先程のような大きな揺れではない、震えだ。

 音により、一時その場は静粛に包まれるが、二打、三打とくるたびに、皆が声を取り戻していく。

 重い音とともに一定の間隔で繰り返されるその震えは、まるで巨大な何者かの足音だ。

 実際、そうであった。


 どこか遠くから聞こえた悲鳴、サイレンの音につられ、男はスマートフォンから窓の外へと視線を移す。

 そこにはがいた。


 黒い布を全身にまとった巨大ななにか。

 人のような形をしているが、それは人ではない。一言で表すならば、まさしく「悪魔」

 そこらの高層ビルが小さく感じるほどの巨大な体に、布の端々から見える白骨。手には――手の形をした骨には錆びた金属の棒が組み合わされたような物が握られていた。

 どこかへと進むそれの足元からは、砂埃や煙が立ち昇っている。


 そんな化け物の姿を皆窓に張り付いて眺めている。いや、拝んでいると言った方がいいだろうか。まるで現世に顕現した神を見ているかのような表情に思えた。

 そして皆一様に声を失っていた。


 続いて男は、悪魔の近くに、これもまた異様な生物を目にする。小説やアニメ、ゲームの中でしか見たことのない、現実にはいるはずのない空想上の生物を。

 四本の太い四肢に大きな尻尾、全身をまとう鱗は紅色に染まっている。悪魔と比べるとかなり小さく見えるが、人間よりかは遥かに大きい。その巨体を宙へと浮かす巨大な翼は、の生物を象徴するものとも言えるだろう。

 おとぎ話からそのまま抜き出されたかのようなその生物を知らぬ者はいない。

 人々は皆こう呼ぶ。


「……ドラゴン」


 誰かが言った。

 周りの人かもしれないし、男自身かもしれない。だが、その言葉は確かに男の心臓を高鳴らせた。

 このままでは破裂してしまうのでは、と思うほど激しく波打つ心臓は、男にあるものを思い出させる。何十年も前、初めてゲームをした時のような興奮を。


 そんな幾年も前のことを思い出していた男が現実に引き戻されたのは、それから一秒経たずのことだった。

 溜まり切ったものが一気にあふれ出す。津波の如く押し寄せる巨大な恐怖は車両全体を飲み込んだ。悲鳴やシャッター音などが行き交うそこになど跡形もなく消え去っていた。


 そんな光景をただ眺めていた――眺めていることしかできなかった男はあることに気が付く。

 震えが、止まった。

 つい先程まで確かにあったはずの微細な地の揺れがいつの間にか収まっていたのだ。

 そのことに何か嫌な予感を覚えた男は、ここで初めて興奮とは別の感情によって心臓が大きく一つ叩かれる。


 ゆっくりと振り向いた男の目には、何かを待つようにしてピクリとも動かない悪魔の姿が映った。周りを自由に飛び回る異形の生物に反して微動だにしないその姿は、博物館に置かれている彫刻を思い起こさせる。

 それから十数秒後のことだった。悪魔が動き出す。


 錆びた巨大な金属体を持つ手の部分が、ゆっくりと上がっていく。

 それにより、収まってきていたはずの車内に響く声の数々が再び熱を帯び始めてきた。

 そしてそれは響く。


 低く、重く、鈍いラッパのようであり、金属音のようでもある不気味な音が大気を震わせる。

 思わず耳を塞いでしまうほどの不快で巨大なその音に合わせるかのようにどこかから悲鳴が上がる。

 女性の甲高いその声は一瞬にして車内を駆け抜け、共鳴する。それは一度始まれば収まることを知らず、広がっていく。

 逃げる場所もないのに何とかしようとする者や立ち尽くすことしかできない者。彼らの顔に映っていた不安、恐怖はいつしか絶望へと変わっていた。

 男の心臓もまた、共鳴するかのように激しく波打つ。


 そして――


 金属音、悲鳴、鼓動。


 ――絶望の鐘が、大地を揺らす。

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