第5話 サラ(後編)
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午後の講説が終わった後、リュドミラはリンジーと合流し、件のサラ何某が在籍するという突剣の同好会に向かった。
聖ソラリスは正門に向かって西側に女子たちの学舎、寮、それからこの湖畔がある。同好会は、その湖畔に程近い場所で活動をしているらしい。
馬を用立てるかというリンジーの厚意に甘えて、騎乗での道行きである。とはいえ、急がせているわけではない。ちょうど女中が随行できる程度の速さで、ゆっくりと進んでいる。
「のどかですのね」
「あっちには馬術の倶楽部もあるんだよ」
平原を抜ける風が、リュドミラの鼻をくすぐる。
生臭く青々しい。
しかしどこか清冽で、いやな気はしない。
これから夏に向かっていく中原の、胸がわくわくするような風だ。
「ここら一帯は男子禁制の我らが領土というわけで、思い思いの放課後を過ごしているのさ。
――おや?」
リンジーの視線の先を、リュドミラも見やる。
馬が見える。芦毛の馬だ。
いやに大きく見える。
「おいおい、あれは……」
リンジーは手綱を振るい、リュドミラの前をかばうように馬を動かした。
「なぜここに……」
「あの芦毛の馬。ご存知で?」
「私の記憶が正しければ。
こちらで轡を噛ませましたが、とんだ暴れ馬で。人を決して背に乗せようとしないのです。
結局男子寮に引き取られていったのですが、そちらでも懐かずに怪我人が出たとか――いけない!」
見れば、芦毛の馬がこちらに走ってきている。
近づくほどに、その尋常ではない巨軀がありありと見てとれた。
「下がって!」
背を向けたまま、リンジーが叫ぶ。
指示に従おうとした瞬間、リュドミラの脳裏にキャスリーンの側付きのことがよぎった。彼女ならば今も近くに控えているかもしれない。いや、きっとそうだ。叫ぶべきか。
いや、そもそもこの状況を見ているならこちらが呼ばずとも割って入ってくるのではないか。そうしないということはつまり。
「ハイヨーッ! シルバーッ!」
芦毛の馬の騎手が、奇妙な喚声をあげながら、リンジーの目前でぴたりと馬を停めた。
「やあやあ、どうもどうも」
騎手――キャスリーン・エッジワースが気の抜けた声であいさつをした。
「き、キャスリーン嬢?」
「だと思いましたわ」
「奇遇ですね!
もしやお二人もサラさんという方に会いに行くところで?」
キャスリーンは鐙も踏まずに馬から飛び降りると、馬の鼻先を撫でた。馬も応じるようにキャスリーンに鼻先を寄せた。
「その馬……どうしたんですの?」
「この子ですか?
借りました。
なんか乗り手が付いていないとかで」
「君、その子は大層な暴れ馬で、まるで人に懐かなかったんだが……」
「そうなんですか?
そうだったかも。
でもしばらく走らせたら仲良くなりましたよ」
「むう。
もしや彼に着いて行ける者がいなかったということなのか?
いやしかしキャスリーン嬢。知らなかったよ。君は乗馬の名手なのだね」
「馬は好きですよ!」
「はいはいところで」
リュドミラが割って入る。
「その馬、男子側の厩舎にいたのではなくて?
あなた、あちらに行っていたの?」
「ちょっとだけ潜入しました」
「あなたねえ……」
「それで――結果的に、なんですけど、ボニファーツ・バインリヒと接触しました」
「えっ!?」
「まあその話は後にしましょう」
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一行にキャスリーンが加わり、程なくして突剣同好会が使っているという宿舎に着いた。
修道院のような佇まいである。学園の校舎同様、無骨な造りで、東じみた剛毅さがある。華美な装飾は見られない。
大きさもそれ相応のもので、何十人が寝泊まりしても余りあるようだった。そのための設備も整っているようだ。
「ここ、その同好会だけで使っているんですか?」
「いや。馬術部の連中もいるし、それこそどこにも所属していない連中だって来るよ。
まあ、寮と寮の垣根を超えた
キャスリーンはきょろきょろと辺りを見回している。行きの船で見せた、落ち着きのない猫のようなしぐさだ。
おのぼり然としたその様子にリュドミラは困った顔をするが、キャスリーンは気にも留めない。リンジーは笑っている。
そこかしこに女生徒がおり、辺りは黄色い声に満ちていた。
リンジーの言う通り、剣術や馬術のみならず、絵画だとか、楽器の演奏だとか、何がしかの活動をしているのだろうと思われる者たちが散見された。一方で、ただ歓談しているというだけの女生徒も相当数いた。
「こっちだよ」
リンジーに続くと、次第にエイヤアという掛け声が聴こえてきた。
棟を繋ぐ渡り廊下の合間を抜けて、開けた裏庭。
そこに、女生徒が十数名ほど集まっていた。
青々とした芝生の上で、皆が懸命に木剣を振るっている。
「へえ」
「ふふ。
思ったよりしっかりやっているな、というところかい?」
「ええ、まあ」
「ちょっと、キャスリーン」
「ははは。
いいのさ。私もそう思う。
護身術を扱う団体は他にもあるけど、真面目にやっているのはここくらいだ。
真面目にやりすぎて、定期的に親から抗議が来るくらいさ。青あざ上等でやっている団体だからね、士気は高いよ」
女生徒たちは大よそ二つの塊に分かれて活動をしていた。
統制の取れた動きで剣を振る集団。型稽古なのだろう。これが恐らく下級生。
それから簡素な防具を身に着け、互いに打ち込みを行っている者だち。こちらが恐らく上級生。
この二つの集団に加わらず、思い思いに剣を振るったり、下級生をじっと監督している者が若干名いる。これらがおそらく最上級生なのだろう。
「なんだか圧倒されますわね」
祖父や叔父と、その従士たちが稽古をする姿は何度か見たことがある。
ただこのように、自分と同じ女が集団で剣を振るうさまをリュドミラは初めて見た。
「どうですの? キャスリーンから見て」
「う~ん。
私、逆鱗刺しって得意じゃないんですよね。
ですから何とも言いづらいです。
これについては兄のほうが得意ですね」
「げきりん?」
首を傾げるリュドミラ。逆鱗という言葉に、リンジーも反応する。
「逆鱗刺しとは、ずいぶん古い言葉を使うね。
かつては突剣術をそんな風に呼んだりもしたそうだけれど」
「マジですか?
北じゃ普通に使うんですけど。ド田舎あるあるかもしれません」
「げきりん、というものがあるんですの?」
リンジーが首肯する。
「逆鱗というのは、そのまま逆さまに生えている鱗のことさ。
その昔、竜を相手取るのにこの剣術を用いたという逸話があってね。
竜というものは下あごの奥側に一枚だけ逆さまに生えた鱗を持っていて、なんでもそいつが急所なんだという。
これを貫く技だから、逆鱗刺しと」
「へえ。逆鱗。本当にあるのかしら」
「どうでしょう。ないんじゃないでしょうか」
あっけらかんと答えるキャスリーンに、二人の視線が向かう。
「その位置が弱点っていうのは間違ってはいないと思いますけどね。
火吹き竜は喉元深くに炎を吐き出すための器官がありますから、下あごを突いた攻撃が運よく火炎袋に当たったってことなんだと思います。
鱗が逆さまっていうのは、う~ん。どうでしょうねえ。少なくとも私が仕留めてきた竜にはそういうものはなかったですねえ」
「詳しいな、キャスリーン嬢。そういえばさっき北ではって言ってたけど、君って北部の――うん? 仕留めた? 今、何か妙なことを……」
「あ! あの方がサラさんじゃないですか?」
キャスリーンが裏庭の隅を指差す。
リュドミラはその指先を手のひらで押さえながら、視線は指が示していたほうにやった。
集団から離れ、一人の女生徒が虚空に向けて剣を振っている。
癖の強い、跳ね返った茶色い髪。
腰の辺りまではありそうで、聖ソラリスの女生徒としては標準的な長さだ。それをうなじの辺りから三つ編みにしている。
伏し目がちな水色の瞳は、建物側の壁に向けられており、他の女生徒たちの誰とも交わっていない。
背は高くない。
リュドミラよりも低く、小柄な部類に入る。しかしその動きの鋭敏なさまは、素人の目にも明らかであった。
「よくわかったね、キャスリーン嬢。
そう、彼女がサラ嬢だ。
それで――おっと、そうだった。
少し失礼するよ。ここの代表と話をしてくる。いつまでも覗き見というのもばつが悪いからね」
リンジーを見送り、二人はサラに視線を戻す。
「どうですの?」
「さて。たぶん強い方なのではないでしょうか」
投げやりな声だった。
強いとか弱いとかの話になると、この方は途端に面倒そうな顔をする、とリュドミラは不思議な思いでキャスリーンの横顔を見ていた。
戦士、取り分け腕に自信のある男性というのは、誰それが誰それより強いだとか、どこそこの戦場でこんな戦いがあってどういう働きをしたんだとか、似たような話を延々とするものだとリュドミラは思っていたが、キャスリーンはしない。
女性だからかしら。それとも、真の強者というのはそういうものなのかしら。
おじいさまもそういうところがあったかも、とリュドミラはなぜか胸がどきどきとした。
「あっ」
リュドミラが思わず声をあげた。
もしかして、自分に遠慮しているのだろうかと思い至ったのだ。
「キャスリーン。大丈夫ですのよ。
私、あなたとお友達になって、刺激的な言葉にも慣れてきましたもの」
キャスリーンが思わず吹き出す。
「いや、そんな、そういうことでもないのですが。
いろいろ……見てみないとわからないというか。
その人の立ち振る舞いをぱっと見ただけで強さを語れるほど、私はすごいやつではないのです」
「そうは言うけれど、そもそもあのサラという方を一番に見つけたのはあなたでは――」
その後に口の中でキャスリーンがぼそりとつぶやいた、かわいい人だ、という言葉をリュドミラは耳ざとく聞き取って、何の話をしていたか一瞬忘れてしまった。
「ただ、剣を引く手際は良いなと思いました」
「――はッ。は、はい? 剣を?」
「ええ」
そもそも刺突は非常に難しい技術だ、とキャスリーンが講じる。
「刺すのは案外できるものなんです。
というのも、斬るとか払うっていうのは肩や腰の工合が大事で、それが満足でないと斬れるものも斬れないんですが、刺突っていうのは助走がつけられるんですね。
地面を蹴る力で自然と勢いが乗りますから、技術が無くても刺す力に体重を込められるんです。
ところが抜くのが難しい。
刺した剣っていうのは骨に引っ掛かるし、筋肉で締められるんですよ。そのうえ刺すときと違って助走をつけられないから、ほとんど上半身の力だけで引き抜かなくちゃならない。
相手を一撃で仕留め損なうとか、あるいは他にも敵がいたりすると、まごついているうちにやられてしまうというわけです」
「あら……そうなの。突剣ってそうなの」
皆さんのことを否定しているわけではないですよ、とキャスリーンが慌てる。
「護身術としては向いていると思いますよ。一撃をお見舞いして、剣はそのままにして逃げるんです。
護身用の懐剣だって、斬る目的にはできていないですからね。腰だめに持って刺して、二の太刀はないでしょう。そうじゃなきゃ自害用か。
彼女の剣はこの中では取り分け――いや、唯一
腕の引き方と、腰の回転ですね。それと――ホラ、たまに足が出るでしょ。あれ、刺した相手を蹴っ飛ばして剣を抜いてるんです」
言われてみれば、サラは何かを蹴飛ばすような動きに勢いよく剣を引き抜く所作を合わせていた。
「型稽古と言っていいんですかね。
独特で面白いですよね。
でも真面目だな。面白いです」
キャスリーンが鵜の目でサラを見つめる。
「キャスリーン、揉め事はごめんですわよ」
「わかってます、が……あれは真剣か?」
「はい?」
「いえ――」
そこでリンジーが帰ってきた。
傍らにもう一人、女生徒を連れている。
先程、下級生を見ていた生徒だ。
「青月の左手の会へようこそ」
そういう名前だったんですねという露骨な顔をしたキャスリーンの脇をリュドミラが肘で小突く。
「サーリアリンテの小剣ですわね」
「はい?」
青月は二柱の月神、すなわち姉妹月のその姉、先を行く者サーリアリンテを意味する。
そして妹月カナンをかどわかそうとした火神を、サーリアリンテは左手に携えた剣で撃退したという逸話から、その左手は武威や剣峰の象徴とされる。
青月の左手の会。
女子のみで剣術を修める会にふさわしい名前だ。
「あ〜……リュドミラ嬢。
すまない。
一応、用件は伝えたのだけど」
リンジーは困った顔で頭をかく。
代表は値踏みするように、じろじろとキャスリーンとリュドミラを見る。
「サラに用があるということだが……。
彼女も他の者同様、当会の大切な会員だ。
つまらぬ噂話や謂れのない中傷が耳に入るのは、代表として見過ごせない」
「セレッサ。
彼女たちはそういうんじゃないさ」
「わかっている。
けどこれは、部外者であれば誰にだって言っていることだ。
リンジー。おまえの知り合いだとて、過剰に便宜を図るつもりは――む」
そんなやり取りをしているうちに、件のサラが自らこちらに歩いてきた。
サラは自分に集まった視線に、肩をすくめる。
「名前が聞こえたから」
抑揚の少ない声だ。
「いいよ、代表さん。
誰があたしに喧嘩を売りに来たって?」
「サラ、そういう話じゃあ」
「冗談だって……」
――と、サラとキャスリーンの視線が交錯した。
「――」
「――」
サラは無言で右手に握った木剣を放った。
木剣が芝生に落ち、かさりと音を立てた。
左手が、左の腰に伸びる。
絞り上げた腰帯に短剣が差してあった。
装飾を目的とした剣に見える。
が、どうだろう。
その鞘の下には、鋭い白刃が潜んでいるはず。
サラの腰がわずかに沈んだ。
リンジーと会長が、この異様な空気に気づく。
リュドミラは混乱した。
突然、なぜこんなことに?
横目でキャスリーンを見る。
いつもと変わらない。
体の強張りも見て取れない。
しかしどこか、雰囲気が違う。
「ボニファーツ・バインリヒの代闘士はあなたですか?」
明るい声でキャスリーンが言った。
空気が一気に弛緩する。
問われた当の本人は、一瞬だけ虚を突かれたような目をしたあと、薄く笑った。
「うん。そう」
「なにかおかしかったですか?」
「いや――」
サラは咳払いをして、続ける。
「御曹司――ボニファーツ様には、自分からは喋るな。問われれば正直に答えていい。
と、申し付けられていた。
まっすぐにあたしに尋ねてきたのはあなたが初めてだったから。
この学園の生徒じゃないな?」
「はい。キャスリーンと申します」
「キャスリーン……それじゃあ、あなたがファールクランツの?」
サラの視線が隣のリュドミラに向かう。
「リュドミラ・エリ・ファールクランツです」
サラは姿勢を正すと、軽く頭を下げた。
「リュドミラ・エリ・ファールクランツ殿。
感謝する」
今度はリュドミラが虚を突かれる。
「あの娘――――ファルザード・ツァーリをかばっただろう。
御曹司は彼女との関係を清算しようとしている。けど、一山いくらのスズメどもに彼女を攻撃させたいわけじゃない。――と、思う」
サラは先程放った木剣を拾い上げると、腰帯に差し直した。
「なぜボニファーツ・バインリヒに与するんですか?」
「ちょっと、キャスリーン……」
そのあんまりな物言いに、周囲がぎょっとする。
サラは頭をかくと、
「調べればすぐわかる。あたしはバインリヒの一派だから。寄り子の寄り子のそのまま寄り子……ってくらいだけど」
「ああ、いえ、そういうことじゃなくて――」
「昨日までは――」
サラがキャスリーンの言葉をさえぎる。
「リンジー・バレル。
あんたがファルザード・ツァーリの代闘士になるんだと思っていた。代表に唯一黒星をつけさせた女だと聞いていたが」
「そりゃ、バレルは弓取りの家だから……。
それに、ずいぶん昔の話だよ」
周囲の目が、リンジーに集中する。
キャスリーンはリンジーを視線からかばうように半歩前に進み出た。
そして、
「あんたか」
「はい。私です」
とはっきり答えた。
「そうか。まあ、どっちでもいい。その日が来たらよろしく」
「――ええ。よろしくお願いします」
サラは一同に軽く頭を下げると、その場をあとにした。
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