第3話 少女二人(後編)
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事の顛末。
リュドミラのいびつな影は跡形もなく霧散し、あとには日光が作り出す本来の陰影と、血を失い、青褪めた頬をした少女だけが残った。
内臓の奥深くまでが傷つき、尋常であれば命を落としていたところではあるが、そこはキャスリーン・エッジワースである。各地を奔走するうちに集めたありとあらゆる秘薬霊薬、王都の一等地に何軒もの豪邸が建てられるであろう値打ちのそれを惜しみなく使い、リュドミラは一命を取り留めた。
学園を破壊したリュドミラに対する処分――については、保留、ということになっている。
処分の対象であるか自体、決まっていないのだ。
あの影が一体なんであったのか?
押っ取り刀でやってきた騎士団はおろか、のちの調査団――王都に公職を持つ魔女たちですらも、今のところわかっていない。
状況証拠と普段の素行から、あの蛮行が少なくともリュドミラの本意ではなかったということを学校は公式の見解として内外に示している。
むしろリュドミラへの聴取と身辺調査の過程で明るみになった、上流特有の陰湿な攻撃についてが咎められる結果になった。
多少の毒を孕んだやり取りは貴族の作法のうちではあるが、度が過ぎた、ましてや一方的な誹り――殴り返さぬ相手を選んでそれを撲つ行為など、青い血の沽券に関わるものだと、当事者たちは、教職員を中心に、取り分け上級生から強い叱責を受けた。
しかし世の物事というのはこれで落着というほどに簡単なものではない。鼻っ柱の強い学生たちがリュドミラに逆恨みをすることは想像に難くなかった。
相も変わらずもったいぶった言い回しでリュドミラを化け物となじる学生がいたが、いつの日かとの違いは、彼女の背後に本物の化け物が控えていることである。
キャスリーンはその場にかがむと、石畳の端に指をかけ、めきめきと引き剥がすと、
「少々鍛えれば皆さんにもできますよ」
と笑った。
この女、正気の沙汰ではない。
有無を言わさぬ暴力の前では、上流のお家芸である口撃などいかほどの力も持たないと少年少女たちは悟った。
リュドミラは、当の本人を置いてけぼりにしているこのやり取りを見ていると、喉元過ぎればということはあるだろうが、何だか自分が思い悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思えたりもするのだった。
聞けば、彼女は入学初日にリュドミラを一目見て、いつかリュドミラに大変な危機がおとずれることを察知し、学校には無断で、家には一方的に文を認め、その足でリュドミラの苦難を打ち砕くべく、己を鍛える旅に出たのだという。
気狂いの類である。
であるがしかし、結果はどうか。
彼女は類まれなる戦士に成長し、怪異を打ち払ってリュドミラの命を救い、そうして
一体どうして、その危機に気づいたのか。
そもそもどうやって、自分を知ったのか。
「説明をするのがひどく……難しいのです。
わかるように説明しますので、少し時間をいただけますか」
ということなので、承服した。
しかしそもそも、それらすべてに理由があるとして、どうして自分の人生を棒に振るような真似をしてまで自分を助けたのか。
これにはキャスリーンはぽかんとして、何を聞かれているのかわからない様子だったが、リュドミラが質問の仕方をあれこれと変えてようやく、
「ああ。それはあなたが尊い人だからです」
事も無げに言った。嘘偽りのない、まことの言葉だった。
これは腑に落ちず、承服しかねた。
キャスリーンの言葉に、じんわりと暖かな、春の陽だまりのような静かな熱を感じた。
うれしいという単純な言葉で表すにはもったいないような気持ちだ。
この世には、自分の価値を認めてくれる人がいて、そのうえ、それを言葉にして伝えてくれるのだという事実にリュドミラは、うまく言い表せない、今にも叫んでしまいそうな、それで泣き出してしまいそうな、たまらない気持ちになるのだった。
6
キャスリーン・エッジワースは、今現在復学の手続き中である。
入学初日に出奔という、学校に対してはとんでもない不義理をしていたわけなので、当の本人は籍が置ければ番兵でも構わないということだったが、当然ながら貴族の令嬢にそんなことをさせられるわけもない。事によってはリュドミラの処分以上に揉めかねないと一部の教員は予想していたところだったが、職員会議の議題に挙げられるよりも前に、電光石火の速さでファールクランツ家より封蝋付の手紙が届いた。
内容は先般学校に現れた怪異を退治せしめたキャスリーン嬢の功績を絶賛するものであり、また
このような事件が起きたことをまったく痛ましく思う、憤懣やるかたない、学校の復旧に関しては惜しみなく支援をしたいと考えている。
しかし死傷者が一人も出なかったこと、この一点のみについては神々の計らいに感謝したい。怪異が取り憑いたのが愚女であったのはまったく不幸中の幸いであったと。
そのように結ばれた。
つまり――大恩あるキャスリーンが復学できぬという道理はない。
死者が出なかったのは娘のリュドミラの功績である。咎めだてるなど以ての外。
復旧に関しては金を出す。あとは何も言うな。
そういうことを言っている。
リュドミラはあの鉄面皮の父が想像をはるかに超えて自分を大切に思っていることを知って、何とも面映ゆい気持ちになった。
また噂に過ぎぬことであるが、キャスリーンを学校で引き取らないのであればうちで、という声が多方面からかかっているらしい。
彼女の素性については数え切れぬほどの背びれ尾びれがついていたが、学校を飛び出してから今日に至るまで、世界各地で
7
少し時を遡り、件の事件当日、その夕のこと。
あれこれと取り調べを受け、ようやく解放されたキャスリーンは、また明日も学園側に顔を出す必要があるということで、今日のところは適当に近場の旅籠にでも泊まろうかと思案していた。
良識ある大人たちは一刻も早く入院をということだったが、今はとにかく食べて寝るのが一番だとキャスリーンは経験的に理解していた。
そんな調子で教員たちを適当にかわして学園の門までたどり着いたとき、自分に向かって深々と頭を下げている女に出くわした。
見覚えがあった。
はっと気づいて、駆け寄る。
女は頭を上げると、ご無沙汰しております、と言って、再びこうべを垂れた。
そんな彼女にキャスリーンは喉を震わせた。
「あなたのことだけがずっと気がかりだった。本当に酷いことをしてしまった」
彼女はあの入学の日、キャスリーンに連れ添った女中の一人だった。
学校を出奔した日、側仕えたちにはエッジワース家の封蝋を押した手紙を預け、便箋には不肖の娘が大願を果たすために学校には通えぬこと、家に戻るつもりはないこと、そしてこのことはまったく自分自身の意志においてのみ行うことで、この者らには一片の瑕疵もないため、決して咎めることなく、変わらずエッジワース家の家人として取り計らうようにと
とくに最後については何度も念を押して書いたが、この様子であれば、そう悪い方向には転がらなかったらしい。
キャスリーンが頭を下げると、女中は恐れ入るように跪き、
「お嬢様があちらこちらと東奔西走される様を追い続けることはなかなか大変なことでした。何より傷ついたあなたをただじっと見ていることは、本当に……堪え難かった」
呆気に取られるキャスリーンに、女中は続けた。
「この女中めが見届けましたお嬢様の活躍は、すべて御屋形様にお伝えしております」
お嬢様が闘い、傷つく様を見るたびに心臓が止まる思いでした、と笑ってのける。
困惑がこのキャスリーンに、女中は続ける。
「キャスリーン・エッジワースはいつかとてつもない大事を為すだろうと、家の者は皆思っていましたよ。あなたは、幼い頃から本当に特別な方だったから。だって、私たちが知らないことをたくさん知っていましたでしょう。お嬢様は、きっとそれを隠し通せたと思っていたかもしれませんけれど」
「気持ち悪いとは、思わなかったのか」
これには女中が呆気に取られ、呵々と笑った。
「まさか! そんな者がいましたら、この女中めが八つ裂きにしてやります。
ねえお嬢様。エッジワース家の者は皆、小さなキャシーにそれはそれは夢中でしたのよ。あなたがたとえどんな方であっても、私たちは、ただ愛しかった。ただただ……愛しかった。そうしてその思いは、今もずっと変わらない。
こうして面と向かってようやく申し上げることができる。お嬢様。ご立派になられましたね」
下瞼に溜まった雫が、頬を伝って顎から落ちた。
自分のために泣いたのは、果たしていつぶりだったろう。
8
正式にはまだ本校の学生ではないにも関わらず、キャスリーンは平気で学校に出入りをしており、学校側もそれを黙認している。
これには一部から抗議の声が挙がったが、先のように彼女の扱いには多方面からの引き抜きの声という形で、いわば政治的な圧力をかけられている状態であったし、何より身の丈を超える剣を振り回し、バリスタの矢を空中で斬り落とし、番兵が束になっても敵わなかった怪異を滅ぼす女を、誰がどうやって止めるというのか。
自然、学生たちは彼女を腫れ物のように扱ったが、キャスリーンはどこ吹く風といった調子で学校中を歩き回り、
「やあ! リュドミラ、ごきげんよう」
「御機嫌よう」
人懐っこい子犬みたいに、リュドミラに笑いかけるのだった。
その日もキャスリーンはリュドミラの影を探して学園をさまよっていた。
授業の合間には、中庭とか、温室とか、そういった場所にいることが多い。
今日は復旧の済んだ噴水近くのベンチだった。
彼女にとっては因縁の場所であろうに、堂々とした佇まいである。そのことを揶揄する者がいたら真っ向から迎え撃つというような構えの、しかしこの気位の高さが、彼女本来の気性なのだろうと、キャスリーンは好ましく思う。
ふと、リュドミラの前を会釈して通り過ぎようとした下級生に、彼女が声をかける。
「あなた、タイが曲がっていらしてよ」
ベンチから腰を上げ、下級生の首元に手を伸ばし、タイを直してやる。
リュドミラはふと向こうで自分を見つめる視線に気づくと、ぎょっとした顔をした。
「キャスリ……キャスリーン様!? どうなさいまして!?」
薄く微笑みをたたえた女丈夫が、鼻血を垂らしている。リュドミラの反応は至極当然であった。
「失敬。肉眼で
キャスリーンは要領を得ないことをぶつぶつと口走りながら、リュドミラに歩み寄る。
「
「何かおっしゃって?」
「何も」
キャスリーンはリュドミラの隣に腰を下ろし、今朝はちょっと冷え込みましたねとか、昼過ぎから暖かくなって過ごしやすいだとか、どうでもいいようなことを話した。リュドミラはそれにいちいち、ええ、そうですわね、と相槌を打っている。
会話の途中、リュドミラはじっとキャスリーンを見つめた。キャスリーンが首をかしげる。
「リュドミラで構いませんわ」
「では、リュドミラと」
「その……別に、リューダと呼んでいただいても……」
「リュドミラ?」
「なんでもありませんわ!」
突然大きな声を出す。
よくわからないが、面白い人だと、キャスリーンは微笑む。
「キャスリーン様は、
「髪の色ですか? そんなの別に……いや! 良いと思います」
ついぞ忘れていたが、かつて、今ではない、ここではない、いつかの記憶で、キャスリーンやリュドミラと
キャスリーンはそのことに気づくと、肯定的に返事をした。
「さ、左様でございますか! ではその、なんと申しますか、道ならぬ恋というのは……つまりその……同性であるとか……」
「問題ないと思います! そういうものは、当人たちの気持ちが一番でしょう!」
その者たちの中には、祖を竜神や獣神に持つ、やや差別的な表現ではあるが、いわゆる亜人たちも多い。純粋な人間であるところのリュドミラの場合、一筋縄には行かない恋になるだろう。
そのように得心したキャスリーンは、またもや電撃の如く素早く返事をした。もちろん肯定的にだ。そのためリュドミラの言葉の最後のほうは、まったく聞いていなかった。
「わ、私はその……」
「その?」
「いいえ! なんでもありません! そっ、そろそろ授業が始まりますわね! これにて!」
リュドミラは咳払いをしながら立ち上がると、駆け足気味に、しかし優雅に、校舎のほうへと去っていった。
キャスリーンは笑顔でそれを見送る。
人のいなくったベンチに、ごろんと横になる。
今日は風が気持ち良くて、昼寝日和だ。
無論、この学校に通う子弟ならば即実家に連絡が行くレベルの振る舞いである。
彼女は一体、どんな素晴らしい人と結ばれるのだろう?
目をつむったキャスリーンは、そんな想像の翼を広げる。
一体、どんな美しい恋物語を紡ぐのだろう?
ああそういえば、自分は壁や天井になりたいタイプの女だった、とキャスリーンは奇妙極まることを思った。
ともかくとして、万難排し、リュドミラの行く末は見守らなければならない。
満足そうなキャスリーンの思いとは裏腹に、リュドミラの恋は前途多難のようであった。
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