苔玉とウイスキー

 私の家には小振りの苔玉が二つ、本棚の上でちょこんと並んで座っている。高さはそれぞれ十センチくらいで、一方は白い陶器の器に、もう一方はガラスの器に入っていて、それぞれ丸い苔の塊から何本かの茎を伸ばしている。陶器の方の茎にはつるつるとした葉が付いており、サーフボードのようなぷりっとした形状の葉の中心に一筋だけの葉脈が走っている。茎の中心あたりから枝分かれして外側に開くように生えている葉は、茎の先端にゆくほど若く、みずみずしい薄緑になる。先端の、おそらく最近生まれたばかりの小さなものは、赤子の爪のようで柔らかで少し光を透かしている。

 もう一方、ガラスの器に入っている方は、陶器のものに比べるといくらか直線的な見た目をしている。陶器のほうの葉は上から見ると茎から不規則な方向にそれぞれの葉を伸ばしているが、こちらは茎に沿って二枚一組になり左右にVの字を書くように伸びていて、その二枚の葉の間にまた次の葉が二枚一組で生えている格好である。葉は薄くペラペラとしており、うっすらとした葉脈が葉の先端に向けて平行に何本も伸びている。品種の違いのせいか、同じように水を与えているもののガラスの方の葉は陶器のものに比べるといささか元気がない。五本あるうちの一つは枯れかけており、かさかさとした乾いたは葉が柳のようにしだれて下を向いている。もっとも、これは私がこれを譲り受けたときにはもう枯れかけていたように思うけれど。またガラスの器の中で最も背の高い茎は葉を開いておらず、堅くまっすぐな茎が天に向けてすくっと伸びている。先端は少し綻んでいて、ここから葉が開いていくのだろうと期待していたのだけれど、ふた月ほど経ったが未だ葉を開かせる様子はない。

 それぞれの根元にある球体の土台は、表面を短いモールのような苔に覆われていて、それらはもじゃもじゃとしたパーマのごとく外側にはねている。乾いている時には鮮やかな深緑色だが、水を与えると茶黒く濁り、また乾くにつれて深緑色に戻っていく。水を吸った苔玉は、茎を持つとそれなりにずっしりと重くなるが、乾くと途端に軽くなるので、私は二、三日に一度ほど茎を持ち上げてみて、軽ければ水を与えるようにしている。

 さて、私はこれらの苔玉を引っ越し祝いとして知人から譲り受けたのだけれど、その知人というのがこれまたかなりの変人なのである。彼女は大学の二つ年上の先輩に当たるのだが、植物が好きで日頃から草木や苔を公園なんかで採取していて、噂によると生活に苦しい時は育てた苔なんかを茹でて食べてしのいでいるらしい。本人に確かめたことはないが、苔について熱に浮かされたように語る彼女を見ていると、真偽はともかくやりそうではある、と思う。

 そんな彼女から、渾身の苔玉を作ったので是非見に来てほしいと誘いを受けたので、引っ越し祝いのお礼を兼ねて彼女の家に遊びに行くことにした。私も彼女も酒飲みだから、手土産に赤ワインを持参したところ、玄関口で出迎えてくれた彼女は手をたたいて大げさに喜び早速飲もうと言い出したので、せっかくだからと宅配ピザを頼むことにした。

 それでくだんの渾身の苔玉についてだけれど、これは部屋に入ってすぐにこれかとわかった。なにせ途方もなく大きいのだ。十畳ほどのリビングの中央にどんと置かれたそれは、土台の苔玉の部分だけでも高さが五十センチほどあり、横幅は私が両腕を回しても抱えきれないであろう巨漢である。またそこから伸びる茎もこれまた太く、何本もの茎がうねうねと螺旋状に絡まり天井まで伸びている。そして天井に成長を阻まれて反り返り、幾重にも分かれして垂れている枝には手のひらよりも大きな水玉のような葉が無数に付いていて、まるで噴水が飛沫を上げているかの様相だった。

 私は一通りその大きな苔玉についての感想を彼女に伝え、彼女がその制作についての長い苦労話をしているところに折良くピザが届いたので、大きな苔玉の脇の小さなローテーブルで宴会を始めることにした。

 ワインを開けてマルゲリータ・ピザを頬張りながら巨木を眺めていると、彼女は台所からウイスキー角瓶の業務用サイズの容器を持ってきた。中には琥珀色の液体がたっぷり入っていたので、ハイボールでも作るのかと思っていると、彼女はおもむろにウイスキーを苔玉になみなみ注ぎ始めたのである。液体肥料を空き容器に入れているだけかもしれないとも思ったけれど、つんと鼻を刺激する香りは紛れもなくウイスキーのそれだった。なんてもったいない!

「なにしてるんですか」

「こうするとね、お酒を吸った葉からとってもいい香りが漂うのよ」

そう言って彼女は二リットルほどあったウイスキーをすべて注ぎきってしまった。あっけにとられている私をよそに、彼女は自分の分のワインをグラスに注いで飲み始めた。

 私は彼女の奇行を気にしないことにして、マルゲリータ・ピザにタバスコをかけていると、さわさわと葉が揺れて始めていることに気がついた。最初は微かな風になびいているような動きだったのが次第に大きくなり、垂れていた枝も血がかよったように上へと持ち上がり始めた。そしてそれは天井に這うように広がり、部屋一面が緑のテントに包まれるようになったとき、ふわりと暖かな空気が私を包み込んだ。

 それはとてつもなく強烈な香りだった。何年もかけて熟成された古いウイスキーの中に溺れているような、それでいて深い森の奥で深呼吸をする時のようにみずみずしく新鮮なその空気は私の肺のをたちまちに満たして、肺胞の毛細血管から瞬く間に血中に溶け込んでゆく。そうして広がった血管を通って身体中を巡ったあとには、熱い吐息となって吐き出され、一層部屋に満ちた香りを濃くさせていく。

「とても素敵な香りでしょう。本当はブランデーなんかを飲ませてあげるともっと甘い香りになるのだけれどね」

彼女の声は遠くこもって聞こえた。もはやまっすぐ座っていることすら難しくなった私は、床に倒れ込み目を閉じた。ゆっくりと息を吸うと強烈な香りが鼻孔を通り肺に流れ込む。血液が沸騰しているかのように手足の先まで熱くなり、頭は朦朧として既に何も考えられなくなっていた。

 息を吸って吐くことだけに意識を集中していると、苔玉もまた私のように深く呼吸をしていることに気がついた。苔に溢れんばかりに染みこんだウイスキーは根から吸い込まれ、太くうねった茎を昇って葉にたどり着くと、今度は葉脈を通って葉先まで巡ってゆく。そして葉の裏側の、見えない無数の気孔から空気に滲ませるように少しずつその気化した酒精を吐き出しているのだ。そうしてそれを今度は私が胸いっぱいに吸い込んでいる。私の身体は今や、苔玉の吐息で満たされた。

 もっと深く味わいたいと、私は這うようにして苔玉ににじり寄った。心臓は身体中にその苔玉からの養分を送り出すべく暴れるように鼓動している。ワイングラスが倒れて割れる音がした。

 苔玉に近づきその大きな球体に腕を回すと、ひんやりと濡れた塊が私の皮膚の熱を急速に奪っていっく。けれど同時に私の身体の奥底には、燃えるように熱いなにかあることを知った。おなかの真ん中あたりから湧き出たそれは、だんだんと胸を昇ってくる。私はかつて感じたことのない幸福の中で、苔玉に向けてマルゲリータ・ピザだったものを勢いよく吐き出した。

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掌編小説 鈴音 @suzune1994

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