掌編小説

鈴音

傘を広げる

 ガス配管の定期点検があるというものだから休日を指定して来てもらったけれど、昼前にやってきた作業着姿の男は流しの下の元栓を確認するだけですぐに帰って行った。私はこの点検に立ち会うために朝の八時に起きてシャワーを浴び、シンクにたまった洗い物を片付けてフローリングにモップをかけ、おそらく使わないであろうトイレまできれいに掃除をしたというのに。

 昨日の夜から雨が降っていて、作業着姿の男の肩には水滴が付いていた。問題なさそうなのでサインだけください、と淡泊で事務的なやりとりを交わしていった男は、この後も他の家をこうやって回っていくのだろか。

 短い時間とはいえ他人が入り込んだ部屋はどこかよそよそしく、落ち着かない感じがした。あるいは普段の生活の中で澱んでいた空気がかき回されて、表層の澄んでいた部分まで濁ってしまったような感覚。雨空のせいで薄暗い部屋の中は静かで、窓の外から雨粒が跳ねる微かな音だけが不規則なリズムを響かせている。なんだかそわそわしてのんびりできそうにないな、と思って出かけることに決めた。


 私の住んでいるマンションの前には小さな公園があって、そこを抜けるとアーケードの付いた商店街が駅前まで伸びている。だから傘をさすのは公園の中を歩く少しのあいだだけでいいのだけれど、私は傘をさすのが苦手で、いつも気が抜けない。

 風の向きに合わせて傘を傾けていると、傾けた逆側の服や鞄に飛沫が付いているし、膝から下、特に靴なんてどう頑張っても濡れて染みになってしまう。

 だけど今日は、男性用の大きな傘をさしているのでそんな心配とは無縁だ。黒いつるつるとした布地は私の頭上でテントのように広がり、小柄な私の身体をすっぽりと包むように覆っている。雨は好きではないけれど、この安心感はなかなかいいものだ。すこし気分がよくなって、いたずらに傘を回しながら歩いた。

 公園には小学生くらいの男の子が二人、水たまりで遊んでいた。サンダルで水たまりに飛び込み、飛沫をあげて喜んでいる。一応小さな黄色と青の傘をそれぞれさしてはいるが、それすらも雨粒を集めるように反対向けにかざして遊び道具にしていた。

 無邪気だな、と思う。

 横を通り過ぎる時、振り回した黄色い傘から飛沫が飛んで、私の服に少しかかった。彼らは気づかないまま二人ではしゃぎ合っている。私は水滴を軽く払って、そのまま通り過ぎた。いちいち気分を悪くするのも、今日という日には似合わない気がした。

 商店街に入って傘をたたみ、そのまま駅に向かった。ここまで来たら濡れる心配はもうない。服にかかった水滴は染みて、黒くなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る