21

 その声が聞こえた途端とたん、地面のれもオルダの笑い声もピタリと止まった。硝子がらすの転がる音やこすれる音がしていたけど、まるで嵐のあとのように静かに感じた。


 オルダは声のした方に顔を向けて、口をポカンとけていた。涙も止まって、表情から指先まで、全身が固まっていた。視線の先には小さな黒猫くろねこがいた。今にも倒れそうなよろよろとした足取りで、ゆっくりとオルダに近付いて行く。


「あの猫」


 と声を上げたミュートは仰向あおむけにひっくり返っていて、無造作むぞうさに手足を投げ出して、首をひねってらしながら、じっとオルダと子猫の方を見詰みつめていた。


「片耳がない」


 僕も目をらすけど、暗くてよく分からなかった。でもミュートが言うのだから間違いないのだろう。


「……それじゃあ、あの猫」


「うん、さっきの子猫だ」


 ミュートがひろったあの黒い子猫だ。今にも死んじゃいそうだったはずなのに。

 子猫は硝子のに差し掛かる。どうするのかと思っていると、子猫は風を起こしてぷかぷか浮いて裂け目を越えた。


「……ハ、ハックなの……?」


 オルダは震えた声で子猫に問い掛けたけど、子猫は足場の悪い地面を進むので精一杯せいいっぱいで、返事をする余裕がないようだった。オルダは我に帰ったのか、あわてて子猫のもとに向かおうとする。だけど腰が抜けてしまったのか立ち上がることができず、あしうように進んだ。


 オルダまでもうすぐというところで、子猫はコテンと地面に倒れてしまう。

 

「……や、やべえ、死にそうだ……」


 オルダは必死になって子猫に這い寄り、そっと子猫をき上げた。


「……ハックなの……本当にハックなの……?」


「……ああ、そうだ、俺だよ……」


「……ハック、ハック……よかった……私……」


「……それよか……本当に……死んじまう……」


「……ま、待って、すぐになおしてあげる……」


 オルダは強くハックを抱き締めた。すると、オルダとハックの身体の所々ところどころがまだら模様もように輝き出した。ハックの身体の光は、オルダに比べて弱々しかったけど、徐々じょじょにその光量こうりょうが増していく。オルダとハックの光が同じくらいになると、突然光は消えた。オルダはそのまま、ハックをますます強く抱き締め、「ハック、ハック」とつぶやきながら、おいおいと泣き始めた。


 僕は何だか呆気あっけに取られてしまい、しばらくのあいだ、ただぼうっと2人をながめ続けていた。どれくらいそうしていたのか分からないけど、僕は我に帰りとなりに目をった。ミュートは地面にひっくり返ったままで、さっきとまったく同じ格好で2人を見詰めていた。変わっていることといえば少し涙目になっているぐらいだ。


「ミュート、行こう」


「……うん、そうだね」


 僕たちは立ち上がり、裂け目や破片はへんだらけになった地面を慎重に進み、2人の許に歩いていった。僕たちが近付くと、オルダはハックをかばうように、身を捻って引いた。らした目には、敵意てきいと、さっきまではなかった恐れがもっていた。と突然、オルダの腕の中のハックが暴れ出した。オルダが腕をゆるめると、そこからハックは顔を出し、オルダを見上げた。


「もうやめよう、ルー。俺たちの負けだ。命を返そう。この猫がいなけりゃ俺は死んでた。お前だって、かなわねえと思ったから、こんなことしたんだろ? ……相手が悪すぎる、こいつらどうあってもあきらめちゃくれねえようだ」


 オルダはハックに目を落としながら、長いあいだ、沈黙を続けた。思案しあんするにしても長すぎる時間だったけど、仕方ないことなのかもしれない。これと決めた自分自身のルールをやぶるのだから、それも何百年も続けてきたことなんだ、ためらいがあって当然だ。自分自身のルールも誰かとの約束も、時がぎればぎるだけ、破るのが難しくなっていくものだ。意味が抜け落ちても、どんなに時代遅れになっても。


 罪悪感や怖れからげるためにできたルールはことさら頑丈がんじょうで、それは時に優しい心や道徳心どうとくしんすらねじ曲げてしまうことがある。

 

 人の心は、ふにゃふにゃだ。世界に視野しやを広げて、見ず知らずの人たちを助けるくらい、大きく広げることもできる。反対に自分自身で決めたルールのかたにはまって、身動きが取れなくなることだってあるんだ。一見いっけん正反対に見える救世主きゅうせいしゅ殺人鬼さつじんきも、本当に紙一重かみひとえで、それどころかその2つが、心の中に同時に存在することだってある。

 

 人は変幻自在へんげんじざいなんだ。どんどん変わっていくし、それは死ぬまで終わらない。だから、いつからだって、なりたい自分に変わることができるんだ。

 

 ふと、頭上で何か動いたような気がして顔を上げると、ほたるが次々と降って来ていた。地上からのがれていた蛍が戻って来たんだ。ゆっくりと降り掛かる様子は、まるで本物の雪のようだ。手の届きそうな低い雲から、雪が次々零こぼれ落ちているみたい。この町に来てから蛍たちは様々な姿を見せてくれたけど、今の姿が一番綺麗きれいだった、思わず息をむくらいに。視線を下げると、いつのにかオルダも空をながめていた。オルダも初めて見る光景なのか、少しだけ目を見開みひらいていた。少しして、オルダは僕たちに視線を移し、口をひらいた。

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