第5話 サラ(前編)
1
払暁を待つ、聖ソラリスの空。
中原には夏が近づいていたが、早朝ともなれば、まだ冷え込む。
冷気のせいもあってか、人気のない中庭には、どこか張り詰めた空気があった。
その一角に、一人の少女が立っている。
キャスリーン・エッジワースだ。
巨大な木剣を担いでいる。
いや、木剣と呼んでいいのかもわからない。それは舟を漕ぐ櫂のような形をしていて、つまり鍔がなく、刀身に当たる部分が分厚く、幅広だ。そうして柄頭から切っ先まではキャスリーンの背丈をゆうに超えており、加えて芯には鉛が仕込んであった。
ひどく重い。
その不恰好な木剣を右手で担ぎ、振り上げたままの姿勢で静止している。静止しているかのように見えるほどの遅さで、ゆっくり、ゆっくりと剣を振り下ろしているのだ。
梃子の要領とか、遠心力だとか、勢いに任せるのではなく、その膂力のみを頼りに木剣を振るっているのだ。
キャスリーンの怪物のような筋骨を鍛えるには、自重などではまるで足らない。こうしたいびつな器具が必要になる。
額に汗がにじむ。頬を伝い、顎から落ちた一滴が地面に小さな染みをつくった。
こういうとき、キャスリーンはあれこれと思いを巡らせる。
このような鍛錬は、強くなるためのものではなく、弱くならないためのものだと、キャスリーンは思っていた。
こわい。弱くなることは。
果たすべきことを果たせぬことは。
キャスリーンは木剣を振るう。
2
朝の身支度を整えたリュドミラの前に、キャスリーンの側付きが現れて深々と頭を下げた。
昨日の言葉の通り、主人は学校を見て回ると言って、既に出掛けてしまったということだった。
「随分早いのね」
リュドミラの言葉に、側付きはわずかに頭を上げ、武辺者とは朝晩の鍛練を欠かさないものですから、と答えた。
なるほど。
早朝のほうがそういった手合いの者は見当をつけやすいのか、とリュドミラも合点がいく。
「用事はそれだけ? ――構いません。頭を上げなさい」
側付きが頭を上げる。
そして、本日はリュドミラ様のお傍に侍るようにと言付けられております、と続けた。
「ああ、そういうこと」
この側付きのただならぬ気配については、兼ねてからリュドミラも感じるところがあった。
蓋しキャスリーン同様、腕に覚えのある人物なのであろう。
今日はキャスリーンが傍を離れるから、彼女に代わって警護をすると、どうもそういうことらしい。
「わかりました」
側付きは再び頭を下げると、傍におりますので、お呼びいただければすぐに参上いたします、と言って、リュドミラの客室から出て行ってしまった。
「……妙な気持ちね」
側付きの気配はまるで感じなくなったが、おそらくはすぐに駆け付けられる距離に控えているということなのだろう。
リュドミラは気を取り直して女中に、つまり彼女自身の側付きにお茶を淹れさせると、あらためて今日の身の振り方を考えた。
昨日キャスリーンと話をしていた通り、ともかくはボニファーツ何某の情報を集める他はない。とはいえ、あちらこちらの学生をつかまえて聞き込みをするということも、部外者である自分にとってはうまい手ではない。
リュドミラは、伯爵家の御曹司であるボニファーツは、当然ながら相応の派閥を持っていると踏んでいた。ファルザード・ツァーリが外国人であるとはいえ、自らの婚約者を面罵するが如き振る舞いをしたのである。力の無い家にあっては、とうに身の置き場を失っている。まずい立ち回りをすれば、それこそ学校を追い出されるのはこちらになるだろう。
となるとやはり、リンジー・バレル――彼女に話を聞く他はない。
「ふむ」
壁掛け時計を見ると、午前の講説が始まるまではまだ時間があった。牡鹿の寮まで行けば、リンジーをつかまえられるかもしれない。
しかし事前の伺いも立てずに訪問するのはいささか不躾だろうか。いや学生同士のことだ、そう肩肘を張らずともよいのではないか。とはいえ昨日知り合ったばかりの相手ということもある。
さて。
キャスリーンならばどうするか。
「毒されましたわね」
リュドミラは席を立った。
3
牡鹿の寮を訪ねたリュドミラを、リンジーは歓迎した。
「リュドミラ。良いところに。
ちょうど一息つこうと思っていたんだ。付き合ってくれないか」
そう言って、リュドミラを娯楽室に引き込む。
父に連れられて何度か出入りした、王都のサロンのようなフロアだ。とはいえ、さすがに酒や煙草の甘ったるい香りはしなかった。古い紙とインクのような、どこか落ち着くにおいがする。
ロヴィーサがここで過ごしていると思うと、リュドミラはほっとしたような気持ちになった。
「かけてくれ」
そう言うリンジーは立ったままだ。
「何か淹れよう」
「あら」
そうか、とリュドミラが気づく。
聖ソラリスは自主自律を校訓としているから、女中の数も最低限。茶の一杯を淹れるのにも自らの手足を動かす必要があるのだ。
「お座りになって」
リュドミラはリンジーに声をかけて、それから自らの側仕えに目配せした。
視線を受けた女中は恭しく頭を下げると、おそらくは給湯室に繋がっているだろう扉のほうへと歩を進めた。
「ああいや、大丈夫さ」
すると、給湯室の扉が開き、中からお茶の一式を載せたお盆を持った女生徒が現れ、こなれた様子でふたりのお茶を用意してくれた。
「まあ。ありがとう」
女生徒は少し照れた様子で頭を下げると、しずしずと席を離れていった。
「なるほど。素敵ね」
「こういうのも悪くないだろう?」
「ええ。正直、少し偏見がありました」
「私もさ。女中の真似事をすることもさることながら、彼女たちの仕事を奪うということがね。
果たして貴顕の為すことかと思ったけれど、実に学ぶところがある。私も下級生の頃は、ああしてお茶くみをしたものさ」
「まあ。……なら、ロヴィーサも?」
「もちろん。彼女は優秀だよ。身の回りのことはなんでもできるはずさ」
「そうなんですの……」
リュドミラは神妙な面持ちでお茶を口に含む。
リンジーもお茶をぐっと飲み込んで、それから大きく息を吐き出した。
「いや早朝から三学の補講明けでね。頭が痛いよ」
三学とは、文法学、論理学、修辞学を差す。
これに算術、幾何学、天文学、音楽の四科を合わせて七学科と呼び、当世の知識人に必要とされる基礎的な教養とされていた。
聖ソラリスでは、三学が必須課程とされている。
加えて男子においては、残る四科についても修めることが暗黙の了解となっていた。女子はまちまちだったが、音楽が一番に、次いで天文学に人気があり、履修する者も少なくはなかった。
「補講とは言ったけれどね、これはウォルドロンの名誉のための弁明だが、もちろん考課で欠点を取ったわけではないよ。しかしその、万が一ということはあるだろう。
どうも私は三学が苦手でね。四科のほうが余程良いよ。……いや、算術は別だな」
リンジーが器用に眉を動かすものだから、リュドミラは思わず笑ってしまった。
「いやいや、だってあれは、どちらかというと三学に類するものじゃないか? あるいは、そう、天文も音楽もわからない男子のために加えられているに違いない。
リュドミラ嬢は――いや、いや! お父上はかの高名な宮中伯だった。算術も幾何もお手の物か」
「お手の物かはさておき、厳しく教え込まれましたから。私もロヴィーサも、苦労しましたのよ」
「ルイ君の聡明さには何度も助けられているよ。
しかしファールクランツの皆様はバレルと同じ武人の集まりだと聞いていたけれど、一体どうやって宮中伯のような方が出てくるんだい。鷹が鷲を産んだようなものじゃないか。うちは読み書きも怪しいような連中ばかりだっていうのに」
――この明け透けで大げさな物言いをする少女を、リュドミラは好ましく思った。
その話しぶりには、自らを下げて誰かを立てるときににじむ陰湿さがない。その場でひとしきり笑って、後に尾を引くものがないような、そういう爽やかさがある。
「あの……」
そんなリンジーに、リュドミラは声をひそめて、思い切った質問をした。
「ロヴィーサは、うまくやれているでしょうか」
「もちろん」
リンジーが即答する。
「しかしね。
なんというか、どうも彼女は自分に自信がないというか、自分自身を取るに足らない者だと思っているというか、そういうところがある気がするよ。
だから……引っ込み思案というわけでもないんだけど、周囲も自分のことをつまらないやつだと思っているだろうな、と思い込んでいるような向きがあるね」
「左様ですか」
思い当たる節が、ないではない。
「全然そんなことはないんだけどね。
彼女と仲良くなりたいと思っている人は、きっとたくさんいる」
「そうだと良いんですけれど」
他愛のない雑談が続く中で、ふとリュドミラの声が真剣味を帯びる。
「リンジー。
あなたって、この学園ではずいぶん顔が広いんですのね」
「ありがとう。――ふふ。
大丈夫だよ。貴族らしい前置きはいらないさ」
「あなたって、とっても素敵ね。
なら――バインリヒ殿について知っていることを教えていただけないかしら」
リンジーが声を落とす。
「まず申し訳ないが、私が彼について知っていることは、ルイ君と同程度さ。
うちは共学とはいっても、校舎も授業も、当然寮も男女で別れてる。とはいえ男女の交流は禁じられていないから、昼食や自習を共にすることはできる。でもそれっていうのは同郷の人間だったり、つまり、外から見て関係を疑われない者同士だからできることだよ。
つまり、私もルイ君も件の男子と直接話したことはない」
しかし、とリンジーが続ける。
「バヒンリヒ殿の取り巻き――もとい、行動を共にしているご学友。最近よく見かけるようになった女生徒が一人いる」
「女生徒……」
「そこに含む感情は余人の妄想の域を出るものではないけれど、聞いた話じゃあ滅法腕が立つと」
「腕が立つというのは?」
「そのままの意味さ」
リンジーは剣を振るうようなしぐさを見せる。なかなか堂に入っていた。
「バインリヒ殿は代闘士に彼女を立てるんじゃないかって、もっぱらの噂だよ」
「女性でしたのね」
イルマタルは腕利きの側近と言っていたから、てっきり自領の従士を充てるのだと思っていた。
「噂だけれどね。
女性に、それも自分の婚約者に決闘を挑むなんて喜劇でも見かけない筋書きだが、女性にすることで釣り合いでも取ろうとしたのかもしれない。
そんな彼女――ああ、名前はサラというんだが、彼女は突剣を修める同好会に属していてね」
「突剣。というのは、剣術の一種でして?」
「うん。そうだよ」
「へえ! それの、婦人の会があるんですのね。聖ソラリスは進んでますわ。
あら、すみません。話の腰を折ってしまって」
いやいや、とかぶりを振ってリンジーが続ける。
「その同好会をまとめている奴とは腐れ縁でね。
私自身はサラ嬢と面識があるわけではないんだけれど、顔を繋ぐくらいはできる。
どうだい?」
リュドミラの返事は決まっていた。
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