第1話 流民街のドロテア(後編)

 7


 キャスリーンいわく。

 客を取れた女、取れなかった女がいる。

 客にしても、朝日を拝まずに夜霧に紛れて家路を急ぐ者、共に夜明けを迎える者、様々である。

 しかしいずれにせよ、置き屋の女はこの時間、束の間の自由を得る。

 食事を摂り、身の回りのことを済ませ、昼前には眠り、黄昏に目を覚ます。

 自分が男であれば一晩を共にするのが手っ取り早いが、そうではないからこの時間しかないという。


「よ、夜討朝駆けは兵法の基本と言いますものね」


 混乱してわけのわからぬことを言うリュドミラ。


「そ、それでそのドロテア何某はつまり、し、娼婦の方ということなのかしら」

「わかりません」


 キャスリーンは肩をすくめる。


「わからない?」

「はい。

 ぼかされるんですよね。

 ドロテアというのがどんな人かって聞くと。

 口止めとかされてるのかな」

「口止め……ですか?」

「ドロテアがというか、私たちがというか。

 私もだいぶ身綺麗になってしまったので、貴族か、その使いかって当たりをつけられているんだろうなとは思うんです。

 そのドロテアって人の仕事ぶり次第では、貴族を避けるのも止む無しですが」

「どうして?」


 貴族と渡りがつくというのは、幸運なことではないのか。

 何事においても金払いは良いだろうし、いわゆる上客というものではないのか。


「私も路銀を稼ぐためにあれこれと仕事をしたものですけど、貴族っていうのは手切れが悪いんです」


 まるで自分が貴族であることを忘れているような口ぶりである。


「難癖つけて金を出さないとか、値切るとか、やれ気に入ったとかで子飼いにしようとしてくるとか、たちの悪いことに、そういうことが罷り通ると思っていることなんですが。

 だから私も貴族と直接の渡りをつけるっていうのは、次第に避け始めました。利ざやを取られても、口入屋を挟みます」

「口入屋?」

「ええ。

 手配師とか、国や街で呼び方は様々ですけど、仕事の仲立ちをする連中がいるんです」

「そうなんですの」


 とはいえ、とキャスリーンはあごをなでる。


「娼婦ではない気がしています。

 ドロテアって名前は珍しくもないですけど、男でも女でも、ぴんと来ている連中が多かったし、女性からの口ぶりも悪くはなかったですから」


 意味を図りかねたリュドミラに、キャスリーンが微笑みかける。


「娼婦、ということをどう思いますか?」

「どうって――」

「それと同じ感情を、流民街このまちのそうでない女たちも、きっと持っているんですね」


 それから二人は朝帰りの娼婦たちをつかまえては話を聞いた。

 とはいえ話を振るのはキャスリーンである。リュドミラはこの界隈で自分がどのように振る舞うべきか未だに決めかねていて、キャスリーンの後ろにじっと控えているだけだった。まさしく貴人とそのお供という構図で、リュドミラは我ながら呆れた。まったく馴染めていない。

 そんな風だから、胡乱な目で見られる。

 ところが実際にキャスリーンが声をかけると、不思議と話を聞いてくれる女のほうが多かった。

 距離の取り方、声色、話しぶり。親しげで、しかし不躾ということもない。

 リュドミラはあれこれと理由を思い浮かべたが、それですべてを説明できない。説明できない何か、人を惹きつける魅力があるのだ、この少女には。






 8


 だいぶ奥まったところまで来た。

 あれから幾人かの住人たちに当たるうちに、ようやくドロテア何某――を知る人物、ファングという男がねぐらにしているという店を押さえることができたのである。


 リュドミラは空気の澱みを感じた。

 澱みといっても、日当たりが悪いとか、目に見えて景観が変わったとか、そういうことではない。

 それでもどこかうらぶれた、言うなればリュドミラがもともと想像していた流民街の雰囲気に近いものを感じる。

 すれ違う人々の目も、二人を刺すようだった。


 しばらくして、くだんの店らしい場所に行き着いた。

 看板代わりか、ジョッキの図画が刻まれた銅板が店のひさしに掛けられている。酒場なのだろう。

 軒先には丸椅子に腰掛けた男がいた。

 俯いた男は前掛けをして、手元で何やら細かい作業をしている。

 よくよく見れば、どうやら芋の皮を剥いているようだった。


「もし」


 キャスリーンの声に男が顔を上げる。

 肩甲骨のあたりまで乱暴に伸びた灰色の髪。

 頭頂部にぴんと立った、毛に覆われた、尖った耳。犬や、狼のそれに似ている。

 琥珀色の瞳は、陽の当たり具合によっては金色に見えた。

 なるほど、狼は金眼を持つというが、その通りだとリュドミラは思った。

 端正な顔立ちをしているが、口はやけに大きい。

 がっしりとした体格で、背丈もリュドミラの頭二つ分は大きく、成人男性の平均に比しても大きい部類だろう。


「なんだい」


 思いの外、若い声だった。

 黙っているときは、野卑な佇まいであったが、こうして口を開くと、どこか愛嬌がある。

 開けた口腔には、鋭い犬歯が見えた。

 リュドミラはファングという言葉が、古語で牙とかあぎとを意味することを思い出した。


「ファングという人を探しているのですが――あなたのことでしょうか」


 キャスリーンも同じことに思い至ったらしい。


「そうやって呼ぶやつもいる。

 けど、どうかな。俺かな」


 ファングは興味が無さそうに皮むきを再開した。


「少々お話をうかがいたいのですが」

「これやりながらなら、いいぜ」


 キャスリーンとリュドミラは頷き合うと、手近な場所に腰を下ろそうとした。

 そのとき、


っ! 見つけたぞっ」


 通りの奥から、鋭い声が走る。

 いま、ドロテアと言ったか。

 キャスリーンとリュドミラが目を合わせるのと同時、ファングはすぐに立ち上がると、前掛けをその場に放った。


「おうおうおう。

 お嬢さん方、ちっと野暮用だァ。

 また今度」


 言うや否や、身を翻してあっという間に路地の向こうに駆けて行ってしまった。

 呆気に取られているリュドミラの肩に、キャスリーンが手をかける。


「追いましょう」

「はい? ――ち、ちょっ」


 キャスリーンはリュドミラを抱え上げると、ファングが消えた路地の向こうへと駆け出した。






 9


 ファングは凄まじい速さで路地を駆け抜けた。

 それだけではない。

 瓦礫を飛び越える。

 庇に跳び上がって屋根から屋根に渡る。

 猫のようなしなやかさで、奥まっては道が細まり、迷路のようになりつつある隘路にあって、これをほとんど直線に進んでいるのだ。

 しかしキャスリーンも負けてはいない。

 リュドミラを抱え上げたまま、こちらもこちらで、ましらのような俊敏さでファングの背中を捉え続けている。

 ファングはキャスリーンの追従に気づくと、一度だけ振り向いてひゅうっと口笛を吹いた。

 抱えあげられているリュドミラは気が気でない。

 キャスリーンのことだから滅多なことはなかろうと思いながら、しかし万が一振り落とされでもしてしまったら、どうなるのか。

 先行するファングが跳ね回るたびに樽やら木箱やらを壊したりひっくり返したりするので、心臓に悪いのを助長している。


「キャスリーン、すごいわ……」

「いえ。彼、なかなか紳士ですね」

「え?」

「私たちに合わせてくれてます」


 これでか、とリュドミラは絶句した。


 先を行くファングが足を止めた。

 キャスリーンは物々しい雰囲気に気づくと、それ以上は距離を詰めず、リュドミラを降ろした。

 見れば、男女が何か言い争いをしている。

 いや、言い争いというよりは、女が数人に男たちに一方的に詰め寄られているのだ。

 女は真っ青な顔で短剣を握り締め、ぶるぶると震えながらそれを突き出している。


「待った! 待った!」


 ファングはよく通る声をあげながら近づいていく。

 男たちは彼の登場に緊張を和らげ、女は新たな闖入者に益々肩の震えを強くしている。


「彼女かい? やられたのは青鹿亭だって?」

「おう。売上根こそぎだとよ。

 親父も脱南者ってのは知ってて雇ったんだ。

 それをこいつ、仇で返すような真似しやがって」


 女の肌が浅黒い。

 出身が南方であることを示していた。

 いかなる事情があったかは知る由もないが、亡命してきたのだろう。


「来ナイデ!」


 悲鳴のような声があがった。

 南部の混じりが混ざって実に聞き取りにくいが、その意味するところはすぐに理解できた。


「多勢に無勢ってのがわかんねえのか」


 男の一人が苛立った様子で一歩進み出る。

 女はヒッと声を詰まらせると、白刃を自らの首筋に押し当てた。

 その様子を視界に捉えたキャスリーンは、反射的に姿勢を低くした。

――今この瞬間飛び出せば、無傷で取り押さえられるかもしれない。

 それは思考とも言えない本能的な判断で、事実、体の筋肉は一足目を踏み込むための収縮を既に行っていた。


「よせよせ」


 果たしてその言葉が女に向けられたものなのか、キャスリーンに向けられたものなのか。

 ともかくとしてファングの声でキャスリーンは水をかけられたように体を硬直させた。

 ファングは両手を挙げた状態で、のろのろと指呼の間を詰めるように女に近づく。

 それからどっかと地面に腰を下ろし、あぐらをかいた。


「店の金に手をつけたって?

 あんた、なんでそんなことしたんだい」


 誰何するような声色ではなかった。

 酒場で隣り合った見知らぬ酔客同士が喋り始めるような調子だ。


「親父も一国一城の主とはいえ、掃き溜めのネズミにゃ変わりあるめえ。

 給金なんぞ雀の涙ほどだったろうが、人間、寝る場所とその日のパンがあればどうにかこうにか生きてゆけるもんさ。

 そうじゃねえかい?」


 女は答えない。


「ところで自己紹介がまだだったが――この界隈じゃ、俺はファングって呼ばれてる。

 ドロテア・〝ファング〞・キーンってんだ。

 よろしくな」


 リュドミラは目を丸くした。

 てっきりこの女がそうなのかと思っていた。

 あの「見つけた」という声は、ドロテアを見つけたのではなく、女を見つけたことをドロテアに知らせていたということか。


「どうでい?

 ドロテアってのは、なかなか色っぽくて良い名前だろう」


 そう。

 ドロテアというのは普通、女性の名前だ。


「俺ァ色街通りの生まれでね。

 親父が誰だかは知らねえ。

 母親は置き屋の女たちみんなさ。

 誰が生んだかはついぞ知らされなかった。

 けれどみんながみんな、俺を手前のぼうずのように育ててくれた。

 ドロテアってのァその連中がつけてくれたんだ。

 色街のガキってのはよ、小僧だったら体が出来上がる前に散々扱き使われてトオを数えずに死んじまう。ところが女はいつか客を取れるようになるってんで、それなりに食わせてもらえんのさ。

 そんなもんで俺はドロテアって名前をもらって、声が変わるまではスカートだのなんだのと、ひらひらしたのんを履いて暮らしてたってわけだ」


 何が面白いのか、声をあげてドロテアは笑う。


「だからよ、ドロテアってのは〝生きろ〞って意味なのさ」


 ひとしきり笑ったドロテアが一言一句、丁寧に言った。


「生きろ、生きろ、生きろ、きっと生きろ。みんなにそう言ってもらったんだ。

 瘡毒で逝っちまった母さんも、狒々爺に買われてった母さんも、みんなみんなだ。

 みんなして、俺に生きろと言った。

 だからドロテアって名前を思い浮かべるとよ、生きるぜって気持ちが、体の底のほうからむらむらっと湧き上がってくるのさ」


 女は、じっとドロテアの話を聞いていた。

 男たちも、キャスリーンも、リュドミラも、そうだった。


「なあ、良い名前だろう。

 あんただったら、子供にはどんな名前をつける?」


 ドロテアは目をつむってうーんと唸る。


「ドッドッドッ。あんたの胸から聴こえるね。

 心の臓だ。まだ緊張している? まるで早鐘だ。

 もうひとつ。

 トクントクントクンってな。

 あんたのハラの中からだ。

 小っちぇえな。でも力強いぜ」


 女がはっと息を呑む。


「二人分の食い扶持を稼ぐのは難しいし、身重の体じゃあ、いずれ放逐されると踏んだか。

 その体で国境を越えて来たんなら、さぞや大変な旅だったろう。

 あんた、立派なお母さんだなあ」


 女はそこで緊張の糸が切れたのか、わっと泣き崩れると、その場にへたり込んだ。


 しばらくドロテアがその背中をさすってやり、落ち着いた女は、しかし取り返しのつかないことをしてしまったとさめざめ泣いた。


「そいつは道中、俺がはしゃぎ回って滅茶苦茶にしちまった道やら店のことかい?

 そうだよなァ。あんた一緒に謝ってくれるかい? ついでにみんなに挨拶しようぜ。

 赤ン坊はみんなで育てりゃァいいさ。腕の良い産婆だって知り合いにいるからよ」


 このような次第で、この場は収まった。


「何か用があったんだろ?

 でも悪ィな。ちと今日は遠慮してくれるか」


 キャスリーンとリュドミラにはこれには納得して、今日のところは解散ということになった。

 渡りをつけることはできたので、後日話を聞けるだろう。


 供回りと合流するための道すがら、珍しくキャスリーンが苦い顔をしていた。

 リュドミラが水を向けると、やはり珍しく溜め息をついた。


「私が力づくで取り押さえていたら、お腹の子がどうなっていたかわかりません」


 なるほど。

 しかし、あの状況で一体何ができたというのか。

 ドロテアの耳が特別良いのは、人種的な特徴によるものだろう。

 とはいえ、それを言っても詮無いことだ。

 リュドミラは曖昧に相槌を打つのに留めた。






 10


「応接室でイルマタル様がお待ちです」

「着替えたら向かいます」


 リュドミラは人知れず嘆息する。

 帰ったばかりで一息入れたいところだったが、この予定を入れたのは自分だ。


 イルマタル・サリ・ファールクランツ。

 リュドミラの従妹――叔父の娘である。

 キャスリーンと流民街をおとずれるに当たって、あらかじめこの予定を入れておいた。ここ数日、学校を留守にしていたことが実家に露見した場合、その言い訳に使うつもりだった。

 従妹殿の相談事というのも、一応は聞いてやらなければならない。

 とはいえ、正直に言えば、リュドミラには頭を整理する時間が必要だった。

 流民街の実態。

 移民問題。

 ひょんなことから飛び込んだ界隈だったが、とんだ社会勉強になった。

 これはもしかして、自分の価値観というものが大きく転換するかもしれない事態なのではなかろうか。時間をかけ、ゆっくり丁寧に、かつ、胸の裡に残るこの熱が冷え切らないうちに、消化しなければならないのではないか。

 従妹殿も、どうせ一方的にまくし立てて、話したことですっきりして、ろくにこちらの反応なんて気にしてやいないだろう。

 そんなことを思うものの、しかしそれでもわざわざ自分を頼ってくれているのだから、


(無下にはできない)


 リュドミラはどこまでも真面目な少女だった。


 応接室には、髪と瞳の色だけでいえば、リュドミラにそっくりな少女がいた。

 四人掛けのソファにもたれるように、つまり少々だらしない姿勢で座っている。


「リューダ姉様!」


 そのだらしない格好のまま、イルマタルは人懐っこい笑顔をリュドミラに向ける。

 イルマタルはリュドミラよりひとつ年下だ。

 が、それ以上に離れて見える。

 リュドミラが老成しているのか、イルマタルが幼いのか。おそらくはその両方である。


「イルマ……」


 この一瞬の間に、様々な思いがリュドミラの胸に去来した。


――流行りか何か知らないけれど、やたらと髪を巻きたがるのはよしなさい。極端に真っ直ぐな髪質のあなたにはもっと似合う髪型があります。

――もう学校が終わっているのだから、課外を制服で過ごすのはおやめなさい。制服で王都を歩くのが年若い人たちの間で流行っているのは承知していますが、それよりも大事な品位があります。

――室内であっても、私室以外で無闇に靴を脱ぐのはおやめなさい。ましてや使用人が立つ場所です。みだりに足を晒さないように。

――そもそもそんな風にだらっと座ってはいけません。同じファールクランツの家とはいえ、あなたは曲がりにも客分として当家を訪ねているのですよ。


 そうはいっても、親にも告げず、流民街に出入りをしている自分のほうが、素行という観点では余程悪いのではないか。

 そう思い、リュドミラはいくつもの言葉をぐっと飲み込んだ。


「……………………ちゃんとしなさい」

「は~い」


 イルマタルからは、実に軽い返事があった。


 イルマタルの話は多岐に渡った。

 最近東都、つまり王都と直行便で繋がっている東側のみなと町で流行している菓子店があるが、王都じゃ一年も前には似たような店が流行って今はもう下火、情けなくってしょうがない。自分も無理してでもリュドミラのように王立学校に通えばよかった。王立学校の制服みどりがやっぱり最高、自分たちの濃紺あおはダサい。せめて別のところで差を出したいからいろいろと試しているけど、そういえば南方から取り寄せた化粧品はいまいちだった。いまいち以下。なんだか肌がちょっと荒れた気がするし最悪。やっぱりあそこは布は良いけど他は駄目。化粧品は西が良いっていうけどあそこってまだ瀉血とかやってたりするって聞くし、遅れてるっていうかちょっとこわいっていうか。


「そうですわね」


 リュドミラは香草茶を飲みながら、適宜「そうですわね」と「そうでしたの」を使い分けながら相槌を打った。

 そして、イルマタルの話がある程度落ち着いたところを見計らって切り出す。


「それで、相談というのは――」


 まくし立てていたうちの、どれかだろうか。

 イルマタルはそうでしたと手を叩いて、前のめりになると、


「大変なことが起きたのよ、姉様!

 婚約破棄! こ・ん・や・く・は・き、よ!」


 婚約破棄。

 何とも剣呑な響きに、リュドミラは目を細めた。

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