第4話 牡鹿の寮にて
〜前回までのあらすじ〜
キャスリーンがメンチを切った。
1
廊下を急ぐ女学生の影。
総髪を揺らしているのは、ロヴィーサ・ウル・ファールクランツだった。
急ぐといっても、聖ソラリス学園は非常時を除いて駆け足厳禁。ロヴィーサは今にも駆け出しそうになる足を懸命に抑えながら、現場へと急ぐ。
「ルイ君」
背中に掛けられた声に振り向く。
目に留まったタイの色と意匠で、反射的に上級生と判断し、足を止める。
同じ寮の五回生――ロヴィーサは三回生だから二つ年上――である、リンジー・バレルだった。
「ご機嫌よう、リンジー様」
「ご機嫌よう」
ロヴィーサより頭ひとつ分は背が高く、加えて言うならその差分はすべて腰より下に集約されている。肩甲骨までしかない挑戦的な短さの栗毛は織り込むように細かく編み込まれ、正面から見るとまるで少年のようだった。くるぶしまであるスカートが女子の制服として一般的な聖ソラリスにおいて、裾もやや短いように見受けられる。
「聞いたよ。騒ぎがあったって?」
リンジーはロヴィーサの前に進み出ながら、その腰を叩いて前に進むよう促す。
前にリンジー、後ろにロヴィーサという形で二人は早歩きを再開する。前後に並ぶのは、廊下を横に並んで歩くこともまた禁止されているからだ。更には私語も慎むようにとされているが、これはほとんど有名無実と化している。
「はい。それも校外の関係者だとか」
「それも聞いた。私も行くよ」
「ありがとうございます。助かります」
リンジーは寮内で特別な役職に就いているわけではないが、一時期は寮長の次席に当たる監督生候補として有力視されていたと、ロヴィーサは噂話に聞いている。それも倶楽部活動に重きを置くために本人が辞退を申し出たのであって、そうでなければ今頃寮長になっていたとも言われている。少なくとも、そのような噂がまことしやかに囁かれる程度には、このリンジーという少女は周囲の信頼を勝ち得ていた。
行動的で、こうした揉め事に慣れのあるリンジーが合流したことで、ロヴィーサは少し気が楽になった。一方で、もしかしたらその騒ぎの中心には実の姉がいるかもしれないということを思い出し、その場合はリンジーにどう申し開きをすべきかと暗澹とした気持ちになった。
(いや、姉様がそんな迂闊なことをするだろうか。
騒ぎを起こすとか、巻き込まれるとしても、それを収める算段は胸にあるはず。
向こう見ずな方ではない……)
しかし、嫌な予感がする。
自分の悪い予感は当たる。と、ロヴィーサは思う。良い予感が当たった試しは無いのに。
「おや。確かにあれは、うちの制服ではないね」
「そう――ですわね」
廊下の奥、その一角に人だかりができていた。
聖ソラリスの学生の他に、乗馬服のようなぴったりとした装いをした長身の女性と、彼女に庇われるようにして立つ黒髪の女性。ああ、あの射干玉の黒髪は。
「ルイ君?」
「リンジー様、その……」
ロヴィーサは口ごもりながら、しかし歩調はリンジーに合わせてずんずんと進んでいく。
そうこうしているうちに生徒たちがリンジーとロヴィーサに気づいた。
ロヴィーサのタイに入った一本の白線が、その素性、彼女が風紀委員であることを示している。リンジーは無役の学生ではあったが、その顔と人となりは広く知られていた。
リンジーがロヴィーサに前を譲った。
騒ぎの解決には一役買うつもりだが、風紀委員としての務めを奪うことまではしないということなのだろう。
ロヴィーサは考える。
この場合、何が正解なのかしら?
姉――リュドミラに話しかけるべきか。
しかしこの金髪の女性は誰なのだろう。大層美しい方だが。
いや今はそんなことを考えてる場合ではない。身内どうこうも置いておくべきだ。
「皆さん――」
これは一体何の騒ぎでしょうか、と続けようとしたロヴィーサ。その瞬間、金髪の女と目が合った。
「ポニテッ!」
ロヴィーサの言葉は、その女の叫び声にかき消されたのだった。
2
「その解釈は無かったけど解釈一致だった、ということを端的に表現できる言葉が無いことを歯がゆく思いますよ」
「キャスリーン。
外行きの振る舞いをしてくださる?」
一行はロヴィーサの寮の二階、来賓室に場所を移していた。
「暫定的にエウレーカ! にしましょうか」
「なにかとても不遜なことを言っていないかしら……」
二人はロヴィーサたちを前にして、普段と変わりない軽口を叩き合う。
ロヴィーサはどこか頓狂な様子の姉に困惑し、リンジーもまた奔放な二人の言動に面食らっているようだった。
キャスリーンは出されたお茶を遠慮なく飲みながら、来賓室を見回す。
「まさに寮って感じですね!」
「
「あれって寮っていうか、屋敷を並べただけって感じじゃないですか?」
「広さのことをおっしゃっているの?
確かに聖ソラリスは……二、三日過ごすには面白そうですけれど。でも年単位で過ごすには少々窮屈ではなくって?」
ねえ。
と、リュドミラは突然ロヴィーサに水を向ける。
「えっ……と、そうでもないよ。あんまり広いと寂しいし、移動も大変だし。牡鹿は良い人ばかりだから……楽しいよ」
「牡鹿?」
キャスリーンが首をかしげる。
「あっ、寮の名前です。この寮……私たちの寮の。ウォルドロンの黄金の牡鹿というのです。普段はみんな、牡鹿の寮と呼んでいます」
「寮の名前! ってことは、どの寮に入るか帽子で決めるんですか!?」
「ぼ、帽子? い、いえ。同郷会のよしみや家格、成績なんかを斟酌して決まっているそうですが、詳しくはわたくしどもは聞かされていませんの」
なぜかしょんぼりしているこのキャスリーン・エッジワースという女性。初対面にも関わらず、平気で姉妹の会話に入ってくる。それが不思議と、嫌ではない。
「我が牡鹿の寮は――」
黙っていたリンジー・バレルが口を開く。
「自由闊達を信条としていまして。良くも悪くも貴族としての作法にこだわりが無い者が多い。西方の姫様方の癇に障ったら申し訳なく思いますが、これも東の武辺者の血筋故と御寛恕願いたい。そういうわけで、不躾ながら本題に入りたいのだが――」
お、とキャスリーンが顔を上げる。
「私、この本題に入る前に世間話をするっていうやつ、どこで区切ればいいのかいっつもわかんないんですよね。えっとですね~」
「キャスリーン。わたくしが説明しますわ」
リュドミラが視線をやると、キャスリーンはにこにこと微笑みながら口を噤む。
「わたくしも東の血が流れておりますゆえ、畏まった自己紹介は省かせていただきますけれど、もう皆さんご存知の通り、彼女、ロヴィーサ・ウル・ファールクランツの姉、リュドミラ・エリ・ファールクランツですわ。どうぞよろしく。
こちらは同窓生のキャスリーン・エッジワース」
「どうも! ファールクランツ箱推し、キャスリーンです」
「箱、ですか?」
「気になさらないで」
リュドミラは訪問のいきさつを簡便に述べた。
「ふむ。ルイ君は良いお姉さんを持ったね。
しかしこの学園の騒動に家族とはいえ学外の人間を巻き込むことになってしまったことを恥ずかしく思います」
リンジーがこうべを垂れる。
「バレル様。どうか頭を上げなすって。
事の経緯をつまびらかに聞いたわけではございませんけれど、少なくとも貴女様に咎が無いことはわかっておりますわ」
「痛み入ります」
「てぇてぇ」
リュドミラの肘鉄がキャスリーンを打つ。
「それで、ええと、その。さっきの件は?」
と、ロヴィーサ。
そう、廊下の件についてはまだ何も聞いていない。
「あれはまあ……行き掛かりというやつですわ。
話を大きくしまってすいませんでした――ツァーリ様」
先ほどから黙って四人のやり取りを聞いていた褐色の少女、ファルザード・ツァーリ。
リュドミラは学園長に挨拶に行った帰り、往来で揉めている、いや一方的に因縁をつけられているように見えたツァーリを見つけ、割って入ったのだった。
その後はキャスリーンが乱入して場を引っ掻き回したのだが、リンジーとロヴィーサの計らいでその場はうまく切り抜けることができた。
「いいえ、とんでもないです。助かりました。
寮に帰ることができなくて……とても困っていたのです」
鈴の鳴るような声。
褐色の肌に、ひどく色の薄い、細い金髪。
シニヨンのように見えて、そうではない、おそらく南方独特の編み上げ方で長い髪をまとめている。ほどいたら腰のあたりまでありそうだ。
長い睫毛に、空色の瞳。
キャスリーンの瞳が夏空のように濃い青だとするならば、彼女の瞳は雲が混じったような薄い水色だった。
「どうかされましたか? エッジワース様」
「キャスリーンで構いませんよ。
失礼な話かもしれませんが、言葉がとてもお上手だなって。
私、南方に滞在していたことがあって、言葉も多少わかるんですけど、文法や抑揚の付け方がこっちと全然違うじゃないですか。そこの友人たちも中原の言葉は複雑だって言ってました」
「ありがとうございます。
婚約が決まってから、こちらに来るまで時間がありましたので、たくさん勉強しました。あ……婚約はもう……その……違うかもしれませんが……」
リュドミラの肘鉄がキャスリーンを打つ。今のは仕方無くないですか!? とキャスリーンが小さな声で抗議する。
「一体どうしてこんなことになったのか……。
いくら考えてもあの方のお心はわからないし……皆様にも大変なご迷惑をおかけして……恥ずかしい……不甲斐無い……」
3
「とにかくそのボニファーツ殿を調べないことには始まりませんわね」
「そうですねえ」
キャスリーンとリュドミラは客室に戻ってきた。
今にも泣き出しそうだったツァーリを前に沈黙する他なかった四人だったが、頃合い良く六時の鐘が鳴った。
もうしばらくすると夕餉ですね、とリンジーが切り出し、その場は解散になった。キャスリーンは寮生たちとともに食堂に向かいたがったが、どうやら彼女が想像している食堂とは違っていたようで、また肩を落としていた。
彼女の言う寮や食堂、あるいは学校の形式というのは、あまりにも先進的で、合理的で、無駄が無い。それは貴族の慣例だとか、人々の既得権だとかをまったく考慮していないもので、リュドミラはときどきおそろしくなる。
彼女の正体について、リュドミラは時々、本当に時々……突拍子も無い想像をすることがある。けれどそのことを、本人に問い質したことはない。何もかもが明らかになったそのとき、脈絡もなく、ふっとキャスリーンがいなくなってしまうような、そんなおそろしい予感がするからだ。
「問題はツァーリ嬢がボニファーツ某に未練が残ってるってとこですね。あれはそもそも決闘をする気が無い」
リュドミラの心配をよそに、キャスリーンはあれこれと思案していることをそのまま口に出す。
「ですわね。ボニファーツ殿の慰めになるならご自身が決闘に散っても構わないような……そんな気配までしましたわ」
「ですねえ。
そういえば廊下で私が手袋を受け取ったあの娘――どうしますかね」
「どうしますか、とは?」
キャスリーンは少し考え込む風にして、女中の淹れたお茶を一口飲む。
「決闘は……しないんですかね?」
「向こうから出てこない限りは、無視してしまえばよろしいかと思いますが……」
これは妹さんたちには言うべきではないと思いますが、と前置きをしてキャスリーンが続ける。
「立会人が引き分けを認めた以外の決闘で、相手を生かしたことはありません。私は」
予期していたことではあるが、それでもリュドミラは息を呑む。
「もしあの娘が代闘士を立ててあらためて私に決闘を申し込むようなら、私はそいつを――つまり、これまでと同じように、します。
決闘には決闘の信義があり、神がいます。過去に私の糧となった者たちに顔向けできないような真似をするつもりはありません。
リュドミラ、このことはどうか理解してほしい。私は戦士なんだ」
「承知しました」
リュドミラは先程の動揺などまるで無かったような様子で、恭しくうなずいた。
「あなたのその態度を踏まえて――今回は一体どんな形で事を納めようと思ってらしたの?」
このキャスリーンという女は、荒事の御し方については滅法頭が回る。
「ボニファーツの代闘士を打ち負かしたうえで、ボニファーツ側にいくらか金貨を積ませればツァーリさんの面目も立つと思っていましたが……」
ううむ、とキャスリーンが首をひねる。
「貴族同士の決闘というのは難しいですからね。そもそもツァーリさんのご実家が今の状況をどの程度ご存知なのかとかは、最低限聞き出したかったんですが……」
「あの様子だと、何も伝えていない可能性はございますわね。決闘を申し込まれたこと自体を
「かもしれません。
そういや私が代闘士として決闘を引き受けに来たってことも話せずじまいでしたね」
「聡そうな方でしたから、私たちがその件の介添人だということはお察しになられたと思いますけど、まさかあなたが代闘士そのものだとは思っていないでしょうね」
ふう、と二人は嘆息しながら茶を啜る。
「ま、腰を据えて掛かるしかありませんか。
リュドミラ、明日はちょっとこの学校を見て回るつもりなので、別行動でお願いできますか?」
「あら」
珍しい申し出だった。
「何かご用事でもあったかしら?」
「ボニファーツ側の代闘士というのがどんなものかというのは調べておかないと」
「ああ。それはそうですわね」
思えば当たり前のことではあった。
キャスリーンは誰が相手でも気に留めずやっつけてしまいそうな雰囲気がある。
それを正直に伝えたところ、苦笑が返ってきた。
「死なない戦士というのは運と用心深さを兼ね備えているものです。どれほど強い戦士でも、この二つがないと死にます」
「そういうものですか。
なんだかあなたと話していると、たまに実家のお爺様と話しているような気がしてきますわ。……いえ、あの、お歳を召されたように見えるとか、そういうことではないんですけれど。私ったら、その」
「光栄なことです」
キャスリーンはにっこりと微笑んだ。
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