第2話 決闘裁判
「ファルザード・ツァーリ嬢!
本日このときを以て、貴女との婚約――破棄させていただく!」
美しいテノールが耳朶を打つ。
その声はどんなときでも、ツァーリの胸の奥深く、自分でも触れられない体の芯のような部分をざわつかせるのだ。
だからその声が悲しみに暮れていても、怒りに震えていても、ツァーリは感激して、微笑みそうになったり、あるいは泣き出しそうになったりしてしまって、相手の態度と噛み合わない。そのせいで、『あなたはなんだか、ちぐはぐしているなあ』と笑われたことを思い出す。
今の自分はどんな顔をしているだろうか。
この人は、どんな顔をしてほしいと思っているんだろうか。
苦しめと思っているのなら、苦しみたい。
泣けと思っているのなら、いくらでも涙を。
笑えと言うのなら、この胸いっぱいの歓びを。
けれども自分は不器用だから、きっとまた噛み合わない。
そうしたらまた、おかしな人だと笑ってくれないかしら。それはもう、過ぎたる望みなのかしら。
せめて、あなたの
1
「婚約破棄、ですか」
学校に帰る馬車。その車中。
「それで私は、どの男の首を塩漬けにしてご覧に入れればいいので?」
「それでじゃないですわ。
物騒な冗談はおやめになってくださいまし」
「冗談……?」
「なんですのその真顔? ……ちょっと、口許だけで笑うのはよしなさいな。かえっておそろしい顔になってますわよ。
あの、いったん落ち着きましょう。首の話は置いておいて。私の話でもありませんし」
「おや。これは早合点でした。失礼をば」
リュドミラ自身、件の《影》の事件をきっかけにいくつかの縁談が白紙になったのだが、そのことはきっと言うまいと心に誓った。
「従妹――イルマタルの学友の話です」
イルマタルの同窓生、ファルザード・ツァーリ嬢が婚約破棄を宣言された。
相手は同校、聖ソラリス学園に通う男子生徒、ボニファーツ・バインリヒ氏である。
「いとこ殿、聖ソラリスってところに通ってるんですね。あれ、そういえば我々の学校ってなんていうんでしたっけ……」
「あなた、今さら……。
名前はありませんわよ」
「ない?」
「我が国の王立学校はあそこだけですから。ゆえに、無い。
それ自体が箔のようなものですわね」
婚姻とは家同士を結びつけるものであって、その決定権は家長にある。
そのため婚約を反故にするというのを子供同士で勝手に決められることではないし、ましてやそれを一方的に成立させることもできない。
ところがボニファーツ氏は高齢の父に代わってバインリヒ家の差配についてかなりの裁量を任されており、家の決定を彼個人が左右できるという実態があった。
若人の暴走というには、彼の言行は力を持ちすぎている。一方、ツァーリ嬢との婚約自体はやはり親同士が整えたものであったため、話がややこしくなっていた。
「ツァーリってこの辺りじゃ珍しい名前ですね」
「ええ。南方のご出身だとか」
先の通り、婚約破棄は一方的に通告できる素性のものではない。
しかしボニファーツ氏は婚約破棄の理由を「バインリヒ家に対する著しい侮辱行為」としており、またそれを
「決闘?」
「ええ。決闘」
決闘。
身命を賭して自らの名誉を証明する、いわゆる果し合いである。
裁判でその判決を不当とした被告や、証人や証拠が不十分で決着のつかない場合に、このような催しが執り行われる。
「この国は決闘は禁止令が出ていたはずでは?」
近年、司法制度が整うにつれ決闘は禁止された。
「それはそうです。ですから、法的拘束力のあるものではありません」
とはいえ、申し込まれた決闘を断ることは不名誉なこととされていた。ゆえに決闘という文化自体は残っているのが実情だ。
これを行ったものは刑罰の対象になるが、実際に決闘を行うものは貴人が大半のため、目をつぶられている。
「学生同士のお遊びみたいなものですわ。決闘裁判というのも然り。聴衆を前にあらためて白黒はっきりさせたい……そういうことでしょうね」
ふむ、とキャスリーンが首をかしげる。
「キャスリーンのおっしゃりたいことはわかりますわ。そもそも婚約だとか、それを破棄するといったことを、家を介さずに決めていいのか。
ですからそういうのも引っくるめて子供のお遊び、と申し上げています」
「ははあ。よくわかりました。
しかし侮辱というのは……」
あごを撫でるキャスリーン。
察するに、とリュドミラが話し始める。
「ファルザード・ツァーリ様のご実家は織物で財を成した商家で、大ラタンを行き来する船舶を個人で何十隻も保有しているほどの御大尽だそうです。ただ――ご出身がご出身ですから、爵位はお持ちにならない。
一方のバインリヒ家は、ラターニア成立以前までも血を辿れる由緒ある伯爵家。ところが近頃は踏み込んだ農地経営がうまくゆかず、少々苦労されているご様子」
ファルザードは、名誉が欲しい。
バインリヒは、金貨が欲しい。
「つまり、そういう婚姻ですわね」
「そういう?
でも子供同士が結婚したからって、実家が貴族になるわけではないですよね」
「ええと……」
リュドミラはあまり明け透けに物を言うのもどうかと思いつつ、はっきり説明せねば伝わらないだろうと、少々声を潜めて続けた。
「お二人の間に御子が生まれましたら、次男か三男をツァーリ様の御実家に形ばかりの養子に出します。その子供はファルザードとバインリヒの両方の相続権を持ちますから、バインリヒ家の領地を割譲して、爵位を相続させる。するとファルザードの家系図にも青い血の名前が書き込まれます」
「おお~!」
キャスリーンの頭に、どこか遠い記憶の中の、学歴ロンダリングという言葉が浮かんだ。
侮辱ということですが、とリュドミラが続ける。
「傍から見ればバインリヒ家が御家のために爵位を売ったことは明々白々――表立ってそのようなことを申す者はおりませんが。けれども、ファルザード・ツァーリ様は市井の御方と聞きました。命よりも面子を尊ぶ我々の因習を知らず、角の立つ物言いをしたとしても致し方ないこと」
まったくぴんと来ていないキャスリーンのために、リュドミラは説明を続ける。
「例えばですわよ。
バインリヒ家の御嫡男と婚約しているなんて羨ましい限りだ、とツァーリ様が言われたとします」
「はい」
「これに『うちなんて多少
「はい」
「これはバインリヒ家に対する侮辱に当たります」
「ええっ!?」
「自分の家に貯えがあるからバインリヒ家は誼を結ぼうとした、即ちバインリヒ家は金に目が眩んだのだ、と申したのと同義ですわよ」
「えぇ……じゃあ正解は?」
「控えめに微笑んでうなずく、が無難ですわね」
「むっず……難しすぎません?」
「難しくありませんわよ。《余計なことを喋らない》のは上流の鉄則です。
キャスリーンも返答に窮したらまずは笑って、何も言わないことです。
相手が良いように解釈してくれますし、そうでなくても後でどうにでも弁明できます」
キャスリーンは腰に差した短剣を鞘ごと手に取り、刃を僅かに引き抜くと、その鏡面に向かって微笑んでみせた。
練習のつもりだろうが、しかしなぜそこで白刃が出てくるのかとリュドミラは大きく息を吐いた。
「実際にツァーリ様との間にどのようなやり取りがあったのかは定かではありませんし、これ以上は陰口になってしまうのでよしますが、ともかくとしてボニファーツ様はかなりの辣腕と聞きますわ。
ですから爵位を売るような真似をせずとも御家の財政は立て直せると思っていらしても不思議ではありません。
親の決めた婚姻を撤回する機会をうかがっていたのかもしれませんわね」
「ふむ。
それで――従妹殿の相談事というのは何だったんです?」
「それはまあ……」
リュドミラは言葉を濁しつつ、昨日のやり取りを思い出していた。
2
イルマタルから事と次第を聞き終えたリュドミラが肝心の相談事について問い質すと、話は決闘裁判に戻った。
婚約者同士――ボニファーツにとっては元婚約者同士――で決闘を行うという、いかにも物語然とした筋書きが描かれようとしているところだったが、ボニファーツは代闘士を立てるという。
代闘士とはその名の通り、果し合いを代理する決闘者のことである。かつては病人や女性が代闘士を立てることを許されたが、近代において、どのような人物でもこれを立てることを認められている。
ボニファーツは側近とも呼べるような、彼の派閥に属する腕っ扱きの学生を代闘士に立てる意向のため、尋常においては、ツァーリもこれに相当する代闘士を立てることが必要になる。
ところがツァーリはそもそもこの決闘に消極的なうえ、外国から留学という形で聖ソラリスに在籍している経緯もあって、現地の友人がそう多くはない。代闘士に立ってくれそうな同窓の知り合いなどいるわけもないのだ。
ツァーリ自身がやっとうを握って打ち合うという選択肢もありえないため、このままでは不戦勝という形で一連の騒動には決着が着く。結果、ツァーリはバインリヒ家を侮辱したということを真実として聖ソラリスでの日々を過ごしてゆくことになる。いたいけな婦女子に決闘を申し込んだということで被るボニファーツの悪名を鑑みると、痛み分けとも取れるが。
イルマタルはボニファーツとはほとんど面識はなかったが、ツァーリとは同級生であり、一応の交友はあったため、彼女の境遇に同情する向きは多分にあった。
とはいえ自分にもそうした知り合いはいないし、ましてやイルマタル自身が一流の剣士というわけでもない。
「姉様。
家柄が悪くなくって剣の扱いに長けてできれば女性でツァーリみたいな人見知りの子ともすぐ打ち解けられそうで、そのうえこんな無茶な決闘を引き受けてくれそうな御友人、いらっしゃらない……?」
無茶苦茶な話である。
「そんな人いるわけ……ない……でしょう……」
いるわけがない。
「やっぱりそうよね~。
でも姉様の頼みだったら代闘士なんて大変なこともホイホイ引き受けてくれそうな方が御友人にいてもおかしくないかなって思ったのよ。なんとなく」
「そんな人いるわけないでしょう」
リュドミラは食い気味に答えると、香草茶をぐっと飲み干した。
大よその話はこれで終わった。
リュドミラはこの件ついてこれ以上口を出すつもりはなかった。イルマタルの友人とはいっても所詮は他家のこと。対岸の火事に手出しして火をもらうことがあってはならない。
ところがその晩、もう一人リュドミラを訪ねる者がいた。
「リュドミラ様。ロヴィーサ様が」
「ルイが? こんな時間よ? ともかく通して」
既に寝支度を整えつつあったリュドミラは、応接室ではなく私室に通すよう女中に促した。
「姉様」
「ルイ。どうしたのこんな遅くに」
ロヴィーサ・ウル・ファールクランツ。リュドミラの実妹である。
イルマタルと同い年で、同校、聖ソラリスに通っている。
リュドミラや彼女の母と違い、髪の色は赤く、癖のない直毛。
同年代と比べて小柄で、手足もスリムというよりは些か細すぎる。垂れたまなじりと相まって、どこか頼りなげな印象があった。
「どうしたのってこともないけど。
あの、今朝、来てるって聞いたから」
全体的にろくな要件でもなかったのでロヴィーサには告げず、かといってイルマタルに口止めするのも話がややこしくなりそうなのでよしたのだが、どうも彼女の何でもかんでも周りに話すという癖を見くびっていたらしい。
「そう。ありがとう。
でも随分遅いのね? 何かあったの?」
咎めているわけではないわよ、とリュドミラは言い添えた。
「少し前に、寮の風紀委員になったんだ。それで忙しくて」
「風紀委員? すごいじゃない」
聖ソラリス学園では出身地方をはじめとした様々な判断要素に基づき、学生たちがいくつかの寮に割り振られる。学校自体が自主自律を校訓として掲げているため、学校行事などもこの《学生寮》を軸に執り行われることが多い。
その都合上、寮内での家族的な結びつきは強く、寮長は家長的な側面を持ち、権限は大きく、裁量は広範に渡る。
寮長の下にはいくつかの委員会というものがあり、寮の組織運営に携わっているが、中でも風紀委員会の存在感が大きい。歴代の寮長は風紀委員長から輩出されるという慣例があるためだ。
したがって若干名の員数しかない風紀委員に任命されたというのは、大変名誉なことである。
「おめでとう。
でもどうしてもっと早く言わないの。
私、ルイが風紀委員になるなんて、誇らしいわ」
そう言うリュドミラに、
「押しつけられただけ……大したことじゃないよ。
それに、委員になったっていうだけだよ。
委員として、何かしたわけじゃない。
それを自慢したって、恥ずかしいだけだよ」
という返答があった。
それからロヴィーサが遅めの夕食を取り、湯浴みを済ませ、久しぶりに同じベッドで眠るそのときまで、積もる話は続いた。ほとんどがリュドミラの質問にロヴィーサが答えるという形だったが。
その中で、ロヴィーサと件のツァーリ嬢が同じ寮に暮らしており、風紀委員として件の決闘にどう落とし前をつけるか頭を悩ませているということを知ったのだった。
3
「ははあ。
闊達な妹分と、生真面目な実妹、ですか――」
「ええ。……ちょっと、キャスリーン?」
素人は黙っとれ――そういう顔でキャスリーンは瞑目していた。
「失敬。
しかしあれですね、妹さんはすごいですね」
「ありがとう。
でも、真面目すぎますわ。もっと無邪気に喜んでもいいのに。
一体誰に似たのかしら?」
「それは……え? 本気で言ってます?」
「はい?」
そういうわけでリュドミラもまた頭を悩ませていたのだった。
風紀委員として事態を収めるには事が大き過ぎる。しかしロヴィーサはあの性格だから、放っておいたらあらぬ方向に覚悟を決めて、何かしでかしてしまうかもしれない。
「父に相談すれば、手を出すなと言われることは目に見えています。
寮長や委員なんていうものは、後々社交界で生きていく中では取り立てて役立つこともない虚名だと断じるでしょうから。
それはあの子もよくわかっています。だからあの子は一人で何とかしようとする……」
「では、私が」
ふうっと息を吐いて顔をあげたリュドミラに、キャスリーンが告げる。
リュドミラが笑う。
「まだ、何もお願いしていませんわよ」
キャスリーンも笑う。
「私がお願いしているんです」
「キャスリーンが?」
「はい。あなたの力になりたい」
リュドミラの唇がわずかに動いて、しかし真一文字に引き締められる。
「あなたって本当に……」
「今のは格好つけすぎました」
「格好をつけて格好良い人って、ずるいわ」
二人は笑った。
4
聖ソラリス学園。
その学舎の一角。
まずいことになりましたわ、とリュドミラははしたなくも小さく舌を鳴らした。
目の前の女は今にもその白い手袋を抜き取り、自分に投げつけてきそうだ。
受けるか、受けまいか。
いや受けないという選択肢はない。それは貴族の作法ではない。
彼女の――引いてはボニファーツの取り巻きに囲まれてしまっている現状、有耶無耶にすることも難しそうだ。
かくして白い手袋は女から放たれ、緩い放物線を描きながらリュドミラに向かい――その中空でキャスリーンがキャッチした。
一同の頭に疑問符が湧いた。
「キャスリーン?」
「この喧嘩、私が買いました」
キャスリーンは絹製の手袋を紙でも裂くように易々と引き千切ると、破片を放り投げた。
「キャスリーン!?」
それから親指を突き立て、自分の首を掻くような真似をし、最後に親指を床に向け、無惨に散った手袋を指し示した。
「おまえもすぐにこうなる」
「キャスリーン!!」
完璧な蛮人の作法を披露したキャスリーンに、その場は騒然とした。
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