第2話 リュドミラ
1
リュドミラ・エリ・ファールクランツという少女の人物評は、一言で言えば、苛烈な人、だった。
他人に厳しく、それ以上に自分に厳しい。
貴い血に生まれたのならば、己を律して生きることが何よりも肝要であると、そういう父の背中を見て育ったためだ。
父は厳格な人だった。
守るべき信義、果たすべき責務、そういうものを背負って貴族は生まれてくるのだと、折に触れてリュドミラに話した。
父は、享楽と淫蕩に耽る昨今の貴族たちを見て眉を顰め、深々と息をつくことが度々あった。遠く異国の地では市民革命の波が押し寄せ、自分らと同じく貴種に当たる人々が絞首台に架けられているのだという。我が国も他人事ではない――と。
節制。
自律。
訓戒。
リュドミラは子供心に、
(楽しそうな生き方ではない)
と思ったものだが、それでもその凛々しい姿に敬慕の念を抱かずにはいられなかったし、かくあらねば、とも思った。
だから、リュドミラはそのように振る舞った。学校に入ってからも、もちろんそうだ。いや、むしろ殊更にそうした。
軽佻浮薄の輩に諫言を申し出ることは日常茶飯事だった。言葉遣い、立ち振る舞い、授業に臨む態度、休日の過ごし方まで。
リュドミラは頭の良い娘だったから、そういった振る舞いこそが
彼女の考えが及ばなかったのは、彼女自身のこと。リュドミラ・エリ・ファールクランツが、彼女の父の如く老獪な政治家ではなく、流言に惑わされぬ鋼の心胆も持ち合わせておらず、有象無象をひと睨みで黙らせるほどの力もない……多感で、傷つきやすい、一人の少女に過ぎなかったということだった。
リュドミラの振る舞いが真っ向から批判されるのであれば、手の打ちようがあった。むしろ望むところであった。けれど貴族社会というやつは実に奇怪千万、百怪魑魅の跋扈する巣窟であり、子女の通う学び舎といえでも、その縮図であることに変わりはなかったのだ。
リュドミラの振る舞いは失笑に迎えられた。貴族らしい、非常に婉曲な言い回しを以って。つまり、《にぎやかな御方》と。そして時には直截的に、品が無いとすら言われた。
物を隠されるとか、服を破かれるとか、その手のわかりやすい被害はなかった。ただくすくすと、遠巻きに笑われるだけ。まだ友人――父でいうところの同志――がいれば、違ったかもしれない。しかしリュドミラは累が及ばぬよう、自ら友人を避けるよう心がけた。
体の芯まで凍りつくような日々は、じわじわとリュドミラの心をさいなんでいった。
孤独を深めつつあったリュドミラを攻撃する、ということは、学生たちにとって格好の娯楽となっていった。それは全体からすればごくわずか、一部の心ない学生の行いであったかもしれない。しかし人ひとりを殺すのに千の銃弾は必要ない。一口の匕首さえあれば事足りる。
日々の中で言葉は次第に鋭さを増し、リュドミラを深々と切り裂いていった。
どれほどの目にあっても、正しいことをしているという自覚さえあれば、それだけで屈することはないと信じていた。
けれどリュドミラの胸には、少しずつ澱のようなものが降り積もっていった。万事恙無しと家に文を
幸せそうに過ごす学生たちを遠目に、悋気と呼ぶにはいささか度の過ぎた感情が、行き場もなく溢れるのだった。
2
暗い暗い日々とともに季節は巡る。
そして何度目かの春、その日はおとずれた。
決定的な何かがあったわけではない。
少しずつコップに注がれていた水が、ある瞬間に溢れ出すように。
朝、寮から出て、学舎に向かう少女たちの楽しげな声を耳に、
(もう後戻りのできないところまで来てしまいましたわ)
とリュドミラは思った。
今さら態度を変えたところで、それはそれで半端者であるとか、また別の理屈で自分が槍玉にあげられることはよくよく承知している。かといって、以前のように気丈に振る舞うには、もうくだびれてしまった。
人生の中で、きっと一番に自由で、華やかで、楽しいはずのひとときに、一体自分は何をしているのだろうか。
惨め。
どうして、こんな思いをしなければならなかったのか。
やりかたを間違えたのか。
迎合すべきところはし、譲れぬ部分は譲らぬようにと、もっと賢く過ごせば良かったのか。
違う。
だって自分はそういう、目端の利いた、小賢しい生き方をしたくなかったら、こうしたのだ。
ならばこうなるのは、必然だったのか。
(もう、何も考えたくない……)
少女たちの黄色い声に、鳥の囀りが混じる。
風に揺れる木々の葉。耳障りの良い、噴水の水がはじける爽やかな音。
(何もかも――もう、いい)
その瞬間、目の前の噴水が砕け散り、上水道から流れる水が弾けるように飛散した。周囲の石畳が抉れ、瓦礫と化した破片が弾け飛び、一帯を滅茶苦茶に破壊してゆく。
そこかしこで絶叫が響き渡った。
リュドミラは恐怖より先に、茫然としていた。なぜか
(どうして……わたくしの……)
彼女の影が日照とその体躯を鑑みればありえない形に湾曲していた。捻じれるように伸びた影の先端が、三次元の実態を伴って天を衝くように突き出ている。それが野獣の爪のような輪郭を
3
破壊の限りを尽くされた広場で、リュドミラはへたり込んでいた。
駆けつけた番兵たちは彼女の影に殴られ、叩きつけられ、蜘蛛の子を散らすように撤退した。そのさなか、「騎士団に要請を」という叫び声を聞いた。
そうなったら、どうなるのだろう。
自分は、殺されるのだろうか。
闇に魅入られ、人が魔に堕ちるという話は、古今に枚挙の暇がない。そしてその末路は大半が幸せなものではない。
しかしそれは正しいことだ――と、リュドミラの理性がささやく。
今にもリュドミラは、次なる破壊を求めて駆け出してしまいそうなのだ。
先刻、噴水を打ち砕き、石畳を引き剥がし、番兵たちを殴り飛ばしたリュドミラは、ここ数ヶ月、いや数年は感じることのできなかった多幸感に包まれていた。
このおぞましい快楽に身をゆだねるのは、あまりに簡単なことだ。ただしそのとき自分は、もはやリュドミラ・エリ・ファールクランツではなくなっているのだろう。
影の腕が、いや、もはや九本にまで数を増やした腕たちが、敵の襲来を警戒するようにぐるぐると落ち着きなく蠢いた。
見上げれば、敷地の東西両端に建てられた尖塔、その屋上に備えられた、学校設立以来、ついぞ使われることのなかった巨大な弩砲――バリスタが動いている。
人一人を仕留めるにはあまりにも長大な矢が、リュドミラに狙いを定めていた。
(わたくしは、あれで死ぬのね)
お父様。お母さま。不出来な娘で申し訳ございません。
ファールクランツの名に泥を塗ったこと、リューダは心よりお詫び申し上げます。
「ごめんなさい……」
果たして矢は放たれた。
リュドミラはぎゅっと目をつむり、その時が来るのを待った。
しかしいつまでもその時がおとずれないのを訝しって、目を開けた。自分に当たるどころか、地面に突き刺さる音すらしなかったからだ。
暴れ回った影のために、ほとんど廃墟と化したこの広場。誰もが避難し、ここにいるのはリュドミラだけのはずだったが、うずくまる彼女の前に影が落ちていた。
リュドミラは状況が飲み込めなかった。
一体、何が起きているのか。
しかし、人々は見ていた。
リュドミラ以外の、学生が、教員が、使用人が、番兵が、あの魔物を殺せと叫ぶ者が、奇跡を希う者が、すべての人々が、見た。
その少女が、携えた長大な鉄塊を振るい、放たれたバリスタの矢を空中で叩き落とす様を。
じりじりと近づいてくる少女に、影の腕たちはその爪を向け、まるで「何者だ」と厳しく誰何するかのような殺気を放った。
少女は影の所作に要領を得たようで、臆することなく、むしろ睨み返すようなまなじりで言った。
「見ればわかるだろう、ここの生徒だ」
たしかに。
たしかに、そう言う彼女は学校の制服、周囲の少女たちと同様のブレザーを着込んでいる。
しかしその上には旅の埃にまみれた外套をマントのように羽織っていた。銃創らしき風穴が、あちこちに見られた。ぼろぼろの裾が風に吹かれて翻る。
膝下には黒ずんだロングブーツ。両腕に鈍色の手甲。何より異様なのは長大な鉄塊――いや、剣だ。剣を引きずるようにして歩いている。
重いのではない。少女はとてつもない膂力でその剣を握り締めているが、ただただ飛び抜けて長く、厚いのだ。少女の身の丈をゆうに超えているのだ。
そうして腕に覚えのある者がここにいたならば、感じ取れたかもしれない。彼女の全身から湯気のように立ち昇る、圧倒的な武威の程を。
彼女はキャスリーン・エッジワース。
とある令嬢の逃れ得ぬ死に立ち向かうため、血風吹き荒れる闘争の舞台に身を投じた少女。
貴種として生まれ、蝶よ花よと育てられたキャスリーンは、今や古今無双の戦士の風格を得ていた。
「これはしかし、間に合ったと言っていいものやら……」
両の目は影の腕に見据えたまま、キャスリーンが口の中でつぶやく。
自然体であった。
体の隅々までに気力が漲り、筋骨は弛緩と緊張で程よく伸びている。
(本当に、何者なのかしら?)
本校の生徒だと言ったが、このような女生徒はついぞ見かけたことがない。
これほど目立つ人物に見覚えがないということはなさそうだが。
――などと考えているそのとき、リュドミラは視界の奥、その上方でバリスタが動くのを見た。
二の矢を番えているのだ。仕留めそこなった自分を今度こそは殺すために。
咄嗟に何かを叫ぼうとして、口ごもる。
果たして何と言えばいいのか。
危ない、とでも告げればいいのか。それはつまり、自分を殺そうとする矢に巻き込まれないようにということだろうか。自分はもう、自分の死をまったく受け入れているのだろうか。
わからない。
わからないが少なくとも、この少女を死なせるのは忍びない。
リュドミラが口を開こうとしたとき、キャスリーンは尖塔に剣の切っ先を向け、
「手出し無用」
と鋭く言い放った。
その声は飛び抜けて大きいものではなかったから、バリスタのもとにいた番兵に届くことはない。それでも番兵はたたらを踏み、尻餅を着いた。この何間もの距離を貫いて、キャスリーンの闘気に当てられたのだ。
「さて」
キャスリーンは肩を回して首を鳴らすと、鉄塊の如き大剣を構え直す。
「ゆくぞ。その方は、おまえにはやれない」
かくして、闘いの火蓋が切られた。
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