冒頭
あろん
冒頭
――この手紙を読んでいる頃には、もう私はこの世にはいないでしょう。
これは、家出の書置きに綴られた「探さないでください」と同じくらい、今となってはお約束の言葉だろう。テレビや映画で穴が開くほどに使い回されてしまってはいるが、涙を誘う効力はまだまだ衰えていない。
しかし、それは実際に死んでしまっていた場合である。書いた本人が目の前で病気とは無縁に元気な姿でいると、滑稽であることこの上ない。
俺は手にした遺書もどきを、彼女の前にチラつかせた。
「この手紙、一体どういうことだよ?」
彼女は俺の持つ手紙をじっと数秒間見つめていたが、思い当たる節がないのか小首を傾げた。見かねて俺は手紙の冒頭を読み始める。
「この手紙を読んでいる頃には、もう私はこの世に――」
そこまで聞くと記憶が強制的に呼び起こされたらしく、彼女は「うあああっ」と焦りと恥ずかしさに満ちた声を上げ、手紙を奪いとろうとした。だがそれを俺は避け、距離をとってから訊ねる。
「それで、どういうことなの? この手紙は」
「べ、別にいいじゃん。なんでも!」と言って彼女は顔を赤らめながら迫ってきたが、俺は軽々と避けてやった。「もぉー! 返してよっ!」
恥ずかしさからなのか、彼女は変に上擦った声をあげた。顔の赤さも増しており、今では耳までもが真っ赤になっていた。
ひょいひょいと避ける俺に、彼女も降参したのか、遂には無駄な抵抗をやめた。
「話す気になった?」
俺はニヤニヤと笑いながら訊ねた。
「話したら返してくれるんでしょうね……」
恨み言を言うように彼女は呻いた。
「話してくれたら、考えてやるよ」
「そんなのズルい!」
「なら良いんだよ? 俺は返さないだけだから」
彼女は口を真一文字に結び、眉根を寄せた。
「分かった……。でも、話したら返してよね。絶対よ!」
そうして、ぎこちない口振りながら彼女は話し始めた。話していながらも彼女の瞳は右へいったり左へいったりと随分と忙しい。まるで嘘がばれた子供が母親に本当のことを話しているかのようだった。
彼女の話をまとめると、こうなる。
少し前に彼女は風邪をひいた。咳やくしゃみ、鼻水に常に悩まされ、喉は針で刺されているかのように痛み、高熱にうなされ、体温は四十度に近かったそうだ。しかし、所詮はただの風邪であり、命に関わるようなものでは決してなかった。だが、高熱で浮ついた彼女にとっては、死を覚悟するほどのものだったらしい。
彼女は汗でべたつく身体に
そして当の本人すら忘れてしまった頃、その手紙を俺が発見したというわけだ。
「話したんだから、ほらっ、返して!」
彼女はトマトさながらに顔を赤くしながら言ってきた。
しかし、俺には返す気などさらさらなかった。別に彼女の弱みを握りたいというわけでもなく、いつまでも彼女を小馬鹿にしてからかいたいというわけでもない。単純に、手紙の続きに書かれている言葉を、ずっと手元に置いておきたかっただけだった。
「返してよー!」
彼女が金切り声をあげて襲いかかってきた。あまりの必死さに思わず俺は噴き出してしまい、彼女もつられた様子で恥ずかしさに赤面していた顔に笑みを浮かべた。
彼女の笑顔を見つめ、俺は手紙の言葉を思い起こす。
――私はあなたを心の底から愛しています。その気持ちは決して変わることはありません。
幸せな時間。こんな時間が永遠に続けばいいと思えた。
*
定期的に響く電子音に導かれ、私は目を覚ました。
周囲を見渡すと、見慣れた病室が視界に入る。そこには夢でみた部屋の断片は何も感じられない。
私は重い身体をゆっくりとベッドから起こし、引き出しから一枚の便箋を取り出した。骨と皮だけになった手でペンをなんとか握ると、震えるペン先をどうにか制し、便箋へと向けた。
手紙の冒頭も内容も、すでにすべて決めていた。あの時とは立場が逆になってしまってはいるが、君に伝えたい想いは、あの時の君とまったく同じだ。私は君を愛している。その気持ちはこれからも変わることはない。
頬が熱くなるのを感じた。
あの時の君の気持ちが、今になって分かった。改めて文字にするとなると、こんなにも恥ずかしいものなのだな。
目頭が熱くなり、目尻の
君と別れたくない。ずっと一緒に居たいよ。
私はゆっくりと手紙を書き始める。
この言葉を、また君と笑い飛ばしたいものだ。元気なくせに何を馬鹿なことを言っているんだ、と笑いあいたいものだな。
私は冒頭を綴った。
『この手紙を読んでいる頃には、もう私はこの世にはいないでしょう』
冒頭 あろん @kk7874
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