グリエさんの話に影響えいきょうされてか、ミュートはさっそくほんを手に取り、歩きながらパラパラと目をとおしていた。だけどれないことをしたせいか、ミュートはがりかどで、おでこを本棚ほんだなに思い切りち付けてしまった。ミュートは声にならない声を上げて、悶絶もんぜつしている。


「あら、大丈夫?」


 グリエさんはミュートのそばにると、ミュートのおでこにひらてて、優しくさすり始めた。


「ほーら、いたくないいたくない。いたいのいたいのんでいけー」


「……そんな子供じゃあるまいし、おまじないなんか……」


「思い込みは大事だいじよ。ほら、いたいのは私の手にうつっちゃったわ。はい、パクッ」


 そう言って、グリエさんはひらを口に持っていき、ものべるジェスチャーをした。


「ほら、もういたくないでしょ?」


「……滅茶苦茶めちゃくちゃいたいです」


 ミュートはおでこをさえて涙目なみだめうったえた。


「気のせい、気のせい。ほら、心頭滅却しんとうめっきゃくすれば火もまたすずしよ。ほら、想像そうぞうして、あなたは、のどかな外国がいこくています、青い空のした、あなたはハンモックにられています、気持ちのいいかぜき抜け、あなたのほほでました、やわらかいひかり全身ぜんしんつつみ、あなたは全身ぜんしん眠気ねむけおぼえ、こう思いました、私はしあわせにちている、すべてにあふれ、りないものなどなにもない、どう?」


「……まだ、全然ぜんぜんいたいです」


「もう、強情ごうじょうな子ね。ほら、くわよ」


 グリエさんはなく言うと、またゆっくりと歩き始めた。かと思うと、今度はあかるい声を上げた。


「おまじないといえば、先日せんじつ面白おもしろいものを見付けたわ」


「おまじないですか?」


 ミュートはほんたなもどしながら相槌あいづちった。


大昔おおむかし呪文じゅもんよ。火消ひけしの呪文じゅもんなんだけどね。なんでも119ってとなえるとたちまち火が消えるんですって」


「そんな、数字すうじとなえるだけで、火が消えるわけ……」


「ふふ、まあ、おまじないだからね。それも本当に大昔おおむかし古代こだいといっていいほどむかしのおまじないだから。でも、そんな呪文じゅもんがあったらたすかるわ。ここって可燃物かねんぶつだらけだから、火事かじになったら大変なのよ。ここでの火の不始末ふしまつ極刑きょっけいものよ」


 グリエさんは、わずかに頭をげながらいきいた。過去に何度なんどかそういうことがあったのかもしれない。


「それはさておき、そういうのって多いわよね。わらべうたやお祭りや風習ふうしゅうとか、起源きげんが分からなくて、ただかたちだけがのこっているものって」


たしかにいろいろありますね」


最初さいしょ意味いみがあったんでしょうけど、徐々じょじょにそれもわすれられて、ただかたちだけがのこり、爪痕つめあとのこして、やがてかたちも消えてなくなってしまう。なんだかまるで、ほと一生いっしょうみたいじゃない? 意味いみを持ってまれ、やがてたましいけて、かたちくずれ、ただおもだけをのこして、過去にみ込まれて消えてしまう」


 グリエさんの話の途中とちゅうで、ミュートは突然とつぜんせつなげな声をらし、一滴ひとしずくなみだほほつたわせた。


「……ごめんなさい、なにさわることを言ってしまった?」


 グリエさんは、少し狼狽うろたえたようにミュートの顔を見た。


「……違うんです。ただ、最近さいきん、悲しいことがあって、……それで、その……」


 言葉をかさねるうちに、ミュートはせきを切ったかのように、ポロポロとなみだこぼし始めた。笑ってみたり、いきを大きくいたりして、ミュートはなみだめようとするけど、余計よけいなみだあふれ、表情ひょうじょうくずれていった。


なにがあったか知らないけど、大丈夫だいじょうぶよ」


 まるでをあやす母親ははおやのように、優しい声でグリエさんは言った。


「……ごめんなさい、なに泣いてんでしょう……」


大丈夫だいじょうぶよ、いくら泣いてもいいのよ。大丈夫だいじょうぶ、私たちはなにがあったって、平気へいきでいられるわ」


「……平気へいき


「ええ。なにを言われても、なにあたえられなくても、なにうしなっても、なにかなわなくても、たとえ、だれうしなってもね。過去は欲張よくばりで、なんでもべちゃうから」


「……欲張よくばり?」


「……ええ、そうよ。私たちも、この世界せかいも、いずれは過去にみ込まれてしまうわ。それだけじゃない。未来みらいのすべてさえも、過去はべてしまう。死者ししゃ生者せいじゃも、これからまれる私たちの子孫しそんも。自然しぜんいとなみも、星のかがやきも、小川おがわのせせらぎも、すな粒子りゅうしのすべてを、葉合はあいのかげのひとつひとつまで。まわ昼夜ちゅうやを、めぐ季節きせつも、こぼれる時間も。だれかへのおもいも、未練みれん後悔こうかいかなわなかったこいだって。楽しかったおもも、泣いたあの日も、わすれてしまった記憶きおくさえ。

 天国てんごく地獄じごくも、過去にある。それはみにくいはずよ、それはうつくしいはずよ、すべてがそこにあるのだもの。ひかりあつまり白になり、いろかさなり黒になる。

 天国てんごくでも地獄じごくでも、死後しご世界せかいもそんなに悪くないと思うわ。でも、やっぱりきているのが一等いっとう素敵すてき。自分で見付けるのが一番いちばん楽しい。くしたものがいとおしい。偶然ぐうぜん出会であうのが最高よ。私たちはきているから泣くし、笑うの。泣くたねも、笑うたねだって、無限むげんあふれてる。

 私たちは神様かみさま感謝かんしゃしなければいけない。私たちをこんなにも、ちっぽけにしてくれたことに。世界せかいをこんなにも、広大こうだいにしてくれたことに。本当、こんなのってない。こんなに素敵すてき世界せかいだなんて、まるで冗談じょうだんのような話。神様かみさまのジョークと言われても、しんじてしまえる。冗談じょうだんでも、冗談じょうだんみたいな話でも、やることはひとつじゃない?

 それは楽しむことよ。なんでもいい。好きなこと。好きな人。それはかならず、見付けられるから。過去のおすみきだから、それは間違いのないこと。私たちはなにがあったって大丈夫だいじょうぶ平気へいきでいられる。私はほんを読んだだけで、これだけのことを知れた。あなたたちはたびをしているんでしょ? 尚更なおさら素晴すばらしいものを見てきたはず。大丈夫だいじょうぶ平気へいき。だってあなたは世界せかい素晴すばらしさを知っているんだから」


 ミュートは、グリエさんの話を聞くうちに泣きやみ、唖然あぜんとした表情ひょうじょうを浮かべていた。そして話が終わると、き出すように笑った。多分たぶん、あまりのポジティブさに圧倒あっとうされてしまったんだ。


「あっ、ずかしいこと言ったら、頭に血がめぐって来たわ。やっぱり頭の回転かいてん特効薬とっこうやく青春せいしゅんね」


 グリエさんがなにか言おうとするのをさえぎって、ミュートは言った。


「あの、グリエさん聞いてください」

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