49話

彼女が取り落とした日記帳をまじまじと見つめる。大学ノートみたいなものではなく、日記専用のものだ。ページを捲ると、あの子らしい綺麗な字で、今年の1月1日のことが綴られていた。


…内容は、特に大したこともないと言ったら失礼だが、本当に何でもない、普通の日記だった。まさかこの何ヶ月か後に死ぬ人間が書いたとは思えない、ありきたりなものだ。


今年の1月。俺は無感情に日々を過ごしていた。元旦も、冬休みも、課題や予習以外は何もしていないと言っても過言ではないほどに。


あの子にとっては、そうでもなかったみたいで、本当に些細なことまで記録している。それについて、どう思ったかみたいなことまで。

だから、あの子の日記は読むのに時間がかかった。…一つでもヒントを探そうと思ったら、尚更。


2月16日。気になる記述があった。2日前は彼氏にチョコレートを渡した、みたいな高校生らしい話をしていたのに、この日の日記は雰囲気が違った。


その時が来てしまった。…厳密に言えば、その時が来ると分かってしまった。


それは、俺達が持ち得る情報と照らし合わせたら、病気に関する記述に他ならなかった。その時、というのも、多分そういうことだと思った。

あの病室の子、という記述もある。…恐らく、これは石川ゆきのことだ。


あの病室の子と、それからもう一人。神様なんかいるもんか、と何度も唱えた子。私達は、普通の人よりずっとずっと、軽い命で生まれてきたことを、許せはしないんだろう。


…次の日には、もう普通のことを書いている。あの子の終活が始まったのは、きっとこの日だったんだろう。

それから先も、別に内容は変わらなかった。俺と出会って、季節が一度移り変わって、もう一度変わる前に、あの子の日記は終わっていた。


余っているページの方が多いくらいの日記は、あの子が死んだ日で止まっている。つまり、あの子は死ぬ直前まで、これを書いていたということだ。

涙の跡があったり、後悔を綴っていたり。そんなことは全くなかった。最終日の記述は、今までで一番短い。


常々考えていたことを、実行したいと思う。こんなに短い人生の中で、私は大きくなりすぎてしまった。私が私を終える時に、誰かが悲しむことになるなんて考えたこともなかった。

ごめんなさい。そしてさようなら。


あの子の人生は、この5行で纏められてしまうようなものだったんだろうか。…俺にとってそれは、悲しいことだった。


彼女みたいに、涙を流せるわけではなかった。ただ胸に穴が空いてしまって、それを埋められずに。飲み込まれてしまうほどのその穴を、呆然と見つめていた。


「…だから、私は貴方達に対して何もしなかったの」


いつの間にか、俺達の後ろにはあの子のお母さんがいた。


「あの子は最後まで…自分の世界を広げようとはしていなかったのよ」


現実を突きつけられる。…だけど、自分の娘が大病を患って、明日も知れない身になって。それでも少しでも幸せでいて欲しいと願っていたはずの立場の人間が、一番それを辛いと思ったはずだ。


「…私、何の為にあの子を産んだのか、今の今まで不安だった」


あの子のお母さんは、涙ながらに言う。


「だけど、あの子自体は空っぽでも…あの子を想う人が、少しでもいたら。あの子が生きていたことを、良かったと思ってくれたら。それだけで私は…」


その先は、いつまで待っても聞こえてはこなかった。…言えなかったのか、言わなかったのか。俺には判断がつかない。


あの子の部屋を後にする前、DVDプレイヤーを見つけた。俺が貰っていいか聞くと、どうぞ貰っていって、と言われた。


…もう二度と来ることはないであろう部屋のドアを閉めて、未だ泣き崩れる彼女に肩を貸しながら、自分の部屋に戻っていく。


外付けの階段は、1階から6階までよりも錆びているように思う。すぐにでも替えた方がいい。そう思いながら、その階段を降りていく。


あの子にとっては自殺という行為すらも、後片付けみたいなものなのかもしれなかった。特に覚悟を決めることもなく、それを済ませたのだと思った。あの子の死について俺達が立てた仮説の内、一番最初に排除した可能性こそが、真相だったのだと知った。


…それだけ、だったんだ。

心に空いた穴は広がり続けていて、その前に立つ俺は吸い込まれてしまいそうになる。でもそれでいいとすら思えた。無気力に、無感情に、ただ穴を見つめている。


これが、絶望というものなんだと思った。望みを絶たれる。それは諦めの境地みたいな感情で、人はそれに直面した時、咽び泣くわけでも怒り狂うわけでもなく、何もしなくなる。そんなものなんだと、知った。そしてこれはきっと、あの子の最後の教えだと思った。


…俺の方が、成長しすぎてしまったんだ。同じくらい空っぽで、同じくらい消えそうだった俺達は、他に行き場がないと分かっていた。一人暮らしには無駄に広いあの部屋が、終点なんだと決め付けていた。あの子がその認識のまま死んでしまったという、それだけの事だった。


空は快晴だ。雲の上にある青が、この世の果てみたいに見える。…実際は、そうでもないんだろうけど。

余計なことを考える頭は、どんどん回るようになる。それは大事なことを考える心が、機能を停止してしまったから。


俺達が、あの子の死を乗り越えようと思ったら。まず最初にあの子の部屋に行くべきだったなぁ。自分自身に、そんな皮肉を言う。

今、あの子が死んだことなんて考えていなかった。今日は平日で、これから彼女と部屋に戻って、しばらくしたらお別れする。そんな、いつも通りの今日について考えていた。


…あの子が死んだ理由は、俺達が考え得る限りで、一番簡単なものだった。単に、人より軽い命を投げ捨てただけだった。

思ったより遠くまで飛んでいくなぁ。そんなふうに思ったんだろうか。俺はそれに対して怒りも感じないほど、絶望の淵に立たされていた。


部屋に戻ると、桐野が駆け寄ってきた。…それから俺達の顔を見て、何かを察してくれた。


「…おかえりなさい」


桐野は一言そう言うと、俺の持っていたDVDプレイヤーをTVに繋いだ。それからケースに入っていたディスクをセットして、再生ボタンを押す。


「…これで最後だから。頑張って、ね」


俺と彼女をソファに座らせて、桐野はダイニングの椅子に座った。…何であんなに離れるんだろう。一緒に見たらいいのに。

ぼんやりとそんなことを思っているうちに、よく知る顔のあの子が、よく知る声で話し始めた。

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