キャスリーン・ザ・ブレイブ

佐々木速贄

序章 悪役令嬢

第1話 キャスリーン

 体の隅々までが、ずきずきと痛んだ。

 胸の奥のほうが、しくしくと痛んだ。


 ごめんなさい、と思った。


 そんな言葉の出た自分を、

 リュドミラは心底つまらないやつだと思った。

 今際の際に出た言葉が、ごめんなさいだなんて。


 嫌われ者なら嫌われ者らしく。

 悪者なら、悪者らしく。

 恨み節のひとつも出れば、

 かえって格好もつくものなのに。


 つまらないやつの、

 つまらない人生の、

 つまらない終わり方でしたわ。


 と、リュドミラは目を閉じた。




















 1


 西の海に太陽が沈み、夜の帳が下りれば、空には大小の姉妹月が浮かび上がる。

 遠く雷鳴の如く、狼の遠吠え。応じるように、山林深くに棲まう魔物たちの蠢動、そのざわめき。雲海の隙間に、鯨竜いさなの泳ぐ軌跡。

 妖しげな夜の時間が行き過ぎれば、やがて世界は朝焼けとともに光を取り戻し、一帯は清廉な空気に満たされてゆく。精霊たちが運ぶ風が朝露に濡れた草木をかき分け、その雫が日の光に反射してきらきらと輝いた。ふと頭上を見上げれば、蒼穹の彼方に舞う飛竜の影。


 屋敷のバルコニーで、その影を目でじっと追っていた少女――キャスリーン・エッジワースは、これらのことに、特段の疑問を抱いたことはなかった。

 どうして人間は竜のように翼を持たないのとか、どうして姉妹月は赤と青でそれぞれ色が違うのとか、そうしたことを不思議がったし、大人たち、つまり自分の両親や、家庭教師ガヴァネス、あるいは使用人たちにその理由をたずねることはあった。でもそれは、幼い子供であれば当たり前に疑問を呈すところで、それ自体は特段珍しいことでも何でもなかった。

 けれどキャスリーンはそうした疑問に対して得られた答えが、どうも腑に落ちなかったときに、


(非科学的だな)


 と感じることがあった。

 また、そう感じることに、


(ヒカガクテキって、どういうことかしら?)


 自分自身、首をかしげていた。

 一体この、非科学的、と感じること、その言葉は、どこから来たものなのだろうか。

 いや、非科学的、ということが、どういうことなのかというのはわかるのだ。

 それはたとえば、夜空に浮かぶ星々の運行はすべてその星自身が行っていることであり、自分たちの住む天体はまったく動いていないという考え方のことであったり、あるいは、我々が立つこの地上が、天体などというものではなく、大きな亀の背中であって、海の果てには見渡す限りの巨大な滝が待ち受けているだとか、いやしかし、この世界でならもしかしてそういうことがあるのかも――――


 この世界。


 胸のうちで世界を語る際に言い添えられた、この、という言葉は、明らかに世界を数多あるものの一つとして捉えているものだった。

 この奇妙な考え、本当に奇妙な――これを荒唐無稽な、まったく子供の空想に過ぎないと捉える自分と、圧倒的な説得力で『』と語りかける自分。何よりそうした思考のはたらきが存在するということ自体の奇妙さ。


〝これは真実な気がする〞

〝実感として知っている〞

〝しかし実感とは私自身が経験したものを指す筈〞

〝私〞

〝私とは、今ここにいる私〞

〝それがすべて〞

〝ではない〞

〝ではない、のかもしれない〞


 そうして時が流れ、背が伸び、ふっくらとした幼いばかりの輪郭に少女らしい美しさが芽生える頃、キャスリーン・エッジワースは、それらの『記憶に似て非なる感覚』――の掌握に成功していた。

 自分はたしかに、この世界とはまるで違う世界を知っている。


 空に浮かぶ月は一つだった。

 精霊も竜も存在していない。

 魔法だってない。たまらなく不便だ。不便だけれど、魔法のような、おそるべき術理が世界に満ちていた。

 その術理を以て人々は巨大な摩天楼で地上を埋め尽くし、鉄の翼で空を駆け、あらゆる病理を支配せしめ、百の齢を超えなおも生きた。

 そんな奇妙な世界を、キャスリーンはたしかに知っている。

 そして竜が空を舞い、精霊たちが季節の頁をめくり、はるかなる天上の座に神々のおわすこの世界が、かつて彼女が熱中し、寝食を惜しんで没頭した、物語……細かくは思い出せないが、小説か、あるいはもう少し別の、遊戯に近い、何物かに酷似していると感じるようになった。


 そのシリーズ……シリーズだったはず……シリーズの……三作目……そう、三作目……やはり3こそが至高……ストーリー、キャラ、RPG要素、すべてにおいて高水準……攻略対象も……攻略対象……? なにを言っているかわからないが……攻略対象がどれも魅力的すぎて……逆に推しがぶれる……ゆえにハコ推しせざるを得ないという強い気持ち……推しとは何だ……わからない……わからないが……とても大切な……キャスリーンは主人公……そう、主人公のデフォルト名……でふぉるてって何だろう……主人公がまた、めちゃくちゃ良い……格好良くて可愛くて、嫌味がなくて努力家で……あと選択肢の内容と、その前後の言動とか行動とかがプレイヤーの気持ちとめっちゃ一致してて……すごい……この選択肢でそうなっちゃうの、みたいなあれがない……キャスリーンがウォォってなってるとき絶対こっちもウォォってなってるから……本当最高……そんなんできる……? ライターが神すぎて……私は何を……? キャスリーンは私だが……?


 閑話休題。


 ともかくキャスリーンは、貴族エッジワース家の令嬢として生まれ、そんな思考と向き合いながら成長してきた。

 そういえばこの貴族というのも、ファンタジーものにありがちな、男爵が手柄を立てたら陞爵して伯爵になれますみたいな、日本、日本……? 日本の官位とごっちゃになってる設定じゃなくて、役職や土地に爵位が宛がわれているから、伯爵が同時に男爵でもあったりするとかいう、任期制から世襲制に移行していった十三世紀から十五世紀くらいのヨーロッパのガチっぽい背景をふとした瞬間に感じられて、なんだこの骨太感……すごい……顔が良い男を並べただけのゲームじゃない……尊い……尊い……? なんだっけ……?






 2


 キャスリーンも歳の頃を迎え、家庭教師ガヴァネスを卒業し、学校に通うことになった。

 いわゆる寄宿学校ボーディングスクールの類であったが、男女でカリキュラムは分かれており、花嫁修業フィニッシングスクールとしての要素もあった。

 貴族の令嬢たちはこの学校に通い、卒業のあかつきにはデビュタントとなり、そのまま結婚するか、あるいはそのまま学問を志す、またあるいは就職するなどの進路を決める。この世界に満ちる魔法の力は、〝私〞の知る世界よりは何百年か早く、男女の立場を均すことに少々の成功を収めているという事実があった。


 キャスリーンはわくわくしていた。

 そう、ここからが〝私〞の知る物語の始まりだったからだ。

 学校には見目麗しい男女たちと、胸躍る冒険の日々が待ち受けている。そして自分は主人公として、その物語を特等席で読むことができるのかもしれないのだ。


 王都近郊に、そのためだけに切り開かれた広大な土地と、建立された学舎。

 青い血と、それに忠誠を誓った者だけが立ち入りを許される場所。

 在学中は万が一にも間違いが起こらぬよう男女の寄宿舎は遠く離され、一部の授業のみ合同で行われる。〝私〞の知る物語とはいくつかの相違があったが、そう気になるものではなかった。


 四頭立ての豪奢な馬車に揺れる旅路。神々の持つ灯りに照らされる大地、そして精霊の息吹に揺れる草原。すべてが彼女の道行きを祝福しているように感じられた。

 これまでの人生で、一番の長旅になった。それでもちっとも苦に思わなかった。

 王都に辿り着き、いよいよ明日は学校に足を踏み入れるという上屋敷での夜は興奮で寝るに寝られないほどであった。


 その日の朝、どんな過ごし方をしたのか、さっぱり覚えていない。女中たちが完璧に支度を整えてくれたことだけはわかるが、あとはいつの間にか学校を間近に臨んでいた。

 大きな大きな門をくぐり抜け、しばらく進んでいくと、辺りは活気ある声に満ちていく。

 馬車から身を乗り出し、恐る恐る足を下ろした。

 広がる風景にキャスリーンは内心で、


(これだわ!)


 と快哉を叫んだ。


 整然と敷き詰められた石畳と、等間隔に植え込まれたトチノキ――マロニエ――この世界ではなんというのか――の並木道。

 視界のはるかには赤い煉瓦の壁が目立つ建物。おそらくは学舎だろう。

 左右に枝分かれした道の先にあるのは学生寮だろうか。ここからでも見て取れる広壮さだ。寮とはいえ貴族の子弟が暮らすのだから、当然かもしれない。よくよく目を凝らせば、道の向こうに大きな橋が差し掛かった湖畔が見える。あそこにあるのも学生寮だろうか。それぞれの違いはなんだろう。

 学舎のほうに目を戻すと、その左右の端には学舎よりも背の高い、一対の尖塔がそびえ立っている。用途はわからないが、いかにもな感じだ。


 キャスリーンは家人らが馬車から荷物を運び出し、準備を終えて背後に控えたことを察すると、石畳を一歩踏み出した。

 前途洋々。そんな言葉が浮かぶ。


(あまりきょろきょろしていると、田舎者に思われますわね)


 キャスリーンは居住まいを正すと、努めて平静を装った。

 周囲には自分と歳の頃の近い少女たちが、キャスリーンと同様に家人を引き連れ、緊張した面持ちで歩いている。

 中には二、三人で固まって移動している少女たちもいた。きっと同郷の出身なのだろう。抑えようとしても抑えきれない黄色い声が、なんとも青々しい空気を作っていた。


 首を回さず、眼球の動きだけで周囲をうかがっていたキャスリーンの目が、一人の少女を視界にとらえ、その瞬間、


(あっ)


 と息を呑んだ。

 声が漏れていたかと危ぶんだほどで、キャスリーンは咄嗟に口許を押さえていた。


 綺麗だった。美しかった。


 友人と談笑しながら石畳の道を行く彼女の横顔。真新しいブレザーに包まれたほっそりとした体。風に揺れる射干玉ぬばたまの黒い髪。

 十代の身にしか宿らないきらめきのすべてを凝縮したみたいな女の子だった。


 彼女は――だ。

 名前は、リュドミラ。そう。リュドミラ・エリ・ファールクランツ。

 リュドミラ。その言葉を胸の裡で囁くと、どうしてか心が高鳴った。

 キャスリーンの、いや、〝私〞の記憶している彼女はもう少し大人びた風貌をしていたが、それでも一目見てわかった。つり目がちで、睫毛の長い、吸い込まれそうなほど大きく、美しい、新緑色の瞳は、変わりがなかった。

 細かな因果までもを記憶しているわけではないものの、〝私〞の知る物語では、彼女は居丈高に振る舞い、キャスリーンと恋の鞘当てを繰り広げるのだ。しかしリュドミラはいつしかキャスリーンへの嫉妬に身を焦がし、心を闇に呑まれ、怪物となって人々を襲い掛かる。そのうえで、見事に退治されることになるのだ。筋書き通りに物語に進めば。

 ああ、それは。


 我慢ならない。


 彼女を見たとき、その名前を思い出したとき、胸に訴えるものがあった。

 言葉の真に意味するところはわからないが、という言葉が、という言葉が、キャスリーンを支配した。

 そんな彼女が、自分の、キャスリーンの幸せのための踏み台になるのか。生贄になるのか。いや、そうして得た幸せというものが、果たして本当に幸せと呼べるものなのか。


 我慢ならない。


 ずっと考えていた。自分が何者なのか。

 私はキャスリーン・エッジワース。

 そうでありながら、キャスリーン・エッジワースをいつも客体として見ていた。

 当たり前のように貴族の令嬢として日々を過ごしていて、今年のファーストフラッシュは出来が良いですわとか微笑みながら家族とお茶を飲んでいて、自分だけがたまにぼんやりと、これはなんなんだろうなあとか思っていたりする。

 いかにして生きるべきかということを考えることもあるけれど、きっと〝私〞は〝キャスリーン〞を生きることしかできないんだと、そのことを半ば確信していたし、別にそれは諦めというものではない。

 あの奇妙な世界、その記憶の中にいる自分は、たしかに自分なんだけれど、いまの自分がキャスリーンであることもたしかで、どっちが真とかではなくて、だからいわゆるとか、そういう話ではなかった。

 第一、私が今ここでこうしていることの『前』に向こうの〝私〞が死んで、あたかも生まれ変わるかのようにこの世界を訪れたという確信はない。少なくとも、神々がおわすという天のきざはしを下った記憶はない。

 キャスリーン・エッジワースという私に〝私〞が紛れ込んだのか、まったくそういうことでもないのか、わかっていない。


 だけど。


 この魂が何のために燃えるのか、思い出した。

 そのことを、はっきりとた。

 だからわかった。

 私たちは、最初から私たちだった。

 同じことに喜び、怒り、悲しみ、心を震わせる。


「〝ハートに火がつい〞たわ」


 私は最初から別々なんかじゃなかった。

 キャスリーン・エッジワースは〝私〞で、〝私〞はキャスリーン・エッジワースだ。私は、ただ一人の紛れもない、この大地に生まれた「私」だ。


 そうして私――キャスリーン・エッジワースは、学園を、家を、出奔した。






 3


 キャスリーンは旅に出た。

 家人も連れず、ただ一人で。

 武者修行である。いずれリュドミラを襲うであろう怪異を断つ、降魔の剣を磨くためである。

 キャスリーンに武術の覚えはない。しかし幼年期に試行した様々な確認の結果、己の万能的な身体能力と、この身がしごけばしごくほどに伸びるポテンシャルを秘めているという事実には気付いていた。

 であれば、この身は武者修行に耐え得る。

 であれば、やがて天下の剣にも手が届く。

 であれば、悪鬼羅刹にも組み合いうる。

 であれば、――――推しリュドミラを救い得る。

 自分が主人公キャスリーンならば、然もありなん。


 キャスリーンの修行は、苦難の連続であった。まるで神々がそうあれかしと囁いておられるかのように、様々な凶事、珍事に見舞われた。


 東に行けば、正体を無くした竜におびやかされる集落があり、その首を掻いて安らかにした。


 西に行けば、奴隷同然に扱われ、瞳から光を失った獣人たちに出くわし、その自由と誇りを取り戻すために剣を掲げた。


 北に行けば、邪悪な魔女の姦計に人心を惑わされた王国があり、王国最後の良心となった家臣団とともに魔女を討ち果たした。


 南に行けば、大陸全土の生命を喰らおうとする病魔の目覚めを察知し、精霊の力を借りてこれを封じ込めた。


 平坦な道のりではなかった。

 つらく、苦しい道のりであった。

 それならば、なぜそんな道行きを来たのか。

 自分を善人だと思ったことはない。

 ましてや英雄などもっての外で、正義の何たるかもわかりはしない。

 ただ、進むか退くかで迷ったとき、見過ごすか、手を握るか、迷ったとき。

〝私にはそれができる〞と、魂が叫ぶ声に耳を傾け、それに従ったのだ。

 たこだらけで、分厚くなった手のひら。

 顔と言わず、腕と言わず、傷だらけの肌。

 荒くれ者たちと渡り合うために、命を侮辱する敵に立ち向かうために、荒んでいくものもあった。

 言葉遣いも、立ち振る舞いも、今や破落戸ごろつき同然で、とても令嬢のそれではない。

 もっと別の生き方もできただろうと、思わない日は無かった。

 血の小便が出るほどの鍛練。

 骨が砕け、はらわたは破け、何度今わの際をさまよったかわからぬほどの果て無き闘争。

 それでも心のままに歩んできたこと、キャスリーンは胸を張れる。


 推しあのかたのためと歩み始めた道は、今となってはキャスリーン自身の生き方に変わっていたのだった。

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