第3話 少女二人(前編)

 1


 横薙ぎに振られた腕の一本が迫る。

 キャスリーンは大剣を盾のように構え、剣の腹で攻撃を受け止める。衝撃――の瞬間、後方に軽く跳んで勢いを殺した。

 大事ない。

 ちらりと奥のリュドミラを覗き見る。様子に変わりはない。呆然とした表情。


(これならば……)


 キャスリーンは続く敵の一撃を身をひるがえしてかわすと、影の腕が引いていくタイミングに合わせて剣を振り抜いた。

 切っ先が影を浅く抉り、燃えかすのような、煤のような何かが、空中に散った。


(金属のように硬い)


 が、斬れる。そして、


(リュドミラは無傷)


 やはりその様子に変わりはない。


 キャスリーンの最大の懸念は、影に負わせたダメージがリュドミラを傷つけはしないかということだった。

 今のところ、痛覚を含め、影とリュドミラにそういった面での生理的な繋がりはないらしい。

 もしそうであったら、影を一切傷つけずに捕縛するつもりであったが、これは尋常の戦いに比べてはるかに難易度が高い。

 しかし剣戟が通り、かつそれがリュドミラを痛めることがないのなら、やりようがある。


(私の記憶には――影のみを殺したそれはない)


 キャスリーンの魂に刻まれた記憶ルートでは、そのすべてにおいて、リュドミラごと影を倒していた。ゆえにありとあらゆる方策を講じてこの場には臨んでいたが、実際にそれが成し得るかは対峙するまでわからなかった。

 そもそも最高の想定ベストルートは、自分という存在の不介入によりリュドミラが闇堕ちしないことであった。そのためここ数週間は外部より彼女の観察を行っていたのだが、結果は見ての通りだ。


(ベストルートならば、よくわからんが彼女をハブっているやつらを全員私の顔を見ただけで失禁するよう教育するだけで済んだのだが……)


 運命の女神はそう甘くはないらしい。


(であればその影、ことごとく断たねばなるまい)


 三撃目が迫る。

 もはやキャスリーンは守勢に回らない。

 影に向かって駆け出し、掻い潜るようにしてその爪を避け、すれ違いざまに剣を振るう。


 それは暴力という名を冠した、一陣の風だった。

 研ぎ澄まされた殺意が鉄塊の先端に灯り、リュドミラに巣食う悪意へと襲い掛かる。


 一本の腕が両断される。腕は地面に落ちる前に、空中で灰となって霧散する。

 続けざまに二本目の腕が肉薄するが、これは躱さず、ぐっと地面を踏みしめ、剣で受ける。

 金属鎧を着込んだ番兵をたやすく吹き飛ばした一撃であったが、キャスリーンのとてつもない膂力はこれを真っ向から受け止め、そして競り負けない。

 攻撃を防がれ、再度の一撃を見舞うべく影の腕が大きく振りかぶられる。

 キャスリーンはすかさず踏み込み、地面から天へ、半円を描くような軌跡で剣を振り上げる。

 影の腕は吸い込まれるように剣へ向かい、するりと滑るように白刃が通って二手に分かれた。

 一本目の腕同様、粉々の灰となって舞い降り、地面の染みと消えた。


 三本目、四本目までは似たような要領で処理ができた。


(まずいな)


 残り五本というところで、腕たちの挙動が明らかに変わった。

 キャスリーンを警戒している。無防備な、雑な攻撃が無くなっているのだ。

 先ほどまでは痛覚がなく、痛みに怯まない、ということが、人間でいうところの油断となっており、御しやすさに繋がっていた。

 こうなってくると、影に痛覚がないというのがあだになる。

 一刀のもとに斬り捨てるような渾身の一撃でなければ意味がない。

 ダメージを負っても構わず攻めてくるのだから、浅い攻撃では有利を取れない。

 そうしていま警戒心の高まった影は、キャスリーンに大胆な攻撃を許さない。

 そして、それだけではない。


(ぬっ)


 五本のうち、二本の腕が同時に迫る。

 一本の腕を見切り、もう一本の腕を払い落とし、さらに迫る三本目を躱せず、肩を掠めた。

 キャスリーンは思わずたたらを踏みそうになるも、下っ腹に力を込めて踏みとどまる。


(成長している)


 つい先ほどまでは一本ずつしか攻撃してこなかったのに。


(まるで人間だな)


 キャスリーンはこれまで二刀流の剣士を相手にしたこともあったが、それを本当の意味で自在に操れる者には、ついぞ会ったことがない。

 両の腕をそれぞれ同時に、まったく別々の動きをしてみせるというのは非常に難しい。大抵は片方で守りを、つまり能動的には動かさず、もう片方の手で攻めを、こちらを積極的に動かす、ということに終始してしまう。

 もともとは、これに似ていると感じていたのだ。

 それが今やどうだ。まるで生まれながらに九本の腕を備えていたような自然さではないか。

 彼奴はダメージを物ともせずに打って出て、しかも戦いのさなかに成長している。

 対してこちらは傷を負えば動きは鈍るし、当然ながら腕は二本しかない。

 一気呵成に攻めなければジリ貧で勝利からは遠ざかる。しかし、付け入る隙は見つからない。


(どうする)


 じわり、と嫌な汗を背中に感じた。






 2


「あなたは……誰なの?」


 リュドミラは、ようやくそれだけを口にできた。

 何から聞けばいいのか。

 そも、まるで自分を置いてけぼりにして鉄火場と化している今の状況で、その当事者に何か質問することが許されるのだろうか。


「キャスリーン・エッジワースと申します!」


 影の腕を打ち払いながら、少女が戦闘のさなかとは思えぬほど快活な声で応じる。

 しかし、キャスリーン・エッジワース。

 知らない名前だ。

 父の知り合いだろうか。あるいは母か。

 自分と直接の面識があったのだろうか。

 何か大きな約束のためにここにいるのだろうか。

 それを覚えていないなんて、自分はとんでもない薄情な人間なのではないだろうか。


「ごめんなさい。わたくし、あなたのこと、覚えていないの……」


 キャスリーンはその答えにはまるで動じず、


「当然です! こうして言葉を交わすのは初めてのことですよ!」


 であれば、なぜ。

 そうリュドミラが問い掛ける前に、キャスリーンは続けた。


「あなたはもちろんご存知ないでしょうが……」


 影に腹を打たれ、地面を転がり、立ち上がってまた剣を構える。


「私は、あなたのことを――知っているのです。

 あなたがどんなに素晴らしい人かってことを。

 それから、知っていたのです。今日、こんなとんでもないことが起きるってことを」


 それから影の向こうにあるリュドミラの双眸をしっかりと見つめ、自信に満ちた表情で言った。


「今日の日のための準備をしてきたんです。

 私は勝ちます。

 勝ちます。

 絶対に勝ちます。

 絶対に絶対に、勝ちます。

 だからどうか、あなたもあきらめないで」


 言い放つと、キャスリーンはへへっと少年のように照れ笑いをしてみせた。


「一方的に知っているだなんて、ちょっと気持ち悪いかもしれないけれど……」


 影が時間差で二本ほど迫るが、そのコンビネーションはもはや見切ったとばかりに、キャスリーンは慣れた要領で一本を弾き飛ばし、もう一本を受け止める。鎧を着込んだ男たちを軽々と吹き飛ばした影の腕を抑え込んで一歩も引かない。


(この方は……)


 荒ぶる自分リュドミラの影と丁々発止と渡り合う目の前の少女を、自分は知らない。

 美しい少女だ。

 緩く波立つ金髪ブロンド、夏空を写し取ったように透き通った青い瞳。

 つるりとした陶器のように白い肌は激しい攻防によって赤らみ、額から滑り落ちる汗の粒が弾けて散るのが見えた。

 よくよく目を凝らせば、その顔に、その腕や脚の、わずかに露出した皮膚に、無数の傷痕が刻まれていた。昨日今日にこしらえたものではない。今日の日のための準備、と今し方聞いた言葉が脳裏をよぎった。

 彼女はどうしてこうも懸命に戦うのか?

 自分リュドミラのためだと、そう言った。


『あなたがどんなにか素晴らしい人かってことを』


 鼻の奥がつんとした。

 喉が渇く。

 動悸が速い。

 わななくように、肩が震える。

 視界は窓越しに覗く雨の日のように滲んだ。


 どうして忘れていたのか。

 なぜ、何もかもどうでもいいだなんて思ったのか。

 私を愛してくれる人が、必要としてくれる人が、一人もいなくなったわけじゃないのに。

 何より、何より私が、私自身が、私の信念を認められていたはずだったのに。

 私は、私が、素晴らしい人間だと、少なくともいつの日か、きっとそうなるのだと、そのことを信じられていたのに。

 諦念のために破壊を、その果てに待つ死を望むなど、自分が思い描く貴族の対極。

 そんなものは、そんなものは、このリュドミラ・エリ・ファールクランツにふさわしくない!






 3


(これは――)


 何かが変わった、とキャスリーンは思った。

 リュドミラだ。

 瞳の色が違う。うれいを帯びていた新緑色の瞳に、わずかに燻る炎が見える。


(ここが潮目だ)


 その小さな炎に当てられたように、キャスリーンの闘志も今一度燃え上がる。

 そして今一度、己に問い掛ける。

 今日の日まで何度となく繰り返した問い掛けを。


(負けられない)


 死に見初められた推しリュドミラを守れるのか。


(負けられないぞ)


 闇に魅入られた推しリュドミラを、救えるのか。


(できる)


 そう、できるのだ。

 屍山血河を踏み越えた先に、推しリュドミラの微笑む未来があるというのならば。

 その身に幾千幾万の傷を刻み込もうと。

 その道が茨と薊に満ちたものだろうと。

 何恐れるものか。


(私は……)


 キャスリーンは先の通り、この数年、世界各地を東奔西走した。

 己を鍛えるという目的の半ば、お節介焼きの性格が災いして、あれこれと事件に巻き込まれた。

 とはいえその評は、当人が言ったものではない。お節介焼きだとも、事件に巻き込まれたとも、またそれが災いとも思っていない。

 ただ自分の心のままに、その魂の火が向かうままに、歩を進め、剣を振るった。

 もちろんそれは名誉のためとかではなかったから、ろくろく名乗りもしなかった。彼女自身はもはや勘当に等しい身と極め込んでいて、エッジワースという家名はおろか、キャスリーンですらもなく、適当に通りすがりだとか、行きがかりだとか、求められてようやく、キャシーと名乗った。どうしてもと希われて、ようやく名前を詳らかにした。

 こうした経緯いきさつもあり、人は様々に彼女を呼んだ。

 彼女に手を取られた人が、その背中に守られた人が、涙を拭いてもらった人が、彼女を呼んだ。


 人類という種に起こった相変異。

 恐怖という名の暗がりの先頭を歩む者。

 膝を突いたあなたの背中を撫でる人。

 誰かの痛みと涙を背負って、

 その敵にかかってこいと叫ぶ者。

 絶望の天敵。

 悪意の底に輝く希望。

 この世で最も新しい切り札。


(私は……!)


 汝、勇敢なる者。

 その名はキャスリーン・エッジワース!






 4


 今ここに、闘争の潮目は極まりつつあった。

 融通無碍のキャスリーンがここでようやく構えらしい構え、型、のようなものを取った。


 技らしき技は学んで来なかったと、キャスリーンは言う。

 自分が遣うのは喧嘩殺法、道ならぬ剣であると。

 ゆえにその一挙手一投足、構えから大刀たちの上げ下げまで、すべて敵から盗み、実戦の中で磨き上げたもの。

 ゆえにその技にも名前はないが、しかしその構えばかりは、まさしく必殺の剣として、いつしか名前をつけて呼ばれるようになった。


 大掛かりの斬馬刀

 両のかいなで大抱え

 誰が呼んだか〝大担ぎ〟


 元よりは竜を屠らんと拵えたこの一品。あまりに長大で、剣の術理が及ぶ代物ではない。

 本気で振り抜けばそれはまさしく必殺の一撃。されど、ひとたび後の先を取られようならば敗北は必定。返す刃の存在しえぬ、必殺か、あるいは必死かの一撃勝負。


 来るか!? どうだ!?


 キャスリーンの額にまたひとつ玉の汗が浮かぶ。

 影の腕の奥、リュドミラの視線とキャスリーンの視線が絡み合う。

 リュドミラはふっと息を吐いた。

 ぞわ、とキャスリーンの背中に悪寒が走った。

 嫌な予感がした。

 ああいう顔を知っている。

 あれは『覚悟』の顔だ。

 いつの間にか彼女の手には、小ぶりの懐剣が握られていた。


「ま」


 待って、というキャスリーンの声が発せられる前に、リュドミラはその脇腹に懐剣を突き刺した。

 影はぴしりと体を硬直させると、次の瞬間その痛みに堪えかねるとでも言うように暴れ出した。

 驚くことに、影の痛みは彼女に届かないが、彼女の痛みは影に届くらしい。

 それは即ち、己に刃を突き立ててなお身じろぎひとつしないリュドミラが、ただ心胆の強靭さのみであの影が暴れ回るような痛みに堪えているということだった。

 リュドミラの口の端から赤々とした血が溢れて、顎を伝う。


「何を驚いているのです、外道」


 リュドミラが決然と言う。


「こんなことは、青き血を流す者の他愛ない務めに過ぎませぬ」


 先ほどまでの、抜け殻のようだった彼女とはまるで違った。


「元より貴族なぞ、人間がその手に火を取って文明を築き上げた古くから、相争ってより多くの死体を築き上げたほうがそう名乗っただけに過ぎぬ者」


 聞いているこちらの背筋が伸びるかのような、朗々とした声。


「そんな山出しの蛮族が、今の世に何を以て貴族を名乗るのか。何を以て血の赤きと青きを分けるのか」


 これが貴族。


「貴様の如き外道に一歩も退かず、万民の安寧を守るため、流血を厭わぬことでしてよ」


 これが、リュドミラ・エリ・ファールクランツ。


わたくしたちが……私たちが、額に汗する庶民を尻目に絹の服をまとい、葡萄酒で舌を湿らせることを許されているのは」


 もう喋らないでくれ、とキャスリーンは言えなかった。


「その人々の暮らしを守るために此の身を捧げると、生まれる前から定められているからでしてよ!」


 この魂の叫びを武器に、彼女は邪悪な影に立ち向かっているのだ。そうして事実、彼奴からは怯んだ気配を感じるのだ。

 なんという高貴さ。血反吐に染まった白いブラウスの、なんと凄絶な美しさ。

 これだ。これなのだ。

 キャスリーン・エッジワースが、居ても立ってもいられなくなる、まこと高潔な魂の持ち主。

 何も間違っていなかった。何も間違っていなかったのだ。

 彼女という存在が世界から失われることを何としてでも回避しなくてはならない。

 そのために剣を取ったことには、些かの誤謬もなかった。

 そしてこれが、これこそが、キャスリーン・エッジワースの使命に他ならないのだ。


「キャスリーン様!」


 じり、と斬り込む好機をうかがうキャスリーンに、彼女が叫んだ。


「心の臓を一突きにしなかったのは、わたくしめの少々ばかりの未練、そして何より――先刻の貴女の言葉、信に足りると踏んだからでしてよ!」


 ぶるりと全身が震えた。


「おやりになって!

 キャスリーン・エッジワース!」


 ここまで言われて、動かぬ者がいるか。

 その魂の火が、燃え上がらぬ者がいるか。

 キャスリーンは駆けた。全身は疲労に満ち、血は流れ、いくつかの骨は折れている。

 だからなんだ。なんなのだ。知ったことか。

 駆け込むキャスリーンの気配に気づいた影が、彼女を迎え撃つべく構えを取った。


「させませ……ぬ……!」


 自身の脇腹に差し込んだ懐剣を、リュドミラが抉るように掻き混ぜた。

 影が身悶えするようにのたうち回る。

 決着を付けねばならない。これ以上、彼女に献身を強いるわけにはいかない。


 破れかぶれになった五つの腕が、必殺の意思を持ってキャスリーンに襲い掛かる。

 これこそを待っていた。

 自分を仕留めに掛かる必殺の一撃。その瞬間こそが最大の好機と、キャスリーンは知っていた。

 肩に担いだ大剣を大上段に振りかぶる。

 剣先の加速が最大化する瞬間が、影を捉える瞬間と重なるよう、キャスリーンは緻密な調整を行う。無論、やろうとしてできることではない。天与の剣才が、不断の努力の果てに辿り着いた境地である。

 滑るように走る白刃が、重なった五つの影を斬り裂いてゆく。


「消え失せろ! 二度と彼女に手を出すなッ!」


 耳障りな断末摩が、辺り一面に響き渡る。影は火の粉のように散り、それから灰のように舞い、大気中に霧散するようにして消えた。

 キャスリーンは邪悪な気配が消え去ったことを確信すると、大剣を放り投げ、倒れ伏す彼女の許へと走った。

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