46話

目が覚めると、雨が降っていた。鈍色の雲が、辺り一面を埋めている。

強雨ではない、だけど傘を差さなくていいほどではない、微妙な空模様だった。


彼女はまだ眠っていた。俺は起こさないように、そっと寝室の襖を閉めた。


何だか、全てを振り出しに戻した気分だ。飾りを一つ一つ外しながら、そう思う。観ようと思って観れなかった映画の上映期間が、いつの間にか終わっていたような。そんな虚無感を感じていた。


だけど、そんなものだ。始めた事にはいつか、必ず終わりが来る。あっという間に過ぎていく青春みたいに。


昨日まで、変わらない日々を過ごすつもりだった。踏み出した数歩を、なかったことにするつもりだった。

白昼夢みたいな一ヶ月間だったね。そう言って、彼女を家まで送るつもりだった。


何かを見過ごしているような。そんな気持ちだけが、俺の中にはあった。

俺はベランダに出て、煙草を吸った。…思えばここが、全ての始まりだった。あの日、あの子の死を疑問に思った、その瞬間が。


俺の人生は、俺が息絶えた時、やっと一枚の葉になる。生まれてから生きることを選んで、成長することを選んで、逃げることを選んで、進むことを選んだ。いくつもの選択の集合体。

はいを選んだのも、いいえを選んだのも勿論、他ならぬ自分自身だ。いくつもの選択肢が一本の幹から2つに分かれていく。その片方を選びながら、今までを生きてきた。


それはまるで、一本の木みたいだ。そのどこに葉をつけるかは、自分にも分からない。だけどどこかに必ず葉をつける。人生は終わるというより、実ることに近いのかもしれない。


柵から下を覗き込む。あの子が死んだ公園の木々は、雨に打たれて葉を落とした。…あの子は自分の人生の、どこに葉をつけたんだろう。その時、自分の選択肢を悔いたり、他の可能性を考えたりしたんだろうか。


結局、分からなかった。あの子が何を考えて、何を思いながら死んでいったのか。…分かるはずがないと、最初から知っていたのに。今はそれを、悔しいと思う。


すぐそこに答えがあるはずだった。あるいは、そう思いたいだけなのかもしれない。どちらにせよすぐそこまで来ているという勝手な想像は、溢れ出しそうなほど俺の頭を埋めていた。


あの日冷めた目で見た公園は、今日の空みたいに暗い色をしていた。あの日より枯れ葉が増えたはずの公園の木々すら、色とりどりに見えるのに。


季節は移ろう。命は終わる。思いは…少しずつ、小さくなっていく。それが自然の摂理というもので、それに抗おうと思うことを、あの頃の俺なら何と言うだろう。…多分、こんな言葉を使うんだろうな。


こんなことしても、意味は無いんだ。


あの頃の…と言っても、たった一ヶ月前だ。30日と少しの経験で、俺はこんなにも変わった。それがいいことなのかどうかを、誰かに判断してもらったことはないけれど。


俺は、今の自分に納得している。これでいいと思っている。だから多分、これでいいんだ。


「…おはようございます、薊さん」


彼女は眠そうに、カラカラと窓を開けた。俺は煙草の火を消して、彼女におはよう、と声を掛けた。…あの子がいた頃は、こんなことで火を消したりしなかった。

彼女は柵に両手をついて、空を眺める。


「雨、ですね」


俺も同じように返す。


「雨、だね」


彼女はそれ以上、何も言わなかった。俺も何も言わず、ただ空を眺めた。…当たり前だけど、広い。

俺達は随分早起きをしてしまったようで、まだ空は暗かった。


やっとカラスが鳴き始めて、薄い壁越しに良くない声が聞こえてくる。

久しぶりだ。こんな風に、俯瞰的な視点を持つのは。

近くの工場からは、煙が立ち上っている。…そして公園の木々は、相変わらずまっすぐ立って、ただ雨を受け止めている。


当然一ヶ月では、それは変わらなかった。勿論、何年後かにはなくなってしまうんだろうけど。

だけどなくなってしまうことを、見えないようにしているわけじゃないということは、この一ヶ月で学んできた。


見えないようにしているわけじゃなくて、見えていないんだ。何かに囚われて、何かに縋り付いて、何かに追われて。人はそうやって生きているから、些細な変化に鈍感になっていく。


…あの子の死だって、関わりのない人から見たら、些細な変化以外の何者でもない。ドアを開けて閉める音が一つ減るだけだ。


俺はそれを、取り残されているとは思わなくなった。寧ろ積極的に、流されないようにしているのだ。時間という名の海の上で。


あの子が死んだ場所も、そこから外れた一軒家も、駅も空も。同じ世界で、何も変わりはない。日常という系統の色を付けられた、風景画の一部だ。


あの子を想って生きることが、あの子のことを考えることが。例え間違いだとしても、全人類に責められるようなことであったとしても。俺はそれを考え続ける自分を肯定できるし、そうでありたいと思える。


自分の人生なんだ、結局。誰かの目を気にすることも、誰の目も気にしないことも。全て選択肢の内の一つで、自分がいいと思う方を取ればいいだけだ。それに後悔するのも、また人生なんだし。


未来のことは読めないから、過去から学ぼうとする。

過去には戻れないから、未来に向かっていく。


壁にぶつかりながら、報われない自分を嘆きながら、それでも諦めなかった先に何があるか。俺はそれを見たいと思う。


だから、また振り出しに戻っても、同じ道を歩むだけなんだ。いつか思ったことを、また思う。


いつまでも、もう戻らない人に想いを募らせたところで、何も残らないとわかっている。

それでも、残してしまった想いが、懺悔が、俺にはあるのだ。


その想いや懺悔の上を背負って、俺は歩き続けるのだ。


わからないことだらけの未来を、自信をもって生きられるだけの今日にしないといけない。

そのために、この想いは背負っていかなくちゃいけないんだ。


…一ヶ月前とは、少し違っているかもしれない。でも、今思っていることが、俺の全てだ。たった一秒前の過去ですらも、帰ることはできないんだから。


思い返してみれば夏の終わりから冬の始まりまでの、たった一ヶ月程度の時間の中で、たくさんの物を得た。

…回想に浸っていたら、腹の虫が鳴いた。

そうだ。今日も、スペイン風オムレツを食べよう。

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